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 兄は希望通り北大に進学することが決まり、学舎に近い場所にある学生用アパートに入ることになった。
 そこは1階が食堂になっていて、入居者のほとんどは北大生なのだそうだ。
 食の確保ができれば妹としては安心できる。
 まるで姉になったような気分だ。

 入学式には両親が揃って出席することになった。
 そしてあの日以来、父さんはとても頑張って母さんに話しかけている。

「今更感が半端ない……」

 今日も頑張っている父を見ながら言った私の言葉に、兄は何度も頷いた。

「まあ、同じ家に暮らして、同じ職場で同じような仕事をしてるんだ。話題が無くて当たり前だよ」

「そりゃそうだね。今日の出来事さえ、喋る前に共有されてるもんね……」

 私たちはそっと溜息を吐いた。
 ふと兄が真剣な顔をする。

「あと1年だ。ここからが勝負だぞ」

「うん、頑張るよ」

「それともうひとつ。来週一週間は洋子とおばあ様の二人だけだ。しかもお前は春休みだ」

 一瞬だが、気が遠くなるような感覚に襲われた。

「……」

「おばあ様は、お前が思っているほど怖くもないし、強くもない。いいチャンスだと思って話しをしてみろ」
 
 ソウデスネ ガンバリマス

「それと、これはお前にやる。付箋が張ってあるところは重点的にやっておけ。絶対に損はしないから、逃げずにやり遂げろ」

 それは兄が使い込んだ参考書の山だった。
 一冊手に取ってみると、ページが黒ずんでいるところがある。
 きっと何度も何度も繰り返し開いたページなのだろう。
 
「お宝だ……完璧な地図をゲットしたトレジャーハンターになった気分だ!」

「ははは! 落とし穴も書いてあるから、しっかり頭に入れろ。ガンバレよ、洋子」

「うん、ありがとう。お兄ちゃんも頑張ってね」

「俺は楽しみしかないからな。心残りがあるとすると、お前の麦茶が飲めないことくらいだ」

「安っ!」

 家族揃ってとる最後の夕食は、兄のリクエストですき焼きだった。
 柏原さんが空港まで送ってくれることになったようで、私とばあさんに手を振った兄は、颯爽と会社のロゴが入ったワンボックスに乗り込んだ。

「行ってきます!」

 みるみる遠ざかる車をばあさんと二人で見送るのは、なんだか妙な気分だった。

「洋子、昼は素麵がいい」

「はい。12時からでいい?」

 頷いたばあさんが事務所に入っていく。
 ばあさんはあと10年を受け入れたのだろうか。
 父さんは出て行くのだろうか。
 最近の雰囲気から考えると、父さんが出て行くなら母さんもついて行きそうな感じだが。
 兄が家を出てまだ10分というところだろうか……すでに恋しい。

「洋子が作る麵つゆは少し甘いね」

「そう? 習った通りにしてるんだけど」

「私が恵子に教えたのはもっとシャキっとしてる。これはお前の父さん好みの味だよ」

「へぇ……」

「いつからこの味になっていたんだろうね……気付かなかったよ」

 兄の助言で、私はばあさんに敬語を使うのをやめてみたのだが、ばあさんは何の問題もなく受け入れている。

「母さんもいろいろ気を遣ってたんだろうね」

 ばあさんがフンッと鼻を鳴らした。

「不器用な子だよ。俊介も恵子も」

 ばあさんの口から父の名前を聞くのは久しぶりだった。
 いつも『婿さん』か『部長』だったもんね。
 私に言わせれば、ばあさんも十分に不器用だ。
 絶対言わないけど。
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