9 / 58
捨てた男
しおりを挟む
笑い続ける玲子に、孝志はあざけるように言った。
「なんだ、お前ってそんなに俺が好きだったのか? その割にはあっさり別れを承諾したじゃないか。泣いて縋るなら捨てないでやったものを」
「私にだってプライドはあるわ。あの時決めたのよ。私が味わった屈辱を倍にして返すってね。あなただけ幸せになるなんて絶対に許さないわ」
「じゃあ大成功だな。おめでとう」
そう吐き捨てた孝志に、玲子は冷たい視線を投げつけた。
子供をベッドに戻してから、孝志は実家に電話をした。
裕子と別れたことや子供が生まれたことを、なるべく冷静に伝える。
明日の朝こちらに向かうという両親に、来週になったら自分が行くと告げた。
便箋を取り出し辞表を書く。
この会社に就職するためにやった努力の日々が、走馬灯のように脳裏を駆け巡った。
翌日には会社に辞表を提出し、その足で離婚届を取りに行く。
息子の親権者欄には自分の名前を記入し、酔って帰ってきた玲子に離婚届を突きつけると、鼻歌を歌いながら何の迷いもなく名前を書いた。
「もう二度と会うことはない。この子にも会わせない」
「ええ、全部私の思い通りね」
「今週中には出て行くよ。ベビー用品は全て持っていくから、後は好きに処分してくれ」
「あなたの物は残さないでね。気分が悪いわ。裕子さんもそうしたんだから、あなたもきっちりそうしてちょうだいな」
もう一言も話す気になれず、孝志は寝室に入って鍵をかけた。
酔ったまま風呂に入ったのだろう玲子が、寝室のドアを開けることは無かった。
朝起きると、玲子はすでにいなかった。
子供を保育所に連れて行き、その足でホームセンターへ向かう。
数個の段ボール箱と、コロ付きのボストンバッグをカートに入れ、レジに並んだ。
レンタカー会社に電話して、チャイルドシート付の乗用車を手配する。
乗り捨て料金が思いのほか高かったので、返却プランを選択した。
預かってもらえる時間までには荷造りを終えたいと思い、コンビニでむすびとお茶を買って家路を急ぐ。
段ボール箱を組み立てながら、裕子もこんな気持ちだったのだろうかと考えた。
「いや、こんなもんじゃないよな……もっと最低な気分だったはずだ……裕子……どこにいるんだ? 会いたいよ……」
時計を見ると午後三時を過ぎていたが、孝志は涙を止めることができなかった。
ひとしきり泣いた後、ベビー用品だけはなんとか荷造りをして保育所に向かう。
急な退所を詫び、預けていた布団などを受け取った。
「重たくなったな。明日からは賑やかになるぞ。俺がちゃんと育ててやるからな」
胡坐の中でならお座りができるようになり、離乳食を食べさせるのも楽になった。
レトルトのベビーフードを皿に移し、自分は買ってきたむすびを頬張る。
玲子は全て持っていくように言っていたが、そんなことなど気にする必要はない。
ベビー用品と数日分の着替えだけを詰めた。
その夜、玲子は戻ってこず連絡もない。
このところ外泊する日が増えていたので今更なのだが、このまま母子を別々にして良いのだろうか……しかし、本人がそれを望んでいるのだと思い直し、息子の横で目を閉じた。
そして翌朝、かずとに離乳食を食べさせた孝志は、レンタカーに乗り込んだ。
幸いなことに息子はぐずることもなく、運転中ずっと眠っていた。
通常なら車なら3時間もあれば到着するが、乳児を乗せていることも考えて安全運転を心がけつつ、頻繫に休憩も取った。
「ただいま」
このところ帰っていなかった実家は、思っていたよりずっと古びた印象に驚いた。
奥からパタパタとスリッパの音がして、孝志の母親が出迎える。
「……お帰りさない。その子なの?」
「うん、かずとっていうんだ。一人と書いてかずとと読ませるんだよ」
「そう……まあ早く上がりなさい。赤ちゃんは私が抱くわ」
「荷物があるんだけど、雄二はいないの?」
「いるわけ無いでしょう? 働いてるのよ?」
「ああ、そりゃそうか」
「あんた、仕事は?」
「辞めてきた。辞めるしか無かったんだ」
リビングから父親が顔を出した。
「帰ったか……こっちに来い」
「うん……」
初めて見る孫を戸惑いながらも受け取った母親の前を通り、リビングに向かう。
孝志は自分のやらかしの酷さを十分に理解しているつもりだったので、殴られる覚悟はしていた。
「まあ座れ。お前も疲れただろう」
予想外の労う言葉に、かえって孝志は戸惑った。
「父さん……俺……」
「後でゆっくり聞くよ。もう終わったことだが、裕子さんには俺たちからも謝らなくてはいけない」
孝志は父親の言葉に涙が込み上げた。
「部屋はそのままだ。そこを使え」
そう言うと父親は孝志を残して出て行った。
ふと見るとレンタカーを返却する時間が近づいている。
「俺レンタカーを返しに行かなくちゃいけないんだ。だから戻って来るのが夜中になるんだけど、それまでこいつを頼みたいんだ」
「乗り捨てにしてないのか? 今から東京に戻るなんて無茶だろう。子供も可哀そうじゃないか。今から変更できんのか? だめなら1日延長にして明日返すようにすればいい。明日なら俺でも雄二でも一緒にいってやれる」
「わかった。連絡してみる」
なんだかんだと言い訳をしてまで避けていた家族の優しさに、言いようのない気持ちが込み上げる。
「なんだ、お前ってそんなに俺が好きだったのか? その割にはあっさり別れを承諾したじゃないか。泣いて縋るなら捨てないでやったものを」
