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第17話 怪異狩『朱の紅葉』

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「ぐっ......」
 四島が吹き飛ぶ。もう何度目だろうか。体はボロボロだ。平時ならすぐさま病院に行かなくてはならないほどだろう。しかし、今はそういうわけにもいかなかった。退路は自分で断ち、目の前には逃げだすわけにはいかない敵が居る。
 どれだけボロボロになっても四島は立ち上がらなくてはならない。いや、立つしかない。
「やれやれ、いい加減に嫌になってきましたが」
 四島はぼそぼそと漏らした。
 しかし、立ち上がる。だらりと下がった左腕。引きずる右足。頭から流れ落ちる血。
 満身創痍の出で立ちだ。
 そして、懐から符術札を取り出し破り捨てる。四島を覆う結界の性質を変える。攻撃に備えるために。
「噛み砕け」
 青い狼の形をした炎が四島に向かって跳ねる。それに続いて、黒い鳥が、赤い蛇が、白い蜥蜴が四島を襲う。四島はさらに符術を使ってそれらを迎撃する。光の槍、それが何本も怪異達に向かって飛んでいく。
 しかし、それら全てを狼は容易く噛み砕いた。
 そして、全ての怪異が四島に殺到する。また、四島は吹き飛んだ。転がりながらも受け身を取る四島。
「まだ、保ちますか。我がことながら関心しますね。こんなに腕が良かったんですね私」
 まだ、結界は破れない。生身で受ければ間違いなく即死の怪異たちの突進をなんとか受けていた。
「来てくださいよ、紅葉さん。信じてますからね」
 四島は前進する。敵に、天淵に抵抗するために。
「四島の兄ちゃん.....」
 四島を見る陽毬は悲痛な表情だ。
 状況は最悪だった。四島には天淵を倒すどころか、一撃を加える手札さえ無かった。天淵は強い。術者としても間違いなく一流だった。これだけの能力を「我が社のため」の一言だけで数年で習得したのだ。四島の推察では10年20年かかる力量を。それは、賞賛を通り過ぎ、異常としか言いようがなかった。
 天淵はこの世の終わりのような表情で、彫像のように変化のない表情で四島を見ていた。
「お前には呆れる。来もしない援軍を待って、そこまでになるまで勝てない相手に挑み続ける」
「私も呆れてますよ。良くもまぁ、立ち上がり続けるものです。こんなに仕事熱心だとは思ってませんでした」
「だが、もう時間切れだ。儀式の準備は整った」
 天淵がそう言った瞬間だった。青い狼が今までとは比べものにならない速度で吹っ飛び、四島の横を通り抜ける。
「くっ」
 四島は止めようとしたがその術は空しく空を切った。狼はそのまま吹っ飛び続け、そして四島が吹き飛ばした場所、エレベーターへと続く通路の瓦礫を焼いた。焼かれた瓦礫は一気に解け、通路は開けた。
「これで条件も戻った。さぁ、始めよう」
 バクン、と音が鳴った。
 それは、空間が鳴る音だった。フロア全体が震える、ミシミシとなにかが音を立てている。なにかが、大きな何かが歪められようとしている。なにかが、この世界にその手をかけている。それはすなわち、
「『白峰の霊鏡』を起動する。長かった。これを操る方法を俺は探り続けてきた。その成果、確かめさせて貰う」
 陽毬の体から火花が走る。陽毬の周囲の空間が歪んでいる。まさに『白峰の霊鏡』が動き出そうとしている。世界を歪める呪具が再びその姿を現そうとしているのだ。すなわち、天淵の目的が達成されようとしている。
「くっ。もう、動くんですか」
「動く。そして、お前は結局なにも出来ないままそれを見逃すことになる。哀れだがな。『朱の紅葉』は間に合わなかった。今頃、蕨平に殺されているだろう」
「そんなことはありませんよ。紅葉さんは必ず来る。だから、時間を稼がなくてはならない」
 四島は符術札を3枚破り捨てる。同時に四島の体がすっ飛んだ。それは、怪異に吹き飛ばされたからではない。符術の効果で四島が高速移動したのだ。もちろん、陽毬を助けるために。天淵を倒すために。
 同時に陽毬の周りに結界が発生する。円錐の結界が陽毬を囲む。それは、内部の怪異の動きを止める結界。単純ながら強力な檻だ。四島は『白峰の霊鏡という怪異』を一時でも封じ込めようとしている。
 しかし、
「無意味だということは分かっているはずだ」
