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(49)咲夜17歳 『救い』

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 深夜。
 机に向かっていた咲夜は、ふと顔を上げた。

 足を引きずるような音が廊下から聞こえてくる。
 金属音が混ざっていないから、鎧騎士ではなく時津彦の足音だろう。
 最近、体を蝕む黒い蛇がさらに増えたらしくて滅多に部屋から出てこないのに、こんな時間に歩きまわるなんて珍しい。
 咲夜がそう思っていると、弱々しいノックの音が聞こえてきた。

「なにー?」

 開けられたドアの方を振り向くと、時津彦が黒い蛇を数匹まとわりついた顔を覗かせていた。

「クソガキ、今いいか?」
「いいけど……。クソ五代目、夜見ると軽くホラーだよ、それ」
「あぁ、すまん」

 時津彦は手で顔に付いた蛇を払ったが、その手の方にも何匹も蛇がこびりついている。

「で、何か用?」
「別れを言いに来た」
「へ、別れ?」
「翡翠にな」
「翡翠様に?」

 時津彦は、咲夜の自室の壁に掛けられている翡翠様の絵の前まで無遠慮に歩み寄った。

「ちょ、触んないでよ」
「分かっている。いや……翡翠はもう俺の眷属じゃねぇ。たとえ俺が触っても、もう何も起きねぇはずだが」

 翡翠様は『きさら堂』の仮の主人の役目から外され、しかも、時津彦とは違う絵師・咲夜の描いた絵に宿った。完全に時津彦との縁が切れているのは、咲夜も分かってはいたのだが……。

「それでも、万が一ってこともあるでしょ」
「未熟なクソガキよりも、創造主の俺に心残りがあるとか?」
「それは無い」

 100パーセントの自信を持って咲夜が首を振ると、五代目は面白そうに少し笑った。

「まぁ、いつもこんな表情を見せられてりゃ断言できるか」
「うん、まぁね……」

 咲夜は時津彦と一緒に翡翠様の絵を見上げた。

 翡翠様は全身で咲夜への愛を告げている。
 その美しく優しい微笑みは、こんこんと無限に湧いてくる豊かな泉を思わせた。

「まだ絵から出てくる気配はないのか」
「ぜんぜん。あやかし館の神様達は、とにかく気のすむまでゆっくり休ませてやれって言ってた。翡翠様は体が痩せてしまうくらいにひどく消耗していたからって」
「もしかしたら、クソガキがよぼよぼの爺さんになった頃に、やっと出てくるのかもしれねぇぞ」

 からかうような時津彦に、咲夜は真剣な目を向ける。

「俺も絵のあやかしになろうかな」
「簡単に言うな」
「俺には出来ないと思う?」
「いいや、お前になら可能だろう。だが、お前が人間をやめても翡翠は喜ばないんじゃないか?」
「……じゃぁ、最終手段として考えとく」

 時津彦は軽く肩をすくめると、また翡翠様の絵を見上げた。

「別れを言うってことは、クソ五代目はここを出てくの?」
「あぁ、自分の足で歩ける内にな」
「たかむらは?」
「もちろん置いていくさ。そのために『きさら堂』の六代目に指名したんだ」
「別れの挨拶は?」
「もう済ませた。たかむらはおそらく理解していなかっただろうが……だがそれでいい。ここの使用人達に愛されて、毎日楽しそうにしているからな」

 時津彦は少し寂しそうに笑った。
 自分がいなくなった後も、何一つ変わりなく過ごすたかむらを想像したのかもしれない。

「咲夜。俺がたかむらにかけた反魂の術は半端なものだ。妖気のあるここではそれなりに長く生きるだろうが、それでも不死じゃない。いつかたかむらの寿命が自然に尽きたら、首から下の骨と一緒に手厚く葬ってやってくれ」
「分かった。『きさら堂』の仮の主人として、確かに引き受けた」
「よろしく頼む」

 頭を下げる時津彦に、咲夜はふと思い付いたことを言ってみる。

「ん-、でもさ、たかむらから離れたくなければ、死ぬまでここにいたっていいんじゃない? ここはあやかし達の住む『きさら堂』なんだから、グレイスみたいに幽霊にでもなっちゃえば?」
「はは、そういうわけにもいくまい。おそらく俺が死んだ途端にまた大量の蛇が溢れ出して迷惑をかける。あの時みたいに使用人が蛇に侵食されたら、たかむらの世話にも支障が出るだろ?」
「……あー……まぁ、そっか」
「何でお前が引き留めるようなことを言うんだ? 俺がいなくなればせいせいするだろ」

 咲夜は時津彦の方へ手を伸ばし、指先で小さな黒い蛇をつまんだ。

「あやかし館の神様達は、この蛇のことを『罪』が具現化したものって言ってたけど、俺、ちょっと違う気がしているんだ」

 ぱっと手を離すと蛇は床に落ちて、くねくねと動きながら時津彦の方へ向かっていく。

「だって、あのぬえの野郎はあれだけ残酷なことを繰り返してきたのにまったく蛇に侵されていなかったでしょ? 客観的に見て、あの極悪非道な妖怪よりも五代目の方が罪が重いなんてことがあると思う?」

