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(9)名前は咲夜にしよう

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「うーわ、まじか」

 呆れたような声を出して、蓮次郎が髪をかき上げる。

「驚きましたね」

 冷や汗をかいたのか、艶子がハンカチでこめかみを押さえる。

「こいつの親が鉛筆もクレヨンも取り上げた理由が、よく分かった」
「えぇ、まさに尋常ならざる力です……」

 蓮次郎と艶子が蒼ざめた顔で子供を見下ろす。
 翡翠は子供の背中を撫でながら、畳に立ち尽くしている二人を見上げた。

「何をそんなに驚いているのだ? 『ぬけ現象』なら時津彦様も得意だったではないか」
「いや、これはちょっと」
「レベルが違いすぎるので」
「レベル?」

 翡翠はけたけたと笑った。

「それはそうだ。時津彦様のような稀代の天才と比べては……」
「逆だ、逆」
「逆?」
「時津彦の描く絵は写真と見紛みまごうほどに精巧なものだった。生きているような絵に妖気が込められれば『ぬけ現象』が起きるのは当然のことだろう。でもこの子の描いた絵は……」
「あんな落書きのような絵が、まさか喋るなんて」

 艶子の狐耳がぴくぴくと動く。
 蓮次郎が暑くもないのに、袖で額の汗をぬぐう。

「翡翠様、その子供は『きさら堂』で保護するべきだと思います。少なくとも、自分で描いたものを自分でコントロールできるようになるまでは、ここに隔離するべきだと」
「隔離とは、穏やかではないな」
「俺も隔離に賛成だ。この子を何も分からない人間たちの中に放り込むのはまずい」
「なんだよ、蓮次郎。人間との間に面倒を起こすなとか言っていなかったか? 誘拐したと思われるとかなんとか」
「それどころじゃなくなったんだ。この力は使い方を間違えるとちょっとやばい」

 翡翠は首をかしげた。

「時津彦様はいつだって好きなものを好きなように描かれるだろう? それで何の問題もないのに、この子はだめなのか……?」
「あいつはけして善人じゃぁなかったが、なんだかんだ言ってぎりぎりのラインは分かっていたからな」
「ぎりぎりのライン?」
「死人を描いて蘇らせるとか、怨霊を描いてこの世に召喚するとか、絶対にやってはいけないことには手を出さなかっただろ」
「へぇ、それがぎりぎりのラインか……」
「あの」

 艶子が畳の上に着物の膝を滑らせるようにしてずいっと近づいてきた。
 子供がびっくりして、翡翠の胸に顔をうずめてくる。

「そこは、我がきさら狐にお任せくださいませんか? 鬼在きさら市の中のことならば、戸籍だろうが義務教育だろうが何とかできるかと」
「何とかって?」
「ご存じの通り、鬼在きさらの街はきさら狐が根を張る街です。人に化けて人として暮らす狐はゆっくりと増え続けて、実は現在、市民の三分の一ほどが狐になっております」
「三分の一? そりゃすごいな」

 蓮次郎が声を上げ、艶子がそれにうなずく。

「はい、ですからきさら狐は神社の中だけでなく、市内のありとあらゆる職場に少なくとも一匹は紛れ込んでいます。医者も警察官も市議会議員も市役所職員も学校の教員もいるのです。そのネットワークを使えば、まぁなんというか、こう、ちょちょいと」

 艶子はペンで何かを書くような仕草をした。

「ちょちょいと……?」
「かくいう私も150年ほど鬼在きさら神社に棲みついておりますが、人間の名前はもうすでに五個目ですので」
「五個も?」
「この見た目で150歳というのは人間には無理がありますから」
「なるほど」
「鬼の血が混じっているこの蓮次郎も免許証やパスポートの名前は、本名と違っておりますでしょう?」
「蓮次郎も?」

 翡翠が振り向くと、蓮次郎がうなずく。

「あぁ、俺もそろそろ100歳を超える。だが見た目はずっと30代のままだからな」
「はい。あやかしが人間に混じって暮らすためには、いろいろと工夫が必要なのです。逆に人間があやかしの中で暮らすのにも工夫が要ることでしょう。近いうちに本家の者を何人かこちらに寄越します。人間としての常識を教えるものと、絵の基本を教えるものが必要でしょう」
「分かった。よろしく頼む」
「はい、お任せくださいませ」
「はぁ…………。今ここに、時津彦様がいてくださればな……」

 翡翠が沈んだ声を出すと、子供が不思議そうに顔を上げた。

「とき、つ……?」
「時津彦様。『きさら堂』の本当の主人であり、私の主だ。時津彦様は天才的な絵師であるから、きっとそなたの良いお手本になるであろうに」

 子供を撫でつつ翡翠が溜息を吐くと、蓮次郎と艶子に妙な間があった。

「どうした?」
「あ、い、いえ。時津彦様ほどではなくとも、きさら狐の中にも『ぬけ』る絵を得意とする者はいますので。それと、蓮次郎、この後の予定は?」
「俺か? ここで数日休ませてもらった後、次の仕入れは木更津の狸に頼んであちら側を回ろうかと思っていたんだが」
「それは急ぎなの?」
「いや、とくに急ぎではない」
「では、どうでしょうか。翡翠様は人間の子供のことをあまりよく知らないようですし、しばらくは蓮次郎も『きさら堂』に滞在させては」

