そんなblueな話

渚紗みかげ

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青焼け予報

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 程よく栄えた駅の一つ隣、程よく古く、程よく寂れ、目新しさはないが商店街が隣接するいわゆるベッドタウン。その駅にほぼ隣接した築四十年ほどの雑居ビルの一区画に、明の構える占いの館はあった。
 名前もそのまま「占いの館」。捻りがないと散々馬鹿にされたが捻っても出てこなかったのだから仕方がない。目的が分かりやすくていい名前だろうと明は開き直っている。だがこの店の名前をちゃんと呼ぶ者は少ない。何故なら仕事の依頼ではなく世話話をしに来た近所のおばちゃんやこのビルのテナントを借りている他のオーナーたちは皆、『明ちゃんの部屋』などと呼んでいるから。せめて占いの部屋に直すべきだろうか、と最近明は考える。
「明ちゃん。今、駅でね、とうもろこしが一本百円で売ってたわよ。それもこんな大きいのが」
「お。まじ? 帰りまで残ってるかなあ」
「買いに行けばいいじゃないの」
「でも店番がさあ」
「誰もこないじゃないの客なんて」
「そういう時に限って来たりするの!」
 これ見よがしに、安かったから五本も買っちゃったのよ、とずっしりとした重い袋を手に下げながら老婆は言う。老婆のわりに腰はまだそう曲がっておらず皺はあるが雰囲気は若々しい。健脚だから杖もいらない。このビルの大家である下の古書店の店主だ。
「そういうおばちゃんは店番どったの」
「ちょ~どいいとこに若いのが来たから任せてきたわよ」
「若いの」
「そうそう。たまに明ちゃんとこに来てるじゃないの、ほら……」
「……? 俺の……とこに……?」
 来ている若いのというと、と明は数秒考える。たった一人しか思い浮かばない。
「……波雲か?」
 いやでも、この時間傘芽はまだ大学で、バイトもしていないだろうから大学にいるはずだ。それに今日は朝と夕方の講義が入っているから夕飯の買い物は頼みましたよと言われている。冷蔵庫にあるものでいいだろう、と返したのだが、備蓄を買っても食べきっちゃうのは誰ですか、と尋ねられて言い返す言葉もなかった。
 明自身その自覚があるのだが、燃費が悪いのだ。作り甲斐があると傘芽はそう言うけれど。家賃も渡していない、金の工面はむしろしてもらっている、自分はと言えばあの傘芽の家に帰り、飯を食い、眠り、ここでおばちゃんたちの話し相手になるだけ。世間一般ではこういう輩をヒモとでも呼ぶのだろうが、働いていないわけではないのでギリギリヒモではない、というのが明の主張である。「いいえ、違いますよヒモ先生」と言われてもだ。
「誰がヒモだ!」
 反射的に答えてしまってから、明は声の方を振り返る。あら、とやって来た青年を見て古書店の店主も声を上げた。
「店番を任せてたのに。どうしたの。何かあった?」
「こんにちは。先ほどぶりです、マダム。実は先ほど、旦那様がいらっしゃいましたので退散してきました」
「あらあ~! そうだったの。あの人もたま~にしか来ないのに。ありがとうね。あ、そうだこのとうもろこし、お礼に一本もらってちょうだい」
「いいんですか? かたじけない」
「武士みたいな古風な返事ねえ! まだ若いでしょうに」
「育ちの影響でして」
 またいらっしゃいね、と古書店の店主は上機嫌ににこにこと青年に微笑み下の階へ降りるエスカレーターに向かっていく。マダムと呼ばれたのが余程嬉しかったのだろう。今度からおばちゃんじゃなくてマダムの方がいいかな、と考えていたところで、「ヒモ先生」と呼びかけられた。
「だからヒモじゃないんだが!? というかおい、田中、お前ボディーガードだろ。姫さんどうした!?」