 それは一瞬で、天淵の怪異の一体が衝突しただけで壊れた。結界は上位の結界術師によって容易く解析されてしまう。四島が今使った単純でオーソドックスな結界など天淵は一目で看破してしまうのだ。
「お前は良くやった方だろう。ここまで実力差がありながら良く食い下がった。だが、いい加減に邪魔だ。とどめを刺すとしよう」
 天淵がパチンと指を鳴らす。すると、天淵が操る全ての怪異がバキバキと音を立てる。その姿が大きくなっていく。
「全体強化みたいな話しですか。これはやばいですね」
 全ての怪異が大きく禍々しく変化した。狼の口は腹まで裂け、蛇は三つ叉に頭が分かれ、鳥は尾翼がぬらりとした触手へと変化した。異形の群れ、まさに怪異らしい怪異へと変わってしまった。全てAレート以上の怪異と言って差し支えないだろう。間違いなく、これら全ての攻撃を受ければ四島は一瞬で殺される。
「もういい.....もう、良いんだよ四島の兄ちゃん!! 紅葉の姉さんだって今戻れば助けられるかもしれない!! 今すぐ逃げてくれ!!!」
 陽毬はたまらず叫んだ。
「そんなこと言ったって、あなたはどうするんですか。このままではまた『白峰の霊鏡』が起動する」
 それはすなわち、陽毬のトラウマが再演されるということ。いや、それ以上のことかもしれない。天淵はその病的な執念で霊鏡をある程度御す方法を見つけている。きっと、天淵は以前霊鏡が行ったよりもひどいことをする。そして、恐らく陽毬を逃さない。ひょっとしたら、このまま一生天淵は陽毬を利用し続けるかもしれない。そして、その痕跡は霊鏡の『世界の改竄』で残らない。
 このままでは陽毬の人生は終わってしまう。
「仕方ないさ」
 しかし、陽毬は言った。
「俺の人生はこんなものだ。きっと生まれたときから決まっていたんだ。こんなワケの分からないものが体の中にあるその時から。これが、俺の人生なんだ。今まで必死に抗ってきたけど、ここまでなんだよ.....。もう分かった。だから、良いんだ。みんな死なないでくれ。逃げてくれ....」
 陽毬は今にも泣きそうな表情で言った。自分の生を諦めた。そのために人が死ぬのを拒んだ。陽毬は自分が犠牲になることにしたのだ。そして、それが定めだったのだと受け入れたのだ。
「そんな泣きそうな顔で言われても、まったく了承出来ませんね」
 そして、四島は言った。
「あなたは頑張ってきました。まだ、諦めるには早すぎる」
「でも、もう.....!!!」
 状況がそれを許さないと、陽毬は言いたいのだった。もう、四島はこのままでは死んでしまう。紅葉とて、あの蕨平と単独で戦うなどという無謀をしている。2人とも死んでしまう。このままでは完全に犬死になってしまう。勝てないのだ。状況は最悪なのだ。
 だから、せめて逃げて生きてくれと陽毬は言っている。
 だが陽毬は、自分の過去を知ってなお、思いを寄せてくれることが嬉しくて仕方が無かった。だがだからこそ、絞り出すように言う。この恩人達のために。もう、誰かが自分の周りから消えるのは我慢ならなかったのだから。
「逃げてくれ、頼む。それが俺の願いだ」
 陽毬は、この人たちに会えて本当に良かったと思った。だから、悔いはないと、怖くてたまらなかったけど、それだけは本当の感情だった。
「残念だが、誰も逃がさん。誰がどういう立場で何を思おうが関係はない。ここで全て終わらせる。情報を知るものは誰も生きては返さない」
 しかし、天淵が悪魔のように言った。全員殺す、紅葉も四島も。今回の件に関わった人間は全員抹殺すると。今後の障害になり得る要素はひとつでも減らす、そういう腹づもりらしい。
 天淵は手を上げる。
 四島は身構えた。
「四島の兄ちゃん!!」
 陽毬が叫ぶ。
 天淵がその手を下ろす。
 その時だった。
 蒼い異形の狼の首が跳ね飛んだ。
 そして、それを見上げた四島は言った。
「ああ、マジですか紅葉さん。本当に勝ったんですね。本当に救いのヒーローみたいですよ」
 巨大な異形の狼の足元には穴。そしてその上空、ちょうど跳んだ頭の直上に、戸木紅葉が剣を振り抜いた格好で存在していた。その状況は間違いなく、紅葉が狼の首を跳ね飛ばしたことを意味していた。
 そして、紅葉は着地する。全身傷だけらで埃にまみれ、ボロボロの姿だったが、その目にはいつもと同じ光が宿っていた。
