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泣いて抱き合っている両親を見ながら兄が言った。
「ねえおばあ様、一つ提案なんだけど。俺はどうしても獣医になる夢を捨てたくない。卒業まで6年はかかるし、そこからも研修医として経験を積む必要がある。だからあと10年の時間が欲しい。おばあ様に第一線で10年頑張ってほしいとは言わないよ。だから10年ほどは会長としてご意見番役をやってくれないかな。その間に見極めてもらってっさ、この夫婦じゃ無理だと思ったら、柏原さんにワンポイントリリーフを頼むって言うのはどう? 俺が帰るまでの間だけの」
ばあさんが顔を上げた。
私は心の中で『鬼ババア』と呼んでいたこの人の、こんな顔は初めて見た。
「10年……長いね。私を幾つだと思ってるんだ」
「おばあ様はまだ若いさ。だってまだ70でしょ?」
「69だよ」
兄が楽しそうな笑顔を浮かべた。
「69なんて今どき現役じゃないか。満田会長なんてもうすぐ80になるんじゃない?」
「会長は81だね……あと10年か……優紀さん、お前が獣医になりたいという夢を持っているのはわかったよ。でもその先はどうするんだい? 辞めて戻って来るのかい?」
「辞めないよ。この家の近くで開業する。そうだ、近所の良い物件があったら抑えておいてよ。俺が開業するまでは倉庫として使っても良いじゃない?」
「倉庫……確かに今のままでは手狭だから探してはいるけれど。優紀さん、二足の草鞋が履けるのかい?」
「大丈夫さ。きっと洋子も手伝ってくれる。ね? 洋子ちゃん」
私はギロッと兄を睨んだ。
「こんな時だけ『ちゃん付け』とかずるいよ? この際だから私の夢も言っておくね。おばあ様、私は学校の先生になりたいの。できれば高校の先生が良いなって思ってる。そのためにも
京都にある女子大に行きたいと考えています」
ばあさんが驚いた顔をした。
「洋子……お前までここを出て行くって言うのかい?」
「出て行くんじゃないよ。勉強をするためにちょっとの間、離れるだけ。戻って来るよ? だって私はこの家が大好きだもん」
「帰ってくるつもりはあるんだね?」
私はコクコクと何度も頷いた。
ばあさんは目を丸くしながら、口をポカンと開けている。
「何もかも……思い通りにはならないねぇ」
私はパンッと手を叩いた。
「ご飯にしましょう! 今日はお兄ちゃんの合格祝いだから、約束通りステーキです!」
私は勢いよく立ち上がった。
さっきまで泣いていた母が顔を上げる。
「そうね……準備しようか。洋子も手伝って」
「うん、着替えてくる」
リビングを出てドアを閉めた。
勢いで宣言したが、まだ心臓がどくどくと跳ねている。
父さんと母さんにそんな秘密があったなんて……多感なお年頃としては、なかなかハードな経験だった。
準備をしている間にばあさんが入浴を済ませ、兄に声を掛けている。
そのまま部屋に向かうのかと思ったら、冷蔵庫を開けてビールを取り出した。
「洋子、コップを三つ持ってきて」
ビールグラスをお盆に乗せてリビングに行くと、ばあさんと父さんが向かい合って座っているではないか! スワ、カマクラ! と緊張したが、どうやら違うようだ。
父さんの前に置いたグラスに、ばあさんがビールを注ごうとすると、瓶を取り上げて父さんがばあさんに継いだ。
「いろいろ心配をかけました」
今度はばあさんが父さんに注ぐ。
「どうも私たちは言葉が足りてないみたいだね」
二人は少しだけグラスを持ち上げる仕草をして、ビールをごきゅごきゅと飲んだ。
「どうやら時代が変わったみたいだ。私はもう口は出さない方が良さそうだね」
「違いますよ。確かに時代は変わったけれど、変わっていない事もたくさんあるし、変えちゃいけない事もたくさんあります。間違えていたのは私の方です。てっきり恵子に嫌われているとばかり……」
ばあさんが突っ立っていた私に声をかけた。
「恵子を呼んでおいで。後は洋子だけでできるだろ?」
後は肉を焼くだけの状態までできているので、私は頷いて台所にいる母さんを呼んだ。
暖簾の隙間から覗いていると、母さんが父さんの横に座るのが見えた。
そんな些細なことで安心した私は、思わず拳をグッと握ってしまった。
風呂上がりの兄が、髪をタオルで拭きながら台所に入って来る。
「なにごと?」
「シッ!」
口の前で人差し指をたてて、目線でリビングを示す。
兄妹で盗み聞きとは、なかなか穏やかじゃない。
父さんが母さんにビールを注いでいる。
私がニマニマしていると、兄が真顔で言った。
「もう十分だ。肉はまだか」
イエッサー! グレートブラザー!
「ねえおばあ様、一つ提案なんだけど。俺はどうしても獣医になる夢を捨てたくない。卒業まで6年はかかるし、そこからも研修医として経験を積む必要がある。だからあと10年の時間が欲しい。おばあ様に第一線で10年頑張ってほしいとは言わないよ。だから10年ほどは会長としてご意見番役をやってくれないかな。その間に見極めてもらってっさ、この夫婦じゃ無理だと思ったら、柏原さんにワンポイントリリーフを頼むって言うのはどう? 俺が帰るまでの間だけの」
ばあさんが顔を上げた。
私は心の中で『鬼ババア』と呼んでいたこの人の、こんな顔は初めて見た。
「10年……長いね。私を幾つだと思ってるんだ」
「おばあ様はまだ若いさ。だってまだ70でしょ?」
「69だよ」
兄が楽しそうな笑顔を浮かべた。
「69なんて今どき現役じゃないか。満田会長なんてもうすぐ80になるんじゃない?」
「会長は81だね……あと10年か……優紀さん、お前が獣医になりたいという夢を持っているのはわかったよ。でもその先はどうするんだい? 辞めて戻って来るのかい?」
「辞めないよ。この家の近くで開業する。そうだ、近所の良い物件があったら抑えておいてよ。俺が開業するまでは倉庫として使っても良いじゃない?」
「倉庫……確かに今のままでは手狭だから探してはいるけれど。優紀さん、二足の草鞋が履けるのかい?」
「大丈夫さ。きっと洋子も手伝ってくれる。ね? 洋子ちゃん」
私はギロッと兄を睨んだ。
「こんな時だけ『ちゃん付け』とかずるいよ? この際だから私の夢も言っておくね。おばあ様、私は学校の先生になりたいの。できれば高校の先生が良いなって思ってる。そのためにも
京都にある女子大に行きたいと考えています」
ばあさんが驚いた顔をした。
「洋子……お前までここを出て行くって言うのかい?」
「出て行くんじゃないよ。勉強をするためにちょっとの間、離れるだけ。戻って来るよ? だって私はこの家が大好きだもん」
「帰ってくるつもりはあるんだね?」
私はコクコクと何度も頷いた。
ばあさんは目を丸くしながら、口をポカンと開けている。
「何もかも……思い通りにはならないねぇ」
私はパンッと手を叩いた。
「ご飯にしましょう! 今日はお兄ちゃんの合格祝いだから、約束通りステーキです!」
私は勢いよく立ち上がった。
さっきまで泣いていた母が顔を上げる。
「そうね……準備しようか。洋子も手伝って」
「うん、着替えてくる」
リビングを出てドアを閉めた。
勢いで宣言したが、まだ心臓がどくどくと跳ねている。
父さんと母さんにそんな秘密があったなんて……多感なお年頃としては、なかなかハードな経験だった。
準備をしている間にばあさんが入浴を済ませ、兄に声を掛けている。
そのまま部屋に向かうのかと思ったら、冷蔵庫を開けてビールを取り出した。
「洋子、コップを三つ持ってきて」
ビールグラスをお盆に乗せてリビングに行くと、ばあさんと父さんが向かい合って座っているではないか! スワ、カマクラ! と緊張したが、どうやら違うようだ。
父さんの前に置いたグラスに、ばあさんがビールを注ごうとすると、瓶を取り上げて父さんがばあさんに継いだ。
「いろいろ心配をかけました」
今度はばあさんが父さんに注ぐ。
「どうも私たちは言葉が足りてないみたいだね」
二人は少しだけグラスを持ち上げる仕草をして、ビールをごきゅごきゅと飲んだ。
「どうやら時代が変わったみたいだ。私はもう口は出さない方が良さそうだね」
「違いますよ。確かに時代は変わったけれど、変わっていない事もたくさんあるし、変えちゃいけない事もたくさんあります。間違えていたのは私の方です。てっきり恵子に嫌われているとばかり……」
ばあさんが突っ立っていた私に声をかけた。
「恵子を呼んでおいで。後は洋子だけでできるだろ?」
後は肉を焼くだけの状態までできているので、私は頷いて台所にいる母さんを呼んだ。
暖簾の隙間から覗いていると、母さんが父さんの横に座るのが見えた。
そんな些細なことで安心した私は、思わず拳をグッと握ってしまった。
風呂上がりの兄が、髪をタオルで拭きながら台所に入って来る。
「なにごと?」
「シッ!」
口の前で人差し指をたてて、目線でリビングを示す。
兄妹で盗み聞きとは、なかなか穏やかじゃない。
父さんが母さんにビールを注いでいる。
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