「ああ、お嬢様なら今ちょうどお向かいのビルの歯医者です」
「歯医者」
「ええ。虫歯はないのですが、検診で」
 その言葉にきょとん、と明も首を傾げる。歯医者なんてそこらに吐いて捨てるほどある。元々ことこは、傘芽の話によれば由緒正しい神社の神子家系だ。その近くに歯医者もあるだろう。こんなところまで来て歯医者、と怪訝な表情をする明に、「あの方も乙女でして」とこそりと声を顰めて男は答える。
「傘坊の歯医者がそこでしょう」
「そうなのか?」
「ええ、そうなんです。なので一緒の歯医者がいいそうです」
「それは乙女というよりストーカーじゃないか?」
「実際ストーカー行為をしていらっしゃいますので否定はしませんが……」
「怖! 怖いぞ! 誰かその間違いを正してやれ!? 大人が子供の間違いを正さなくてどうすんだ!」
「僕はまあ仕事でご一緒させていただいているだけなので、主人に逆らえる立場ではなく……」
「TPO! 時と! 場所と! 場合! それは脳死っていうんだ!」
「はあ、そっすか」
 めんどくせ、とやる気のなさが返事に透けて見える。田中、と呼ばれているこの男は、ことこのボディーガード兼専属運転手で、要するに彼女にいいように連れ回されている従者だ。とはいっても、明はこの男が餓鬼のお守もめんどくせえな、と思いながら渋々仕事としてことこに従っているのを察している。
「じゃあヒモ先生がご指導なさっては? お嬢様に唯一交流のある身内以外の『大人』ですし~」
「いい加減そのヒモ先生ってのをやめてくれ!?」
「ハハハ。実際ヒモのお坊ちゃんだし傘坊の先生だしであってるでしょうが」
「ギイイイイ」
 ことこがいる場ではまるで舞台の黒子のようにぼんやりと傍に控えている田中だが、話してみるとかなり意地の悪い青年なのだ。丁度一回り以上年上と聞いて驚きもしたが、彼が全く気にしていないので態度を改めたことはない。今更年上みたいに敬われても、と遠慮すらされた。その田中がふとスーツのポケットからスマートフォンを出す。
「お。丁度終わったみたいなんで会計とお迎え行ってきますわ」
「暇つぶしに来たのか!? おい! 占ってけ!」
「あはは、僕、占いとかそんなに信じないんで~」
 ひらひらと明の言葉を交わすように、田中は軽く手を振って、じゃあまた、とエスカレーターに足を向けていく。駅に直結してはいるが、栄えているのは逆の出入り口だからこの辺りには暇が潰せるような場所もそうない。精々パチンコ屋くらいのものか。だからと言って世間話をするためだけにここへ足を運ぶ理由も分からず、明はふと、首を傾げ――何やら見覚えのないものが店の前に増えているな、とその時漸く気付いた。
 置かれていたのは子供用の椅子だった。



「――監督責任を追及します」
 さあ尋問の開始である。
 時々不定期に行われるこの尋問は、尋問と言うかなんというか、モンスターペアレントによるあなたこれはどういうことなんですか質疑応答会なのだ。明は歯医者帰りで乳歯混じりの歯をぴかぴかにした少女を前に片肘を付いている。
「監督」
「そう、監督!」
「なんで?」
「何でも何も!」
 あの! 女が! ストーカーで! 傘芽くんを! 傘芽くんに! と少女は腹立たしさを噛みしめるようにどんどんと己の太腿を叩きながら叫んだ。欠伸をするな田中。明の視線にも動じずに、「痛くないんすか」と彼はとりあえず聞いてみた、とばかりに感情のこもらない声で少女――ことこに尋ねる。明は暫しの間、彼女が一体誰の事を言っているのか考えて――丁度この間、傘芽の家の庭に不法侵入してまで呪物を置いていったあの阿呆のことを言っているのだ、と合点した。
「ああ! あの!」
「忘れてるんじゃないですよ! トールは! 本当に! 何をしていたのです!?」
 一緒に住んでいるのに! 何故!
