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55 引っ越し

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「手伝いに来ましたよ。しかもお土産付きです」

 伊藤夫妻が荷解きをしていると、勝手口から藤田の明るい声が響いた。

「おう! 帰ったか。どうだった? 新婚旅行は」

 伊藤が出迎えると、藤田の後ろでにこやかな女性がペコッと会釈をした。

「ああ、君も来てくれたのか。助かるよ、まだ片付いてないが上がってくれ」

 藤田が差し出したお土産を受け取りながら、伊藤が勧める。

「お邪魔します。ああ、けっこう広いんですね」

「まあ、広いといっても2LDKさ。リビングが南向きで全部の部屋とふすまで仕切られているから、広いワンルームにできそうだと妻は喜んでいるよ」

「ここで始まるんですね……」

「ああ、ここで親子3人暮らしていく」

「警らのバディはもう来たのですか?」

「いや、まだ決まってないらしい。前任者の引っ越しは済んでいるから、そのうち来るだろうよ」

 藤田は少しだけ下に視線を落とした。
 奥の部屋から伊藤の妻が顔を出し、藤田の妻が挨拶をしている。
 藤田もペコっと頭を下げた。

「息子さんは?」

 藤田の声に伊藤が振り向く。

「埃が立つと拙いんだ。片付くまでは入院させてもらってる」

「そうですか。じゃあさっさと片付けちゃいましょうね。早く会いたいでしょ?」

「ああ、会いたいよ。毎日この手で抱きしめて、飯を食わせて、風呂に入れてやりたいさ。そして川の字で寝るんだ。きっと楽しいぞ」

「ええ、楽しそうですね……俺、段ボールを出してきます」

 藤田が涙を隠すように外に出た。
 新婚旅行から帰ったばかりの新妻は、伊藤の妻と一緒に食器を包んでいた緩衝材を剝がしている。
 伊藤がその出世と引き換えに手に入れた日常。
 毎日必ず家に戻れる安心感と、温かい妻の手料理、そして息子の笑顔。
 そのすべてが今の伊藤にとっては涙が出るほど愛おしい。

 課長が無理をするほどのこともなく、伊藤は希望通り妻の実家にほど近い場所にある駐在所へ勤務することができた。
 病気を抱える子供のことを考慮してくれたのか、異動日から2週間は近隣の警察署から通いの警察官が来てくれることになっている。

「たった2年か……」

 冬服が入った衣裳箱をそのまま押し入れに収めながら、伊藤はふとそう呟いた。

 若い2人が加勢してくれたお陰で、荷解きもあらかた終わり、お礼も兼ねて夕食をという事になった。
 ベテラン妻と新米妻が張り切って買い物に出掛けて行く。
 力仕事を担当していた男たちは、浮腫んだ足を縁側に投げ出して缶ビールを開けた。

「大どんでん返しでしたね」

「ああ、最初から斉藤雅也にコロコロ転がされたようなもんだ」

「小夜子さん、明るくなりましたよね。憑き物が落ちたような顔してますもん」

「会ったのか?」

「ええ、山中さんと一緒に署に来ましたよ。代官山のなんとかっていうケーキを持って、迷惑をかけたからって言って。あのケーキすげえ旨かった。課長なんて2個食ってましたもん」

「そうか。俺も会いたかったな」

「会えますよ」

 伊藤が顔を上げた。

「小夜子さんに? なぜ?」

「伊藤さんが異動した話をしたら、いつでも連絡してくださいって言ってました。それから、なんでもお話ししますから、なんでも聞いて下さいって」

「そうか……本当に憑き物が落ちたのかもしれないな」

「その時は同席させてくださいね。たぶん課長も来たがると思います」

「それならこっちが行くよ。バディが決まるまでは通いが来てくれるから時間はとれるんだ」

「わかりました。場所と時間が決まったらお知らせします」

 2人は何も言わずただ缶ビールを飲んだ。

「そう言えば山本医師はどうした?」

「小夜子さん達より遅れて帰国したのですが、山中さんの話によると廃人のようになっているそうです。若院長は死ぬまで入院させつもりらしいと言っていました」

「なんと言うか……気持ちはわからんでもないな。50億ドルが一瞬で5ドルだぜ? おかしくもなるよ。そういやあ、インドネシアどうだった?」

「食いもんはまあまあって感じですかね。貧乏旅行だったので揚げた鶏肉かナシゴレンか、バッソっていう肉団子入りのラーメンばっかり食ってました。2日ほどバリ島にも行きました」

「バリ島って小夜子さんの?」

「ええ、きれいなところでした。南の海はかなり荒いですが、北側は静かで透き通ってましたね。それが頼んでもいないのにリムジン付きのガイドが空港からずっとアテンドしてくれて、なんか大金持ちになったような気分を味わいました」

「おいおい! 見ず知らずの人に着いて行ったのか? お前……お母さんに習わなかった? 知らない人には着いて行っちゃいけないんだぞ?」

 伊藤が笑いながら揶揄った。

「それは習いましたけど……空港で待ち構えていて『ラトゥ・アリランジャルニ・サヨコの遣いの者です』って言うから、あながち知らない人ってこともないかなって。小夜子さんからの結婚祝いだと言われたんで、有難く頂戴することにしました。だって凄いんですもん。一生もんの思い出ですよ」

「どう凄かったんだ?」

「ホテルのグレードが信じられないくらい高くなっていて、もちろん食事も豪華で。俺なんか今自分の口に入っているのが何なのか分からない料理ばかりでした。彼女も喜んじゃって。お陰様でその夜は盛り上がりましたよ。へへへ」

思い出し笑いをする藤田を、伊藤は温い目で見た。

「バカか……お前」

 引っ越し祝いのすき焼きに舌鼓を打ち、藤田たちは帰っていった。
 翌朝、伊藤がサッシを拭き上げていると小夜子との会合の日時を知らせる電話が鳴った。

「おい、明日出掛けてくる」

 伊藤の声に妻はにこやかな微笑みで頷いた。
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