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俺は息を止めてコーナーに進入していった。

充分、速度を落としたら、ハンドルにぶら下がり、わずかにスロットルを開けていく。

数ミリ単位のスライドを、浮かせた尻で感じながら。

ラインが見えたら起き上がり、アウトへ体を移動する。

リアのプレッシャーを軽くして、さらにスロットルを開けていく。

ここを越えたら呼吸ができる。

息をするまで少しの我慢

しかしこいつはポンコツだ。

いくらなだめても難しい。

リアが暴れてタイムアウト。
 
今日も前回と同じだった。






ゼッケンナンバー 79。

上から順番に目で追っていく。

俺の順位は、

俺の順位は、

四十二位!

ああ、またか。

また駄目だ。

くそ!

また予選落ちかよ。

パドックの掲示けいじボードにり出された紙を見て、顔中、汗まみれの鈴野すずの加寿也かずやは、空をあおいだ。

四月の下旬、良く晴れた日。

気温は二十四度まで上がっていた。

加寿也の短くり上げた耳元から、すーっと汗が首筋に流れ落ちる。

空は少し厚い雲がかかり、太陽が隠れるところだった。

風が少し吹いてきた。

パドックに植えられた新緑が、ゆらゆらと風になびき、さわさわと音を立てる。

ボードに貼られた予選順位の書かれた紙が、風でめくれ上がった。

参加台数、六十五台。

そして決勝進出は、四十位まで。

ゼッケン79、加寿也の順位は四十二位で、四十位との差は僅か一秒だった。

またあと一秒か。あと一秒縮まれば、難なく予選は通過できるのに。

くそ!

少し離れた場所では、予選を通過して喜ぶ男たちの歓声が聞こえていた。

加寿也は、くやしさを隠すことなく、ひきつった表情を、汗で汚れた顔いっぱいに出した。

もう少し金があれば。 

あと少しだけ金があれば、何とかなるのに。 

こんなアマチュアレベルのレース、金でどうにでもなるのだから。

その時、加寿也には聞こえない声が、耳元でささやいた。

「ほんとになあ。あともう少し金があったら、予選なんか、いくらでも通過できるのに。悔しいなあ。ああ、金が欲しいなあ」

何だ?

加寿也は一瞬、耳をそばだてた。

空耳なのか?

加寿也は風が何かしゃべったのかと思った。


1987年。

二十四歳の鈴野加寿也は、今年度から、250ccバイクのアマチュアレースに参加している。

資金力のとぼしい加寿也は、中古のレース車輌を買ったものの、大して金のかけていないマシンでは、予選を通過するのも容易ではなかった。

うなだれている加寿也に、にやにや笑いながら近づいてくる男がいた。

「鈴野、また予選落ちか? お前、もうちょっとしっかり走れよ。毎回これじゃあ、金と時間が無駄だぜ!」




MMS(丸井メカニックサービス)のメカニック兼チーム代表をしている丸井亜紀夫だった。

「これで開幕から二戦連続の予選落ちだな。お前、昨年の夏からここで走ってるんだろう?」
と嫌味っぽく言った。

「ええ、僕は昨年の八月からこのサーキットで練習しています」

「だったら、そろそろしっかりタイム出せよ。毎回こんなんじゃ、俺もやりがいがねえよ」

「すいません。次こそは必ず」
と加寿也は言った。

しかし、そう言ったものの、バイクのメンテナンス代金を払っているのは自分なので、なぜこいつにあやまらなければいけないのか、と思った。

加寿也は丸井のレーシングチームに所属している。

そして、マシンのメンテナンスも丸井にまかせていた。

とはいえ、加寿也は金を払っている。

そう、丸井は加寿也から金をもらっているのだから、加寿也はお客様ということだ。

俺は客だ。

客に金を払ってもらっているのなら、俺にもう少し誠実に接しろよ。

加寿也はそう思いながら、くちびるんだ。

その時、また声が囁いた。
「ほんと、こいつ鬱陶うっとうしいやつだよな。なぐりたいだろ?加寿也。こいつの頭、殴ってやれ」

再び誰かの声がしたように感じた加寿也は、はっとして、まわりを振り返った。

まわりには丸井しかいない。

丸井は相変わらず、にやにや笑って、こっちを見ている。

今の声は何だ?