「いや~面目ない。というか、俺もストーカーは被害者になる方が多いけど、なかなか気づかないもんだぜ? すぐにわかるストーカーなんか可愛いもんで、大抵は見つからないように、極力気配を消すもんだし」
「あの女あの女あの女あの女あの女」
「ランドセル背負ってる神子様がしていい顔じゃないぞ、お姫さん」
「呪い方を教えてトール……」
「教えるわけないだろ。馬鹿か?」
 傘芽の前ではかわい子ぶっている少女だが、その年齢に見合わず随分高等で特殊な教育を受けてきたらしい。だからだろうか、素はあのぶりっ子ではなくこちらの方なのだが、傘芽の前では絶対にこちらを出さない。まるでそういう呪いでも自分にかけているかのように人格の制御が出来ているのだ。それより、と明は漸くこの話の違和感に気付く。
「お姫さん、それ、どこで聞いた? 波雲は自分から言わないだろ」
 傘芽のことだ、ことこにそれを伝えたところで彼女がこんな風に心を乱すのはあらかじめわかっている。だからきっとこのことはことこには自ら言うことはしないはずだ。明も明で職業柄、他人の身に起きた事を、別の誰かにべらべらと話すこともしない。自分こととなると、また話が別になるのだがが。
「それは聞――」
「聞いた? ……誰から」
 はっとして、ことこはくちびるをきゅっと噤む。明は彼女の後ろに控えている田中へ視線を向けた。田中は素知らぬ顔だ。怪訝な表情を向ける明にも動じない。
「……――そーだそーだ。お姫さんとこの学校ってお嬢様学校なんだろ? ってことはさ、普通の小学生の常識とはまたちょ~っと違う感じの家なんだよな?」
「え? そ、……そうだと思うけど」
「じゃあ、おまじないとか占いもやらないよな?」
「や、やることもある!」
「つってもお姫さんみたいな本格的な占術じゃないやつだよ。実は今巷で話題のそのおまじないセットを持っててさ」
 明は店の奥の棚から、保管していた紙を一枚持ちだしてくる。鳥居といくつかの言葉と五十音が並んだ少し使用感のある古い紙だ。ついこの間、このまま処分するのは怖いから預かってくれ、と出勤した際にひっそりと店の前に封筒に入れておかれていた。時々あるのだ、知識もなく占術や呪術に手を出し、怖くなって自分の尻拭いを他人に任せる者たちが。明が受け取らなくても、このビルにテナントを借りている他のオーナーの所へ運ばれてくることもある。
 この古典的な『こっくりさん』もその中の一つだ。
「……こっくりさんじゃないですか」
「そうだぞ?」
「ことはそんなのやりませんよ」
「別に稲荷と相性悪いわけじゃないだろ。それとも何かやましい事でもあるのか?」
「…………」
 むう、と明の言葉にことこはくちびるを窄める。しばらく考えこんだ後、「田中」と彼女は後ろに控えていた田中を呼びつけた。
「ことの代わりにやって」
「ええ~。僕がですか」
「やって」
「はあ……。はい。わかりましたよ」
 でも俺占いとか全然信じてないですよー、と答えながら、彼は一旦店の奥に勝手にずかずかと進み、勝手知ったる他人の店、とばかりに、椅子を一つ持って戻ってくる。おいおいおい、と明が止める間もなかった。
「ふうっ。じゃあはじめましょか」
「田中~っ、お前な~!? ……ふんっ、まあこの後まるっと暴いてやるからな。見てろ」
 それはそれとして硬貨が必要だ。十円、と財布から小銭を探して紙の上に置く。始めは鳥居の上に。ほら指出せ、と明は田中を促した。言われるがまま、田中は硬貨の上に指を乗せていく。明も同じように人差し指を乗せた。
「じゃあ俺が降霊するからしばらく黙っててくれ」
「へーい」
「田中、余計な事言ったら減給」
「やーべっ。これって思ってること全部筒抜けになるやつでしたっけ」