「私にだってプライドはあるわ。あの時決めたのよ。私が味わった屈辱を倍にして返すってね。あなただけ幸せになるなんて絶対に許さないわ」
「じゃあ大成功だな。おめでとう」
そう吐き捨てた孝志に、玲子は冷たい視線を投げつけた。
子供をベッドに戻してから、孝志は実家に電話をした。
裕子と別れたことや子供が生まれたことを、なるべく冷静に伝える。
明日の朝こちらに向かうという両親に、来週になったら自分が行くと告げた。
便箋を取り出し辞表を書く。
この会社に就職するためにやった努力の日々が、走馬灯のように脳裏を駆け巡った。
翌日には会社に辞表を提出し、その足で離婚届を取りに行く。
息子の親権者欄には自分の名前を記入し、酔って帰ってきた玲子に離婚届を突きつけると、鼻歌を歌いながら何の迷いもなく名前を書いた。
「もう二度と会うことはない。この子にも会わせない」
「ええ、全部私の思い通りね」
「今週中には出て行くよ。ベビー用品は全て持っていくから、後は好きに処分してくれ」
「あなたの物は残さないでね。気分が悪いわ。裕子さんもそうしたんだから、あなたもきっちりそうしてちょうだいな」
もう一言も話す気になれず、孝志は寝室に入って鍵をかけた。
酔ったまま風呂に入ったのだろう玲子が、寝室のドアを開けることは無かった。
朝起きると、玲子はすでにいなかった。
子供を保育所に連れて行き、その足でホームセンターへ向かう。
数個の段ボール箱と、コロ付きのボストンバッグをカートに入れ、レジに並んだ。
レンタカー会社に電話して、チャイルドシート付の乗用車を手配する。
乗り捨て料金が思いのほか高かったので、返却プランを選択した。
預かってもらえる時間までには荷造りを終えたいと思い、コンビニでむすびとお茶を買って家路を急ぐ。
段ボール箱を組み立てながら、裕子もこんな気持ちだったのだろうかと考えた。
「いや、こんなもんじゃないよな……もっと最低な気分だったはずだ……裕子……どこにいるんだ? 会いたいよ……」
時計を見ると午後三時を過ぎていたが、孝志は涙を止めることができなかった。
ひとしきり泣いた後、ベビー用品だけはなんとか荷造りをして保育所に向かう。
急な退所を詫び、預けていた布団などを受け取った。
「重たくなったな。明日からは賑やかになるぞ。俺がちゃんと育ててやるからな」
胡坐の中でならお座りができるようになり、離乳食を食べさせるのも楽になった。
レトルトのベビーフードを皿に移し、自分は買ってきたむすびを頬張る。
玲子は全て持っていくように言っていたが、そんなことなど気にする必要はない。
ベビー用品と数日分の着替えだけを詰めた。
その夜、玲子は戻ってこず連絡もない。
このところ外泊する日が増えていたので今更なのだが、このまま母子を別々にして良いのだろうか……しかし、本人がそれを望んでいるのだと思い直し、息子の横で目を閉じた。
そして翌朝、かずとに離乳食を食べさせた孝志は、レンタカーに乗り込んだ。
幸いなことに息子はぐずることもなく、運転中ずっと眠っていた。
通常なら車なら3時間もあれば到着するが、乳児を乗せていることも考えて安全運転を心がけつつ、頻繫に休憩も取った。
「ただいま」
このところ帰っていなかった実家は、思っていたよりずっと古びた印象に驚いた。
奥からパタパタとスリッパの音がして、孝志の母親が出迎える。
「……お帰りさない。その子なの?」
「うん、かずとっていうんだ。一人と書いてかずとと読ませるんだよ」
「そう……まあ早く上がりなさい。赤ちゃんは私が抱くわ」
「荷物があるんだけど、雄二はいないの?」
「いるわけ無いでしょう? 働いてるのよ?」
「ああ、そりゃそうか」
「あんた、仕事は?」
「辞めてきた。辞めるしか無かったんだ」
リビングから父親が顔を出した。
「帰ったか……こっちに来い」
「うん……」
初めて見る孫を戸惑いながらも受け取った母親の前を通り、リビングに向かう。
孝志は自分のやらかしの酷さを十分に理解しているつもりだったので、殴られる覚悟はしていた。
「まあ座れ。お前も疲れただろう」
予想外の労う言葉に、かえって孝志は戸惑った。
「父さん……俺……」
「後でゆっくり聞くよ。もう終わったことだが、裕子さんには俺たちからも謝らなくてはいけない」
孝志は父親の言葉に涙が込み上げた。
「部屋はそのままだ。そこを使え」
そう言うと父親は孝志を残して出て行った。
ふと見るとレンタカーを返却する時間が近づいている。
「俺レンタカーを返しに行かなくちゃいけないんだ。だから戻って来るのが夜中になるんだけど、それまでこいつを頼みたいんだ」
「乗り捨てにしてないのか? 今から東京に戻るなんて無茶だろう。子供も可哀そうじゃないか。今から変更できんのか? だめなら1日延長にして明日返すようにすればいい。明日なら俺でも雄二でも一緒にいってやれる」
「わかった。連絡してみる」
なんだかんだと言い訳をしてまで避けていた家族の優しさに、言いようのない気持ちが込み上げる。
307
お気に入りに追加
763
あなたにおすすめの小説
【完結】もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?
冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。
オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・
