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エピローグ (後)

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 良い香りが立ちこめていた。それは紛れもなくコーヒーの匂いだった。挽かれたコーヒー豆から漂っているのだ。


ーゴリゴリゴリ


 音が響く。コーヒーミルに豆が粉砕される音。ハンドルと共に豆が挽きつぶされ粉に変わっていく音だ。コーヒーを飲むなら必ず必要な作業である。

 まさしく、至福の一杯を飲むための大事な下準備である。

 彼は、銀の竜は満たされた目でそれを行っていた。

 ここは山の中だった。アルビオンから遙かに東、岩の国にある高山の奥の奥、秘境中の秘境だ。人間は絶対にやってこない。動物も、魔獣でさえもめったに踏み入ることの無い幻獣のみが住まえる禁足地だ。

 台形の山の上にある岩だらけの平原で、雪がありながら緑があり草花が咲き誇っている。時折凍り付きそうな風が吹くかと思えば、夏真っ盛りのような暖かな空気が満ちた。気まぐれに虹が立ち、流れ星が次々と落ちてきて、金色の霧が山肌をかすめていく。およそ、人界の常識が通用しない場所だった。 

 そんな場所で竜はコーヒーミルをゴリゴリと回しているのだった。

 大きな大きなコーヒーミルを。竜のサイズのコーヒーミルを。

 これは、人間に貰ったものだ。シャーロットとダンに。


「良い感じだ」


 竜はコーヒーミルから出した粉を見て言う。

 ダンとシャーロットはコーヒーメーカーとカップと、最後にさらにサプライズでコーヒーミルをくれたのだ。二人の話ではこれでもまだまだ貰った分からはお釣りが出るとかで気にしなくて良いとのことだった。

 なので竜はありがたく貰ったのだった。

 竜は非常に助かっていた。もう、人間用のコーヒーミルを使いまくる必要も、うまく挽けないと分かりながらすり鉢で一生懸命擦る必要も無いのだ。高品質の粉がハンドルを回すだけで出来あがる。シャーロットの設計とダンの技術に間違いは無かった。

 竜はどこかの国で誰かが歌っていた鼻歌を歌いながら粉を取り出す。

 そして、コーヒーミルの横に屹立しているコーヒーメーカーへと手を伸ばした。人間の背丈を優に超え、軽い家屋ほどの大きさはあろうかという巨大なコーヒーメーカー。そのドリッパーを外し、そこにフィルターを入れる。このフィルターは竜の自作で、定期的にこれを作り直すのも竜の日々の楽しみになっていた。

 竜はフィルターを取り付けたドリッパーの中に挽いた豆を流し込む。そして、元の位置にセットすると、ガチャンとレバーを回した。いつも通り。

 ぐつぐつと音が鳴り、青い水晶が沈む小川からすくった水が沸騰していく。

 こうやってコーヒーメーカーを動かすようになってかれこれ数ヶ月が経過していた。

 数ヶ月前、アルビオンでコーヒーメーカーを貰ってから毎日だった。

 竜はコーヒーメーカーを貰うと約束通りに鱗を渡し、名残惜しいながらも礼と別れを告げて第二王都ウィンザーを発った。

 竜は浮遊魔法でコーヒーメーカーとコーヒーミルとカップを周りに従えながら、少しずつ離れていくシャーロットたちを、第二王都をアルビオンを寂しく思いながら見つめた。そして遙か高みの空の果てギリギリを飛び、この星と宇宙の境を眺めながら、ゆっくりのんびりと帰路に付いたのだった。

 そして、帰ってきてから毎日コーヒー三昧というわけだった。

 まさに、竜の夢の生活が手に入ったのである。

 もはや、コーヒーを飲むことになんのストレスもありはしなかった。

 穏やかな気持ちで丁寧に豆を挽き、ドリッパーに入れてスイッチひとつで美味しいコーヒーが完成してしまうというわけである。

 今までの100年近く続けてきた途方も無い試行錯誤も苦労も最早必要ないのだ。

 まさにシャーロット達様々であり、竜にとっては感謝しか無いのである。


ーグツグツグツ


 音が鳴る。夢の中のような、おとぎ話の中のような景色の中で、人間が良く聞くような音が響いている。コーヒーの入る音だ。

 この空間においてコーヒーメーカーは完全に異質だった。何もかもが人の世からかけ離れているここで、人間の文明物の最たるコーヒーメーカーが屹立しているのはあんまりにも似合わなかった。