 時津彦がピクリと片眉を上げた。

「つまり……何が言いたいんだ?」
「つまり、その黒い蛇の正体は五代目の『罪』なんかじゃなくて『良心』なんじゃないかなーって」
「良心? はは、俺の中にそんなものがあるとでも?」
「そう、クソ野郎な五代目にも、もしかしたらそんなものがあるのかも、なんてね」

 時津彦が井筒いづつたかむらにしたことは許されることじゃない。
 翡翠様への仕打ちだって、あまりに自分勝手でひどいものだ。
 でも、時津彦がいなければ翡翠様はこの世に生まれてこなかった。

「まぁ、俺に言えることは、翡翠様を描いてくれてありがとってことぐらいかな」

 少し驚いた顔をする時津彦を置いて、咲夜はガチャリとドアを開いた。

「時津彦サン、5分間だけ二人きりにさせてあげる。翡翠様にしっかり懺悔するといいよ」

 そう言って、咲夜は後ろ手にドアを閉めた。

 薄暗い廊下はしんと静まり返っている。鎧騎士は今、違う棟を歩いているのだろう。

 窓に近づいて、咲夜は中庭を見下ろした。あの一件で少し数を減らした蛇よけ草だったが、すでに元の状態まで戻っていて白く小さな花が中庭全体を覆い尽くし強い香りを漂わせていた。

 ドアの開く音がして、咲夜は首をかしげる。

「あれ、5分にはまだ……」
「うー?」

 開いたのは、違うドアだった。

「たかむら?」
「あー」

 八目姫様から贈られた蜘蛛の巣柄のパジャマを着て、たかむらがよたよたとこっちに歩いてくる。

「どうした? トイレか?」
「あうあー」

 ニコニコと笑いながら手を伸ばしてくるたかむらを、咲夜は途惑いながら抱きとめた。

 たかむらはお菓子をくれる相手には誰にでも懐く。それは咲夜も例外ではなかった。

「ええと、腹でも減ったのか? 悪いけど、今は何も持ってなくて……」
「うー?」

 咲夜につかまりながら、たかむらは何かを探すようにきょろきょろとする。

 その時、咲夜の自室のドアが開いた。片手で目元をぬぐうようにして、時津彦がうつむき加減でのそりと出てくる。

「あー! きゃはは!」

 たかむらが嬉しそうに声をあげた。

「え? たかむら?」

 驚いた時津彦のもとへ、たかむらが両手をのばして抱きついていく。

「あうあー」
「どうしたんだ? いつもは一度寝たら朝まで起きないのに」

 時津彦は心配そうにたかむらを見て、乱れた髪をそっと撫でた。

 たかむらはパジャマのポケットに手を突っ込んでごそごそと不器用に指を動かしていたが、満面の笑みを浮かべて時津彦に片手を差し出した。

「あいっ」
「え……これ……」
「あいっ」

 たかむらがぐいっと差し出す手のひらの上には、イチゴ味のキャンディーがひとつ乗っている。

「俺に……?」
「うー!」
「そうか……これを俺にくれるのか」
「あー」

 時津彦はそっとキャンディーを受け取り、大事そうに両手で包み込んだ。

「ありがとう、たかむら」
「うー!」
「もう遅いからベッドに戻りな。明日はきっと、もっとうまいもんが食えるぞ」

 たかむらが嬉しそうにうなずく。

「うあー」
「そうだな、今から明日が楽しみだな。じゃぁ、明日のためにしっかり寝ないと」
「あー」
「うん、お休み。ありがとう、たかむら」

 たかむらは笑顔のままで、よたよたと自分の部屋へ戻っていく。

 時津彦はその背中に向って、深々と頭を下げた。
 肩が震えているみたいだったけど、咲夜はそれに気付かないふりをした。



◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

 時津彦は正面玄関ではなく、中庭にある地下への階段を一人で降りていき、そのまま二度と戻らなかった。


 それからしばらくして、咲夜は地下の住宅街みたいな無限回廊で時津彦とたかむらによく似た子供を時々見かけるようになる。

「トキ、僕の荷物を持ってついておいでよ」
「はーい」
「帽子も忘れないで」
「はーい、忘れません」
「ほら、トキ、早く早く」
「今、行きまーす」

 横柄な態度の少年の後ろから、時津彦によく似た少年は鞄を抱えて嬉しそうについていく。

 それはもしかしたら、無限回廊にとらわれた時津彦の成れの果てかも知れなかったし、咲夜の願望が見せる幻影なのかも知れなかった。

 ただ、その楽しそうな子供の姿を見かけるたびに、咲夜はなぜか救われたような気がするのだった。


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