 どうやら田中も聞いたことくらいはあるらしい。もう離すなよ、と言い聞かせてから、明はさっさと降霊を始めた。ことこは腕を組みテーブルの上をじっと睨みつけている。こっくりさんこっくりさん、と呼びかけて願いや質問の答えを尋ねる初歩的な呪いだ。それこそ、手軽過ぎるがゆえに後先を考えていない子供も出来るくらいの。
「お姫さんはなんで波雲のストーカーの事知ってたんだ?」
「…………」
 す、っとゆっくりと硬貨が紙の上を滑り始める。すとおかあ。硬貨は順にそのひらがなをなぞった。鸚鵡のようにたずねかえせと言った覚えはない。
「……誰から聞いた?」
「…………」
 すすす、と今度はなぐもさんが、と硬貨が動く。ここで傘芽の名前が出てくるとは思っていなかったので、明は目を見開いた。「なぐもが直接言ったのか?」はい。「……お姫さんはそれをどこで聞いた?」いえ。「誰の」ことこ。
 探偵にでもなった気分だったが、明は漸く事の次第が見えてきた。田中は何も言わない。その隣でぶつぶつと何かをことこが呟きだす。不意に、きゃあ、とどこかから若い女の声が聞こえてきた。雨ヤバ、という、どこか慌てた声だ。「……それは盗聴か?」と尋ねる。あ、と思った時にはことこが立ち上がって机をひっくり返そうとしており、明は慌てて、机を横へずらそうとした。正しい返し方をしないと、この紙がただの呪物となってしまう可能性があったから。
「――あれ、ことちゃん?」
 だが、それもその声でぴたりと止まった。突然の雨に降られたのか、前髪はぴたりと額に張り付き、服には斑模様が増えている。
「波雲ォ!」
 ちょうどいいとこに、と明は開いていた方の手をぐっと握った。思った通り、激昂しかけていたことこが大人しくなる。借りてきた猫にしてはどうにもなれなれしいが、ごろごろとまるで喉を鳴らすみたいに、彼女はすでに「傘芽の前」の自分に代わっていた。女の変わり身の早さに年齢は関係はないのだと明は思う。
「何してるんですか? こっくりさん?」
「おう、ちょっと聞きたいことがあったからな」
「……? 直接聞けばよくないですか?」
「話してくれなかったんだ」
「何をです?」
「それが――」
 ごん、と田中が座っていた椅子をことこが蹴り上げる。傘芽には見えていない。田中はその衝撃にはっとして、「ありがとうございました。こっくりさん、こっくりさん、お帰りください~」と先に声にしてしまう。今回降霊に参加していたのは彼も同じ。参加者のどちらかが正しく返せば儀式は破綻したことにならない。
「ああっ!? おい! まだ全部聞いてないぞ!?」
「トールは詰めが甘いですねえ」
「こっん……の二重人格クソがきゃっ……」
「で、何を聞こうとしてたんですか?」
「傘芽くんは知らなくていいの!」
 わあわあとあれこれと騒いでいる間に、恐らくことこが呼んだのであろう雨はすっかり止んでいた。田中がふと顔を上げ、店の中に設置されていた時計を見てあ、と呟く。すくっと立ち上がると、ことこが座っていた子供用の椅子を持ち上げた。
「ことこ様、そろそろ時間ですよ。行かないと神主様に俺がドヤされます」
「傘芽くんの家に泊まる」
「外出許可は歯医者だけでしょうが」
 ここに来てるのだって言ってないんだから、とことこの言う事であれば大抵ははいはいと聞く田中だったが、その保護者からの命令をさらに優先するため、子供の駄々っ子モードを御する慣れた大人の態度に変わっていった。やだー! と暴れ出すかと思ったが、そこは傘芽も慣れたもののようで、「また今度来るときは沢山好きなもの作りますね」と、わざわざことこの前にしゃがみ、言い聞かせ、ハグをして髪を撫でてあやし納得させる。ことこもそれにはすぐに上機嫌になり、不服そうではあったが、それ以上帰らないとごねることはなかった。
「じゃ、ヒモ先生も傘坊もまた」