 翡翠は『きさら堂』の外のことはほとんど何も知らない。世界中を旅する蓮次郎は、翡翠の知らないことをよく知っていた。

「頼めるか、蓮次郎」
「そうだな。いろいろと落ち着くまで、俺もここにいることにしよう」

 蓮次郎はどかっと畳に胡坐あぐらをかいて、入り口のそばに待機していたメイドを呼んだ。

「すっかり茶が冷めてしまった。ひい、ふう、熱い珈琲と焼き菓子を用意してくれ。艶子と翡翠は?」
「私も珈琲で」
「私は何もいらない。子供にはホットミルクにはちみつを垂らしてくれ」
「かしこまりました」

 ひいとふうが一礼して和室を出ていく。

「して、翡翠様。その子供を『子供』と呼んでいるのですか。名前は……」
「この子共か? 名前は無いそうだ」
「え」
「私も何度か聞いてみたのだが、答えてくれなくてな。どうやら誰にも名前を呼ばれたことがないようだぞ」
「そ、それで、そのままにしているのですか」
「特に困らないだろう? 『きさら堂』に子供はこの子一人しかいない」
「いえ、でも」

 艶子が蓮次郎に目配せをすると、蓮次郎は軽く肩をすくめて見せた。艶子が指先を振ると、蓮次郎が面倒そうに首を振る。

「なんだ、二人はずいぶんと仲が良さそうだな」
「はぁ? なんでそうなる」
「良い良い。艶子も今は独身、大人同士なのだから私は何も言う気はないよ」
「だからなんでそうなるんだよ」
「翡翠様、その誤解はちょっと、蓮次郎が気の毒なのでは?」
「なぜだ?」
「なぜって、ねぇ」
「あーもう、そういうくだらない話はいいから! 翡翠、その子供にも名前は必要だ。人間としての尊厳というか……アイデンティティというか……」
「あいでん?」
「アイデンティティ。社会の中で自分が間違いなく自分だっていう、概念というかなんていうか……。とにかく! お前だって時津彦に名前をもらって嬉しかっただろ」
「もちろん。至上の喜びだった」
「だろう?」
「だが、この子の親は……」
「どうでしょう。翡翠様が名付け親になられては」

 翡翠はきょとんとして、艶子と自分の腕の中にいる子供を交互に見た。

「私はあやかしだぞ。あやかしが名付けなどしてよいのか」
「もちろんですよ。翡翠様は仮とはいえ『きさら堂』のご主人さまですから」
「でも……」

 翡翠はふところに手を入れて、さきほど子供に破かれた画用紙に指先で触れた。翡翠もこの落書きと同様に、非常に儚い存在だ。もしも時津彦様に絵を破かれれば、翡翠も一瞬でこの世から消えてしまう。

「私のように存在の不確かなものが……」
「何をおっしゃいます、翡翠様。絵から生まれて50年以上、あなた様はこの『きさら堂』を立派に守って来たではありませんか」
「翡翠には十分にその資格があると思うぞ」

(資格か……時津彦様が不在中に、勝手なことをして許されるのか……?)

 翡翠は胸に抱く子供を見下ろした。
 黒い瞳がじっと翡翠を見つめている。
 真っ黒ではなく夜の星のような輝きが見えて、とても可愛いと思った。

「そなたは名前が欲しいか」

 問いかけると、黒い瞳が瞬く。

「なまえ?」
「そうだ、名前だ。私が付けても良いか?」

 柔らかそうな唇が笑みの形になる。

「うん」

 翡翠は子供の顔を見て、次に畳に広げられた掛け軸を見た。
 ふっと頭の中にひとつの名前が浮かんでくる。

「咲夜というのはどうだ?」
「さくや?」
「そなたは木花咲夜姫このはなさくやひめという題の掛け軸から現れたのだから、花が咲く夜と書いて『咲夜』はどうかと思ったのだ」
「まぁ! よろしいのではないでしょうか」
「あぁ、思ったよりまともで驚いた。意外にセンスあるな」

 失礼な蓮次郎の言葉を無視して、翡翠は子供に笑いかける。

「そなたはどう思う?」

 子供は良いとも悪いとも言わずに、翡翠の顔をじっと見てきた。

「咲夜という名前、気に入らないか」

 子供は少し考えるように黙り、指で自分をさして「さくや?」と聞いた。

「そうだ。そなたの名前だ。咲夜」

 子供はまた自分を指して「さくや……」と呟き、次に翡翠を指して「ひすいさま」と呟く。

「そうだ。私が翡翠で、そなたが咲夜だ」

 咲夜の頬が興奮したように赤くなる。

「さくや、ひすいさま、さくや、ひすいさま」

 咲夜は、はしゃぐように指をさしながら繰り返した。

「そう、そなたが咲夜で、私が翡翠だ」
「さくや、ひすいさま、だいすき」

 両手を広げて咲夜が抱きついてくる。

「私も咲夜が大好きだよ」

 見た目よりずっと軽い咲夜の体を、翡翠は大事に大事に抱きしめた。



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