 そう、似合わなかったのだ。ただただ、この景色の中で浮いている。この場所を誰かが管理していたなら「それは異物だ。さっさと排除しろ」とすぐに言いそうなほどにこの場所に相応しくなかった。

 しかし、竜は非常に満足そうに、非常に愛おしそうにそのコーヒーメーカーを見つめていた。したたり落ちるブラウンのコーヒーの滴を眺めていた。

 竜はここの住人だ。この夢みたいな場所の住人だ。本来人の世とは関わらない存在だ。

 しかし、このコーヒーメーカーは人の世に入って手に入れたものだった。

 人の世は面白かった。人の世は不可解だった。そして、シャーロットたちと過ごした数週間は楽しかった。

 人間は竜にとっては良く分からない連中だ。だから初め、とにかくコーヒーメーカーさえ手に入れば良いという程度気持ちだったが結局長居をしてしまった。そして、共に色んなことを味わった。

 だから、しっかりと竜のこの長い長い一生の1ページとして刻みつけられてしまった。日がな過ごすとふとシャーロットたちはどうしているだろうか、などと竜は思ったりする。

 だから、竜はこの空間における異物をとても大事に思っていた。だから、誰になんと言われようがこれは竜のものだった。

 この先もまた人間と関わることはあるだろうか、と竜は思う。あったら、また楽しいだろうか。そうあって欲しい、と竜は思う。


「うん」


 最後の一滴が落ちた。ブシュウ、と音が鳴り蒸気の噴出も終わる。コーヒーが出来上がった。竜はサーバーを外しカップにコーヒーを注ぐ。深みのある香りが立ち上っていた。今日の豆はセハードの豆で、酸味も苦みもクセが無く飲みやすいコーヒーである。

 ちなみに竜のねぐらの大洞には世界各地から仕入れてきたコーヒー豆が大量に置かれている。竜は毎日そこからその日の気分で豆を選び、飲んでいるのである。

 竜はカップを持ち上げ、それに鼻を近づけるとその香りを存分に味わった。


「うんうん、良い香りだ」


 どことなく気取った感じであり、なんとなく腹の立つ所作であった。

 それから竜はいつも腰掛ける大きな岩の元まで行って体を預けると、カップを置いてぐんと体を伸ばした。そして、また鼻歌を歌う。

 頭上に広がる青空と夜空の中間のような奇妙な空を見上げた。薄くゆらゆらと白いオーロラが揺らめいていた。竜は大きく息を吐き出した。リラックスである。竜はこれから至福の一時を味わうのだ。

 最高に楽な精神状態と肉体の状態で美味しいコーヒーを心ゆくまで味わうのである。

 悠久の時を生きる竜の、数少ない楽しみ。

 竜は体をほぐすとカップを手に取る。そして、またもう一回どことなく腹の立つ表情で香りを楽しんだ。そして、ゆっくりと味わってそれを飲んだ。

 白銀の美しい巨大な竜。荘厳で神々しい幻獣。それが、大きなマグカップを持ってコーヒーを飲んでいた。不思議な景色であった。


「うん、今日も美味しい」


 竜は満足そうに言った。
 そして、心地よさそうに深々と大岩に体をもたれかけた。竜はゆっくりとコーヒーを飲んでいった。

 これを作った農園の人や、コーヒーメーカーを作った職人達や、そしてシャーロットの事を思い出しながら、おとぎ話のような景色の中で竜は幸福な一時を味わうのだった。

 そうして今日もまた、銀の竜の長い長い日々のうちの一日が過ぎていくのだった。
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