まるで俺の気持ちに同調するように囁いてきた。

誰かが、俺の気持ちを代弁しているのか?

しかし、そんなことはあるはずがないと思い、
「ふん。あほらしい」
と、加寿也は丸井に聞こえないように小さくつぶやいた。





加寿也は、平日に配送のアルバイトをしながらレース活動をしている。

決められたルートで、自動車部品を運ぶだけの単純作業なので、給料は安かった。

手取りは十五万円ほど。

一人暮らしをしている加寿也の生活では、充分なレース資金は捻出ねんしゅつできなかった。

もう少し給料の良い仕事もあるにはあるが、仕事で体力を消耗しょうもうしてしまっては本末転倒だ。

レースどころではなくなってしまう。

もっと金があれば。

加寿也の頭の中では、いつも金の問題がめていた。

中古マシンを購入する際に、親に資金を立てえてもらったこともあるが、加寿也の家族は、バイクにもレースにもまったく関心がなかった。

加寿也は思った。

家族の応援を受けているやつがうらやましいよ。

俺も誰かの支援が欲しい。

タイムが出なくて落ち込んでいても、家族の支援や協力があれば、必ず力がいてくるだろうからだ。

また声が囁く。
「誰もお前のやることなんて興味ないんだよ。バイクもレースも、何の価値もないと思ってるのさ。くやしいだろ?情けないだろ?」

今度は、はっきり聞こえた。

加寿也は、声の言うとおりだと思った。

家族の誰も俺のことなんて関心がない。

それに、バイクでいくら走っても金になるわけじゃない。

加寿也の家族は、もうけにならないことには一切興味を示さなかった。

確かにこの声の言うことは当たっている。

加寿也はそう思った時、はっと我にかえった。

いったい、この声は何者なのか。

俺の頭はおかしくなったのか?

「お前、いったい誰なんだ?」
加寿也は、まわりに聞こえないように、そっと声に出した。

しかし、返事はない。

やはり、俺の空耳なのか?

いや、あまりにもはっきり聞こえたではないか。




自分の頭がどうにかなってしまったのか、といぶかった加寿也だが、あと片づけをしなくてはならないので、今は考えないことにした。

丸井は、友人のチームのサポートをするために、ツールボックスを持ってピットに向かった。

加寿也は、自分のレース用マシンを積載せきさいするために、小型トラックにスロープをかけた。

白ベースに、赤と黒のラインが入った加寿也のマシン。

そしてフロントとサイドに、ゼッケンナンバー79と、『MMS』のステッカーが貼られたマシンを積み込み、ロープで固定した。

あとは、のんびり午後からのレースをながめるだけである。

レース参加者が、自分のエントリーしたレースを観客席から見るのは、とてもみじめなことだ。

ああ、ほんとに、やってられないよ。

くさる気持ちをおさえて、加寿也は見晴らしの良い丘の上に登った。

そして、草の上に腰を下ろした。

相変わらず、風は強めに吹いている。

時折ときおり、太陽が顔を出すが、雲の流れが早い。

加寿也が、ふと頭を上げ、雲の流れを見ていると、細くて長い雲が、ひゅるひゅると、風に乗って頭上を横切っていく。

まるで蛇のように、細い雲が加寿也の頭上をっていた。

「何だあれ? まるで蛇みたい」

加寿也は少し笑みをもらしてそう言った。

しかし、加寿也の視線はそれに釘付くぎづけになり、大きく目を見張った。

ええ!?

あれは雲とは違うぞ!

青い空に数々の雲が流れている。

その中から、少しずつ浮かび上がってきた黒い物体。

笑みの消えた加寿也は、口をあんぐりと開けて、
「何なんだ、あれは」
と呟いた。




頭上を横切っている飛翔体ひしょうたいには、変な模様があった。

加寿也はまだそれから目を離せないでいた。

いや、模様というより、あれはうろこだろ。

そう、あれは魚の鱗だ。

黒く光る魚の鱗。

きらきら光っている。

でも、違う。

あれは魚とは違う。

あれは、確か、

あれは、確か、

ええ!?

でも、本当に!?

ああそうだ。

あれは、確かに、

あれは、確かに、
「り、龍だ!」

思わず声に出して叫んだ加寿也は、はっとして、まわりの様子をうかがった。

まわりの人間は、みんなそれぞれ話をしていたり、ぼうっとコースをながめていたりするだけで、空に浮かぶ龍には気づいていなかった。

そして、叫んだ加寿也の声も聞こえていないようだった。

目の前の空に、でっかく泳ぐ架空かくうの生き物。

百メートル。

いや、百五十メートルくらいはあるだろう。

ここにいる、すべての人間が気づくであろうはずが、誰ひとり驚く者はいない。

黒い鱗をくねらせて、ゆっくりゆっくり空を泳いでいる。

頭部には、ふさふさとした毛があり、大きな目をぎょろつかせていた。

長く伸びた口からは、白いきばがちらちら見え、細いひげえていた。

これは、加寿也が子供の頃に絵本で見たまんまの龍であった。

優雅に、そして神秘的に、黒くて大きな龍は空を泳いでいたのであった。




その光景は三分くらい続いただろうか。

加寿也が、ぼうっと見ていたのは、約三分。

龍は少しずつ白い雲におおわれてきて、やがてすうっと姿を消していった。

まわりの人間は、誰ひとりこの光景を見ていなかった。

何なんだ、今のは。

それに、なぜみんなは気がついていないのか。

あれほど大きなもの、すぐに目に入るはずなのに。

加寿也は、知らないうちに立ち上がっていた。

自分が立って空を眺めている状態に気がつき、腰が抜けたように、へなへなと座りこんだ。

しばらくすると、コースを走るマシンの音が聞こえてきた。

え!?

レースが始まるのはまだ先だろう?

レース開始まで、あと一時間ほどあるはず。

加寿也は自分の腕時計に目を向けた。

経過時間は、三分どころではなかった。

龍を見ていたのは、たった三分だと思っていたが、加寿也がここに来てから、約一時間がっていた。

どういうことだ?

これはいったい?

あの変な声といい、さっきの龍といい、俺の頭はどうにかなってしまったのか?

加寿也が、てのひらを頭に乗せると、耳元から、すーっと汗が流れてきた。

これは、もしかしたら、夢なのか?

そう、きっとこれは夢なのだ。

そう思うと、加寿也はきつく目をつむった。





目をつむって無心になった加寿也。

バイクの排気音、観客の声、いろんな音が耳に入ってくるが、なぜか加寿也の心を乱すことはなかった。

先ほどまで、加寿也の頭は混乱していた。

不安や恐怖で、思わず悲鳴をあげそうだった。

しかし今、加寿也の頭の中は静かだった。

外から音は聞こえているが、なぜか心も静かに落ち着いている。

そう、これは夢。

俺はもうすぐ目を覚ます。

ああ、夢の中って、何て気持ちがいいのか。

何かに乗っているように、体は軽い。

ふわふわと空中に浮いているような感覚だった。

ちゅんちゅん、とすずめの声が聞こえている。

あわい光がまぶた隙間すきまから入ってくる。

もうすぐ夜明けなのかな?

ああ、そうだ。

もう朝だ。

そろそろ起きようか。

加寿也は大きく欠伸あくびをして、ゆっくり目を開けていった。

その時、急に爆音が耳に入ってきて、加寿也は驚いた。

まわりの人間は、コースを見て歓声を上げている。

目の前を、先頭グループのマシンが走り抜けていき、2サイクルの金属音を響かせていった。

それから少しがあいて、セカンドグループが加寿也の前を走っていく。

どういうことだ?

夢ではなかったのか?

加寿也は腕時計を見た。

加寿也が目をつむったのは、ほんの数秒間のはず。

しかし、腕時計は、あれから二十分ほど経っていた。

そしてこの瞬間、レースは終了していた。


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