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第109話 備忘録CaseVIII・蛹から蝶へ

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「また、知らない天井かよっ」

 ゆっくりと瞼を開き、目に入った無機質な白い天井を見たチハルは誰知らず、呟いた。
 誰も傍にいないとの思い込みもあったからか、つい汚い口調になっていたことに本人も気が付いていない。

「チハル!」
「あれ? ママ? じゃあ、ここは……」

 まさか、すぐ傍に母親のヨウコがいたとは思ってもいなかったチハルはいささか狼狽える。
 ヨウコの涙腺が今にも堤防を決壊しそうな勢いだったからだ。

 何がどうなったのか。
 ぐるぐると落ち着きがない己の思考を恨みながらもチハルは、何とか考えをまとめようとするがどうにも要領を得ない。
 ついには堤防が決壊したヨウコに強く抱き締められ、チハルもとりあえず、今は深く考えることを諦めた。

 色々と考えたいことがあっても今はただ、考えることなく、母親に甘えたかった。
 そして、母親に謝りたい。
 今はただ、それだけがチハルの望みだった。



 ヨウコが落ち着きを取り戻し、チハルがようやく静かに考えられる時間が持てるようになったのは彼女が目を覚ましてから、三日の後のことである。
 チハルはヨウコの心配性にも程がある狼狽えた様子に苦笑を隠せない。

 真相はそれほどに深刻なことではなかった。
 チハルは飲み会で飲みすぎが祟ったのだろう。
 階段で足を滑らせた。
 幸い、階段から落ちたとはいえ、たかだか数段を踏み外しただけに過ぎない。
 頭部を打った可能性を考慮し、精密検査をしただけだったのである。

 チハルは自室のベッドから、空に浮かぶ丸い月を見ながら、物思いに耽る。
 もっとも衝撃を受けたのは実際にのは僅か数時間の出来事だったという事実である。
 あの一年間は何だったのだろうかと自問した。
 言葉も通じない人ではないモノ達と恵まれない不自由な暮らしを強いられながら、つくづくと考えさせられたのが如何に己が恵まれた環境で生きていたのかという突きつけられた。
 ヨウコから愛を一身に受けていながらもそれを無碍にしていた己をただ、恥じるだけだった。

 それまで神など一切、信じていなかったチハルは典型的な日本人気質だった。
 無宗教、無神論であると自認しながらも初詣に行き、神様にお願いをするいささかの矛盾した気質だ。
 考えを改めざるを得なかった。
 単なる夢で片付けるにはあまりにも生々しく、身につまされる思いを感じた。

 これはきっと、不可思議な力でやり直す機会を与えられたのに違いない。
 チハルがそう考えるのも無理のないことだった。



 親不孝な自分を戒めようと己を省みられるようになったチハルは変わった。
 悪い意味で変わったのではない。
 幼き日の純粋な彼女の心を取り戻し、より魅力的な女性になったと言うべきだろう。
 本来、自分が目指していたのは何であったのか。
 それをはっきりと認識したチハルは生まれ変わったように変わったのだ。

 ライブ配信のスタイルもこれまでのものから、変容した。
 ため口と呼ばれるやや馴れ馴れしさを売りとした口調に変化はない。
 距離の詰め方もコミュ力お化けと呼ばれていた頃と変わらない。
 大きく異なるのは相手への接し方だった。
 相手を見下していると取られる不遜な態度が見られなくなった。

 チハルは派手な顔立ちではなく、どちらかと言えば、地味で特徴のない容貌をしている。
 コミュニケーションを売りにしている以上、メイクは戦場に出る武器の一つと言っても良かった。
 独学でメイクの技術を学んだチハルはその腕を磨いた。
 元のセンスの良さもあったのだろう。
 別人を作り上げられるまでその域を高めた。

 これまでの親不孝を恥じたチハルはどうやって、親孝行するのかを考えた末、奇想天外な手法を取る。
 メイクを利用したヨウコのである。
 ヨウコにメイクアップする様子をライブで配信した。
 彼女から受けた愛を返すべく、渾身の思いでメイクを施した。
 自分を育てる為、女性であることを捨て、身を粉にして働いてきた母親の失われた時を取り戻したいとの思いを込め……。

 四十代のヨウコがともすれば、二十代に見える。
 メイクは成功した。
 しかし、すぐに無駄になったという意味では失敗なのかもしれない。

 心の壁が取り払われた親娘の間に何の遠慮もなかった。
 あっという間に色々な液体で崩れていくメイクを物ともせず、固く抱き締め合う親娘の姿にコメント欄も感動の嵐に包まれた。

 時に迷惑系YoTuberと揶揄されることもあったチハルが、ハートウォーミング系YoTuberへと転じた瞬間である。
 以降、提灯小僧の『プーちゃんTV』とチハルの『タダちゃんTV』のコラボレーション企画が幾度も行われる。
 やがて、チャンネル登録者数が百万人を突破した『タダちゃんTV』は『歌姫リリー』の準ファミリー扱いとなるのだが、それはまた別の話である。
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