「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」
「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」
どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします
文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。
夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。
エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。
「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
エレーヌは凍り付いた。
【取り下げ予定】愛されない妃ですので。
ごろごろみかん。
恋愛
王妃になんて、望んでなったわけではない。
国王夫妻のリュシアンとミレーゼの関係は冷えきっていた。
「僕はきみを愛していない」
はっきりそう告げた彼は、ミレーゼ以外の女性を抱き、愛を囁いた。
『お飾り王妃』の名を戴くミレーゼだが、ある日彼女は側妃たちの諍いに巻き込まれ、命を落としてしまう。
(ああ、私の人生ってなんだったんだろう──?)
そう思って人生に終止符を打ったミレーゼだったが、気がつくと結婚前に戻っていた。
しかも、別の人間になっている?
なぜか見知らぬ伯爵令嬢になってしまったミレーゼだが、彼女は決意する。新たな人生、今度はリュシアンに関わることなく、平凡で優しい幸せを掴もう、と。
*年齢制限を18→15に変更しました。
王子を身籠りました
青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。
王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。
再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。
【完結】お飾りの妻からの挑戦状
おのまとぺ
恋愛
公爵家から王家へと嫁いできたデイジー・シャトワーズ。待ちに待った旦那様との顔合わせ、王太子セオドア・ハミルトンが放った言葉に立ち会った使用人たちの顔は強張った。
「君はお飾りの妻だ。装飾品として慎ましく生きろ」
しかし、当のデイジーは不躾な挨拶を笑顔で受け止める。二人のドタバタ生活は心配する周囲を巻き込んで、やがて誰も予想しなかった展開へ……
◇表紙はノーコピーライトガール様より拝借しています
◇全18話で完結予定
断る――――前にもそう言ったはずだ
鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」
結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。
周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。
けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。
他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。
(わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)
そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。
ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。
そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?
私のドレスを奪った異母妹に、もう大事なものは奪わせない
文野多咲
恋愛
優月(ゆづき)が自宅屋敷に帰ると、異母妹が優月のウェディングドレスを試着していた。その日縫い上がったばかりで、優月もまだ袖を通していなかった。
使用人たちが「まるで、異母妹のためにあつらえたドレスのよう」と褒め称えており、優月の婚約者まで「異母妹の方が似合う」と褒めている。
優月が異母妹に「どうして勝手に着たの?」と訊けば「ちょっと着てみただけよ」と言う。
婚約者は「異母妹なんだから、ちょっとくらいいじゃないか」と言う。
「ちょっとじゃないわ。私はドレスを盗られたも同じよ!」と言えば、父の後妻は「悪気があったわけじゃないのに、心が狭い」と優月の頬をぶった。
優月は父親に婚約解消を願い出た。婚約者は父親が決めた相手で、優月にはもう彼を信頼できない。
父親に事情を説明すると、「大げさだなあ」と取り合わず、「優月は異母妹に嫉妬しているだけだ、婚約者には異母妹を褒めないように言っておく」と言われる。
嫉妬じゃないのに、どうしてわかってくれないの?
優月は父親をも信頼できなくなる。
婚約者は優月を手に入れるために、優月を襲おうとした。絶体絶命の優月の前に現れたのは、叔父だった。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる