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トーマスが声を出す。
「父上、マリアは眠っていますので静粛に願います。頭を強く打っていて、当分の間動かすことができません。私が泊まりこんで看病いたしますのでご心配なく。意識が戻りましたら早馬を飛ばしましょう」
二人の義母である女性が、目に涙を浮かべながら夫の胸に縋っている。
その姿を冷たい目で見ながら、トーマスが再び父親に退出を促した。
「あ……ああ、わかった」
妻を連れて医務室を出る侯爵夫妻を見送りながら、アラバスがボソッと言った。
「相変わらずのようだな」
「ええ、早いこと引退してもらわないと」
「追い出せば良いじゃないか」
「そうは言いますが、今はまだ彼が当主ですからね。まあ、マリアが嫁いだ後には動きます」
「面倒だな」
「ええ、本当に面倒なことですよ」
アスター侯爵家の実情は少々複雑だった。
トーマスとマリアを産んだ母親は、マリアが三歳になる前に病死している。
すぐに迎えられた後妻が当主夫人として二人を育てたことになってはいるが、実際に育てたのは、領地にいる祖父母だった。
当時七歳になっていたトーマスは貴族学園の初等部入学と同時に入寮させられた。
その初等部で知り合ったのがアラバスとアレンだ。
一方のマリアは、まだ母親が必要な年齢だったにも関わらず領地で暮らすことになった。
前王妃の侍女長として王宮に出仕していた祖母は、王家にも嫁げるほどの厳しい教育を幼いマリアに施した。
休暇の度に帰ってくるトーマスとの再会だけを心の頼りに、マリアは厳しい躾けに耐え抜いたのだ。
そしてマリアが十歳になった時、半ば強引に王都へ戻され、第一王子の婚約者候補試験に臨まされ、最年少でありながら見事に合格した。
それを機に侯爵家のタウンハウスで暮らし始めたマリアだったが、父と義母が好き勝手にしている屋敷はとても居心地が悪く、辛い日々を送ることになる。
それを知ったトーマスは、すぐに退寮し実家に戻ることにした。
トーマス十四歳、マリア十歳の年のことだ。
アスター侯爵に商才は無く、先祖が残した財を食い潰していくだけのような存在で、その後妻となった女性は、誰よりも大きな宝石で着飾ることしか考えていない。
それでも正式な継承者は父親なのだ。
まだ学生のトーマスとマリアは耐えるしかなかった。
初等部からの付き合いもあり、成績も優秀だったトーマスとアレンは、第一王子の側近試験を突破し、卒業後の進路も安泰だ。
トーマスが学園を卒業する前年に祖父が、その半年後に祖母がこの世を去ると、以前にも増して遊び歩くようになった父と義母には呆れるしかなかったが、マリアが嫁ぐまではと我慢していた。
マリアの寝顔を見ながら過去の沼に入り込んでいたトーマスを呼び戻したのは、アラバスの声だった。
「動かせるようになったらマリアを王子妃の部屋に移す」
トーマスが顔をあげた。
「いや、待ってくれ。王子妃の部屋ではなく客間を用意してくれないか。でないと僕がついていることができない」
「問題ないさ。トーマスはあと一年で俺の義兄になるんだぞ?」
「ダメだよ。僕は王族じゃないんだ。居住区には入れない。それにマリアもまだ王族じゃないんだ。無茶を言うなよ」
「どうしてもダメか?」
「どうしてもダメだ」
幼馴染ならではの気安い会話も、マリアの安らかな寝顔を見たからこそ交わせるものだ。
「わかった」
「ああ、頼むよ。どちらにしてもあの家には戻せない」
「もちろんだ。あんな親の元に帰したのでは、治るものも治らん」
二人は目を合わせてフッと息を吐いた。
廊下から小走りする足音が聞こえ、数回のノックの後ドアが開く。
「拙いぞ、該当者がいない」
そう言って入ってきたのは、件の令嬢を探しに行ったアレンだった。
「どういうことだ?」
アラバスが怪訝な表情を浮かべた。
「言った通りだよ。会場に残っている令嬢たちの顔は全部確認したが、該当者はいなかった。すでに帰宅した者たちを把握するために侍従長と一緒に名簿も確認したが、その全員の顔は思い出せたんだ」
「紛れ込んでいたというのか? 間者だろうか……王宮の警備を搔い潜ってまでマリアを害する必要があるとは思えないが」
アラバスの言葉にトーマスが頷いた。
「ああ、うちは貧乏侯爵家だ。嫡男の僕が次期王の側近であり、その妹マリアが次期王妃という立場ではあるが、これらは公平な試験の結果だし、その事は貴族の誰しもが納得していることだ。今更嫉妬とか有り得んだろう」
アレンが顎に手を当てて言う。
「そうとは限らんぞ。お前はともかく、マリア嬢の場合はまだ幼い頃に決まったことだ。当時は事の重要性に気づかず、今になって後悔しているバカもいるかもしれない。マリア嬢を害すればとって代われるなんて妄想をして……」
アラバスが呆れたような声を出した。
「バカなことだ。俺が必要なのは、対外的に評価を得るほどの美貌と、俺が相談できるほどの頭脳を持った伴侶だ。そこに愛だとか情だとかを期待しているとでも思っているのだろうか? まだまだ俺も甘く見られているという事だな」
知っていたとはいえ、可愛い妹の夫となる男が吐いた現実的な言葉に、トーマスは目線を下げた。
アレンが眉間の皺を深くしながら口を開く。
「確かにわが国の王家は、その辺りを割り切っているよな。しかし、そのすべてを持ちながらも、愛すべき存在となりえるのがマリア嬢だ。だからこそアラバスの唯一無二なのだろう?」
アラバスが不思議そうな顔をアレンに向けたが、何も言うことは無かった。
眠り続けるマリアの表情が、苦しげでないことだけが救いだとトーマスは思った。
「父上、マリアは眠っていますので静粛に願います。頭を強く打っていて、当分の間動かすことができません。私が泊まりこんで看病いたしますのでご心配なく。意識が戻りましたら早馬を飛ばしましょう」
二人の義母である女性が、目に涙を浮かべながら夫の胸に縋っている。
その姿を冷たい目で見ながら、トーマスが再び父親に退出を促した。
「あ……ああ、わかった」
妻を連れて医務室を出る侯爵夫妻を見送りながら、アラバスがボソッと言った。
「相変わらずのようだな」
「ええ、早いこと引退してもらわないと」
「追い出せば良いじゃないか」
「そうは言いますが、今はまだ彼が当主ですからね。まあ、マリアが嫁いだ後には動きます」
「面倒だな」
「ええ、本当に面倒なことですよ」
アスター侯爵家の実情は少々複雑だった。
トーマスとマリアを産んだ母親は、マリアが三歳になる前に病死している。
すぐに迎えられた後妻が当主夫人として二人を育てたことになってはいるが、実際に育てたのは、領地にいる祖父母だった。
当時七歳になっていたトーマスは貴族学園の初等部入学と同時に入寮させられた。
その初等部で知り合ったのがアラバスとアレンだ。
一方のマリアは、まだ母親が必要な年齢だったにも関わらず領地で暮らすことになった。
前王妃の侍女長として王宮に出仕していた祖母は、王家にも嫁げるほどの厳しい教育を幼いマリアに施した。
休暇の度に帰ってくるトーマスとの再会だけを心の頼りに、マリアは厳しい躾けに耐え抜いたのだ。
そしてマリアが十歳になった時、半ば強引に王都へ戻され、第一王子の婚約者候補試験に臨まされ、最年少でありながら見事に合格した。
それを機に侯爵家のタウンハウスで暮らし始めたマリアだったが、父と義母が好き勝手にしている屋敷はとても居心地が悪く、辛い日々を送ることになる。
それを知ったトーマスは、すぐに退寮し実家に戻ることにした。
トーマス十四歳、マリア十歳の年のことだ。
アスター侯爵に商才は無く、先祖が残した財を食い潰していくだけのような存在で、その後妻となった女性は、誰よりも大きな宝石で着飾ることしか考えていない。
それでも正式な継承者は父親なのだ。
まだ学生のトーマスとマリアは耐えるしかなかった。
初等部からの付き合いもあり、成績も優秀だったトーマスとアレンは、第一王子の側近試験を突破し、卒業後の進路も安泰だ。
トーマスが学園を卒業する前年に祖父が、その半年後に祖母がこの世を去ると、以前にも増して遊び歩くようになった父と義母には呆れるしかなかったが、マリアが嫁ぐまではと我慢していた。
マリアの寝顔を見ながら過去の沼に入り込んでいたトーマスを呼び戻したのは、アラバスの声だった。
「動かせるようになったらマリアを王子妃の部屋に移す」
トーマスが顔をあげた。
「いや、待ってくれ。王子妃の部屋ではなく客間を用意してくれないか。でないと僕がついていることができない」
「問題ないさ。トーマスはあと一年で俺の義兄になるんだぞ?」
「ダメだよ。僕は王族じゃないんだ。居住区には入れない。それにマリアもまだ王族じゃないんだ。無茶を言うなよ」
「どうしてもダメか?」
「どうしてもダメだ」
幼馴染ならではの気安い会話も、マリアの安らかな寝顔を見たからこそ交わせるものだ。
「わかった」
「ああ、頼むよ。どちらにしてもあの家には戻せない」
「もちろんだ。あんな親の元に帰したのでは、治るものも治らん」
二人は目を合わせてフッと息を吐いた。
廊下から小走りする足音が聞こえ、数回のノックの後ドアが開く。
「拙いぞ、該当者がいない」
そう言って入ってきたのは、件の令嬢を探しに行ったアレンだった。
「どういうことだ?」
アラバスが怪訝な表情を浮かべた。
「言った通りだよ。会場に残っている令嬢たちの顔は全部確認したが、該当者はいなかった。すでに帰宅した者たちを把握するために侍従長と一緒に名簿も確認したが、その全員の顔は思い出せたんだ」
「紛れ込んでいたというのか? 間者だろうか……王宮の警備を搔い潜ってまでマリアを害する必要があるとは思えないが」
アラバスの言葉にトーマスが頷いた。
「ああ、うちは貧乏侯爵家だ。嫡男の僕が次期王の側近であり、その妹マリアが次期王妃という立場ではあるが、これらは公平な試験の結果だし、その事は貴族の誰しもが納得していることだ。今更嫉妬とか有り得んだろう」
アレンが顎に手を当てて言う。
「そうとは限らんぞ。お前はともかく、マリア嬢の場合はまだ幼い頃に決まったことだ。当時は事の重要性に気づかず、今になって後悔しているバカもいるかもしれない。マリア嬢を害すればとって代われるなんて妄想をして……」
アラバスが呆れたような声を出した。
「バカなことだ。俺が必要なのは、対外的に評価を得るほどの美貌と、俺が相談できるほどの頭脳を持った伴侶だ。そこに愛だとか情だとかを期待しているとでも思っているのだろうか? まだまだ俺も甘く見られているという事だな」
知っていたとはいえ、可愛い妹の夫となる男が吐いた現実的な言葉に、トーマスは目線を下げた。
アレンが眉間の皺を深くしながら口を開く。
「確かにわが国の王家は、その辺りを割り切っているよな。しかし、そのすべてを持ちながらも、愛すべき存在となりえるのがマリア嬢だ。だからこそアラバスの唯一無二なのだろう?」
アラバスが不思議そうな顔をアレンに向けたが、何も言うことは無かった。
眠り続けるマリアの表情が、苦しげでないことだけが救いだとトーマスは思った。
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