 紅葉が立っていた。いつものように、赤いジャケットを纏って。『朱の紅葉』が立っていた。その後ろで蒼い狼が消滅していく。
「な.....................」
 この場に居る誰もが驚愕していた。だが、その中でも一番だったのは天淵桐也だった。地獄から来た彫像のような男が、今まで表情らしい表情を見せなかったこの男が、初めて表情を浮かべた。ここに居るはずの無いものを見て理解できないという表情。
 有り得ないと。今目の前にある光景があるはずが無いと。
「バカな。幻術の類ではない。一体なにが......」
 天淵は独り言を漏らす。
「そうか、やつから逃げおおせたのか。だが、そんなことをしてどうする。やつは結局このフロアまで上がってくるぞ?」
 天淵は言う。自分の中で最もこの状況を説明するのに適当な流れを頭の中で優先する。
 ああ、そういうことか、それなら納得出来ると。
 だが、紅葉は、
「いいえ、蕨平は倒しましたよ。私が」
 天淵桐也が最も有り得ないと思った可能性を口にした。
「な............バカな.......」
 天淵は再び絶句した。有り得ない、有り得ない、有り得ないと。あのSSレートの怪物を、40人がかりでも勝てなかった怪物を、紅葉がタダ1人で倒すなどあり得るはずがないと。天淵は『有り得ない』で頭が埋め尽くされ思考が停止した。
 天淵桐也は目の前の状況を受け容れられず、固まった。
「まさか、本当に勝つとは。お疲れ様です、紅葉さん」
 四島はボロボロのまま紅葉に言った。
「ええ、ありがとうございます、って。四島さん、私よりボロボロじゃないですか。大丈夫なんですか!?」
「ああ、まぁ、ずっと転がり回ってましたから。腕と足が折れましたが、命に関わる傷はありません。多分」
「多分って.....。まぁ、この相手ならそうなってしまいますか」
 紅葉は眺める。並びに並んだ強大な怪異たちを。これを1人相手にここまで粘っただけでも見事なものだろう。
「さぁ、紅葉さん最後の仕事です。お願いします。わたしもう戦えませんので」
「ええ、まぁ、仕方ないですねその有様だと」
「それにしてもベストタイミングでしたね下で様子でも伺ってたんですか」
「まぁ、符術で上の様子を確かめながら一番強い個体を討れる瞬間を伺ってたんですが」
「ああ、やっぱりあれが一番強かったんですか。なら、あとは結構簡単ですかね」
「簡単ではないですよ。勝手に楽観視しないでください」
 紅葉は若干イラッときたのだった。
 いつものやりとり。四島と紅葉の距離感だ。
 目の前には怪異の群れ、その後ろには得体の知れない術者。
 これらを片付ければ今回の件は全て終わる。
 しかし、その前に、
「陽毬さん、お待たせしました。今、全部終わらせますから」
 紅葉を前にして陽毬はぽろぽろと落ちる涙を止められなかった。
「なんで、なんで来たんだ。なんで来れるんだよあんたは......。俺はあんたから逃げたのに。あんたの言葉も聞かずにあんたから逃げだしたのに、なんで」
「そうは言っても、あんまりにも後味の悪い別れ方でしたからね。釈然としなくて駆けつけた次第ですよ」
 紅葉は冗談交じりに言った。
 それから、
「すみませんでした陽毬さん。私はあなたの過去も知らずに心ない事を言ってしまった。自分が恥ずかしいです。本当にすいませんでした」
「そんなこと.....俺だって悪いんだし......。あんたが謝る筋合いの話しじゃない。こんな話しされてもみんな困るだけだ。あんまりにも現実感が無いじゃないか」
 紅葉は言い、陽毬は応える。紅葉は陽毬のことを何も知らずに、何を感じているかも知らずに自分勝手に好きなことを言ってしまったことを謝った。
 そして、陽毬の境遇は分かってくれるはずが無い話しなのだから、そんなに謝らなくても良いと言った。
 しかし、紅葉は謝らずに別れてしまうのが、そのまま陽毬が遠くに行ってしまうのが我慢ならなかったのだ。だからここに来た。
 それに、まだ言いたいことはあった。
「陽毬さん、あなたは頑張ってきた、本当に。それは賞賛されるべきことです、拍手喝采です。あなたはすごい人です。だから、今助けます」
 陽毬はその言葉を聞いてなお泣いた。紅葉は陽毬の人生を肯定してくれた。ワケの分からないものに全てを奪われて、ひとりぼっちで生きてきた。何度も逃げだして、それでも戻ってきて頑張ってきた。ここまで大変で大変で仕方が無かった。それでも、それを分かってくれる人間なんて居なかった。居るはずも無かった。
 そして、紅葉もきっと陽毬の苦しみを分かってくれたわけではなかった。
 でも、分からないなりに分かる範囲で陽毬の今までを思い、そして賞賛してくれたのだ。
 陽毬は陽毬のこれまでに何かの形を与えて貰ったような気がした。
 陽毬はただただ胸が暖かかった。
「あ..........う.......ありがとう........」
 陽毬はどんどん溢れてくる涙の合間に精一杯の感謝を込めて口にした。
「どういたしまして」
 紅葉はそれを見てにっこり笑った。
「やっぱりあんたも助けに来たじゃないか。俺のこと散々言ったクセに」
 陽毬も笑っていた。その心の霧が晴れていた。清々しい笑みだった。
「ええ、結局そのようです」
 紅葉は答えた。同じような表情で。
 2人の間にもう壁はなかった。お互いがお互いの事を理解していた。陽毬の過去は紅葉にとっても、陽毬にとっても、もう障害ではなかった。
「どこだ、どこで間違えた」
 そんな2人のやりとりに入ってきたのは天淵だ。
 どうやら、紅葉が蕨平を倒したことをどうにか受け容れたらしい。これだけ待っても蕨平は来ないのだから当然だ。
 そして、自分の計画が破綻したことを理解したようだ。
 だから、呪詛のように呻いている。
 それから、幽鬼のように紅葉を睨んだ。
「お前が全ての原因か、『朱の紅葉』。お前を他の方法で止めるべきだった」
「天淵桐也、元凶はあなたでしたか」
 紅葉は目の前の記憶とまったく印象の違う男を天淵桐也だと認めた。
「いいえ、私はなにがあってもここに駆けつけましたよ。そして、蕨平を倒しました。陽毬さんを助けなくてはなりませんからね」
 紅葉の言葉を聞いて天淵は笑う。彫像のように無機質で陰険な男が笑う。
「はは、バカな。敷島陽毬が頑張っているからか。賞賛されるべきだからか。バカな。やつは同じだ。他の誰もかれもと。苦しいのはみな同じだ。特別扱いはするべきではない」
 それは先ほど天淵が言った言葉の繰り返し。
 天淵のこの世に対する呪いの言葉。
 誰も彼も頑張っていて、だからこそ全員の生は等価値。誰かを特別視すべきではないという理屈。
 それに紅葉は応える。
「ええ、そうです。苦しいのはみな同じです。頑張っているのもみな同じです。だから、本当はみんな賞賛されるべきなんです。私も四島さんも他の街で生きている方々も、いえ、生きている全てのひとたちが賞賛されるべきなんです。この世の中を生きていくっていうのは大変ですからね」
 紅葉の言葉はまるで天淵と逆だった。
 誰も彼も頑張っていて、だからこそ、生きている全ての人々は賞賛されるべきだと。
 同じ理屈でも天淵は全ての人を否定し、紅葉は全ての人を賞賛した。
 それが、天淵と紅葉の決定的な差だった。人格の差だった。
 どちらが好ましいかは人によるだろう。しかし、少なくとも四島と陽毬の立場は決まっていた。
 2人はこの1人の女性を、本当に頼もしそうに見つめていたのだから。
 それから紅葉は再び陽毬を見る。泣きじゃくってメチャクチャな顔になっている陽毬を。
「陽毬さんはその中でも特に頑張っていました。それに彼女は私の相方ですから。ピンチに駆けつけるのは当然というものです」
 それが紅葉の理屈だった。
 紅葉の理屈は天淵の理屈を絶対に受け容れなかった。真逆だった。
 天淵桐也は紅葉に勝てなかった。
 紅葉の陽毬への肯定にわずかな傷を付けることも出来なかった。
 紅葉は陽毬を助けることに欠片の迷いもありはしなかったのだ。
 天淵の表情がまた変わった。それは紛れもない怒りだった。
「俺はお前を受け容れない。お前の考えを絶対に理解しない。俺はお前を許さない」
「おあいにく様です。私もこれだけのことをしたあなたを許すつもりはありません。大人しく縛に付きなさい。天淵桐也」
 紅葉は刀を構える。そして、符術札を取り出す。これが最後の戦い。天淵を倒せば全てが終わる。
 天淵はしかし、また笑った。
「ははは。だが、お前は倒せるのか。冷静になって考えれば理解できた。状況は変わっていない。この怪異の群れで貴様らを殺し、霊鏡を起動させれば良いだけだ。蕨平は消えたがそれだけだ。俺は俺の目的を成就させる」
 対する紅葉も不敵に笑った。
「蕨平を倒した私が、この程度の怪異を相手に出来ないとでも?」
 しかし、相手はAレート以上の怪異の群れ。いかに紅葉といえど真っ向勝負では分が悪い。間違いなく。これだけのレベルの怪異を一度に相手にするなんていう状況は現実では有り得ない。
 正攻法では勝利はない。
 だから、
「少し浮きますよ、四島さん、陽毬さん」
 紅葉は片手に握った符術札を破り捨てた。紅葉がこの状況のために用意した札を。2階へ飛び出すタイミングを伺っている間に施していた術式の起動装置を。
 直後に、国際会議場大ホール。休日になるたびにイベントが行われるこの巨大な空間、その大きな床が紅葉を中心にして大きく解けたのだ。
「なんだと!?」
 叫ぶ天淵、その体も召喚した怪異も、そして紅葉も四島も陽毬もそのまま足場を失い落下する。落ちるは階下、1階のロビー。そこは、
「霧か!?」
 白い闇に覆われていた。そもそも夜、照明が落とされたそこには白い霧が満たされていたのだ。これも紅葉の使った符術。人為的に起こされた怪異。人間はおろか怪異の感覚さえ撹乱する霧。大ホールの照明は生きており上から照らしていたが霧のせいで視界はゼロと言っても良かった。天淵は自分の怪異の姿さえ満足に見えない。
「お前はかなりの術師です。これだけの怪異を一遍に使役するなど並大抵のことではない。並大抵のことではないんです。それは少しの不確定要素が絡めば容易く乱れる。こうやって視界を奪わるなどすれば容易く」
 霧の向こうから紅葉の声が響く。天淵からすれば距離は離れている。いかに紅葉が一流の怪異狩であるとはいえ、この距離を一瞬で詰めることは出来ない。その前を天淵の怪異が阻んでいるのだから。遠くから符術で仕留める、それが紅葉の狙いだと天淵は思った。
「殺せ!!!」
 天淵は命じる。しかし、動物を模した怪異たちはそれぞれの動物の性質に寄っているのだろう。霧が立ちこめ、照明も満足に効いていない白い闇。その中で怪異たちは目標を探すことで精一杯の様子だった。そもそも、統率する天淵が自分の怪異を視認出来ていない。怪異たちの動きは乱れていた。天淵はそれでもさらに術を重ね、紅葉を探す。
「あなたは術師としては一流の腕を持っている。ですが、戦闘経験は普通の怪異狩に比べれば多くはないようですね。だから、こうやって取り乱す」
 霧の奥から紅葉の声が響く。天淵は思考を落ち着かせる。声がするということはそこに紅葉が居るということだ。いかに符術で身体能力を上げているとはいえ、自分の怪異たちを一斉にかからせれば一瞬で勝負はつく。状況は良いとは言えないが、勝機はまだ十分に天淵の側にある。天淵は紅葉の声の方へと怪異たちをけしかけた。あと少しで勝負は終わる、天淵は思った。
 だが、
「だから、こうやって術者本体ががなおざりになる」
 その瞬間、天淵が右手に持っていた古い書物が真っ二つに両断された。
「な......!」
 天淵の目の前に紅葉が居た。
 霧の向こうからの声は符術で音を操作されたものだった。
 紅葉はとっくに天淵のすぐ側まで近づいていた。
 天淵は冷静になったつもりでいた。しかし、取り乱していたのだ。
 SSレート怪異、『蕨平諏訪守綱吉』をたったの1人で倒した『朱の紅葉』への畏怖が消えなかったのだ。
 紅葉は刀を峰に持ち替え振り上げた。
「終わりです天淵桐也。塀の向こうで後悔しなさい」
 紅葉は流れるような動きで、まるで風のような剣捌きで、そのまま天淵の頭を打った。
「が.........っ!!!」
 天淵はそのまま昏倒する。その体がゆっくりと後ろに倒れていく。この数日間の黒幕が、渚市全体を巻き込んだ大事件の黒幕がその体を床へと倒した。
 意識を失ってもその顔は無機質なままだった。どこまでも人間離れした男。
 紅葉はそれをうんざりした様子で一瞥し、そして顔を上げた。
 天淵が召喚した怪異が消滅した。紅葉も霧の符術を解いた。
 2階大ホールからの照明の下、立っていたのは紅葉、四島、陽毬だった。陽毱は霊鏡の条件が失われて元通りになっていた。
 四島が紅葉に歩み寄った。よたよたしながらも。
「お疲れ様です紅葉さん」
 そして言った。
「そちらこそ」
 紅葉は返す。
 そして、紅葉は陽毬へと手を伸ばした。
「さぁ、陽毬さん。帰りましょう」
 紅葉は言った。
「ああ、帰ろう」
 陽毬は答えた。
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