「もう来んな! 椅子片付けてけ!」
 あと鑑定料おいてけ、という明の声を全て聞こえないふりで右から左に聞き流し、ことこを抱え、もう片方の腕に子供用の椅子をひっかけながら田中は颯爽と歩いていく。「またね、傘芽くんとおまけのトール」と、エスカレーターに乗り込みながらことこが手を振るのを明は見送った。
 どうやら丁度、ことこが雨を降らせた時に外を歩いていたらしい。ゲリラ豪雨だとみんなは思ってますよ、と傘芽は一つ小さく息を吐きながら、田中が戻すのを忘れていった椅子を引き寄せた。
「今日は遅くなるんじゃなかったか?」
「その予定だったんですが、先生が出張先でぎっくり腰になってしばらく帰れないと休講に」
「呪われたのか?」
「なんでもかんでも明先生と一緒にしないでくださいよ。……それで、ことちゃんは何故ここに?」
「へ?」
 そりゃあ尋問をしに、とそのまま答えそうになって、明はくちびるをかみ殺さん勢いでぐっと強く噤んだ。あぶない、言ってしまえば今度会った時にどうなるかわからない。そもそもあの感じでは、どこでどんな風にこの会話を聞かれているかわからないのだ。「……これは一つ提案なんだが」と明はどういう表情をすればいいのかわからないまま、おずおずと傘芽に問う。「帰ったら掃除をするべきじゃないか?」
「はい?」
 あの初めの「すとおかあ」が、この間の女学生ではなく、ことこのことを指していたのだとしたら。直接ではなく、『盗聴』で傘芽からストーカーの話を聞いたのであれば。傘芽の家で、明は彼と例のストーカーからの示談金の話をした。それをことこが聞いていたのであれば、傘芽が何も言っていなくとも、彼女があのことを知っていたことくらいは分かる。こんなことなら、探偵か何かに頼んで調査してもらった、と嘘を吐かれた方がまだよかったのかもしれない。
「帰ったら掃除する」
「……? はい。どうぞ。よろしくお願いします」
「お前もするに決まってるだろ!」
「まだそんなに汚れてないと思いますけど」
 きょとん、と明に向かって首を傾げ、傘芽はよくわからない、とそう顔に貼り付けたまま、「ことちゃん、ストーカーの事で何か言ってました?」と尋ねてくる。ああめちゃくちゃな、と反射的に答えて、はた、と明は我に返った。
「あ? ……波雲、お前あの事話したのか?」
「いえ。本人には直接話してないですよ。でもどうせ聞いてたでしょうし」
「聞いてた」
「うちに盗聴器仕掛けてありますよ。リビングとか」
「知ってたのか!?」
「……? はい。定期的に見つけては捨ててますけど」
 それがどうかしましたか、とばかりに傘芽は首を捻る。どうしたもなにも、と明は傘芽を凝視したまま、「普通嫌がるもんじゃないのか」と正気を疑うように彼に尋ねた。
「ストーカーを可愛いものだと言っていたのは明先生では?」
「…………」
「ほら、可愛くないでしょう? 賛同しかねると言ったじゃないですか」
 可愛い可愛くないの問題ではないような気がするが、と明は傘芽の表情を見ながら怪訝な視線を向ける。まあ、この際可愛い可愛くないは置いておくとして、問題は、だ。
「波雲……なんでお前は、それをわかってて放置してるんだ……?」
「何故か? ……それは、明先生の方が『よくご存知』では?」
 お店早めに閉めません? と、傘芽は訊ねてくる。それから、田中がおばちゃんからもらったはいいが、そのまま忘れて置いて言ってしまったとうもろこしに気付き、「今日は屋台飯フルコースにします?」といいことを思いついた、とばかりに手を打った。



 ――愛というのね、明。人が他者にかけられる、一番簡単で、扱い次第で一等面倒なものになる呪いなの。

 これはかの偉大な母が失踪する前、ちゃんと『偉大なる母』であった頃、明が姉と取っ組み合いの喧嘩をしボロクソに負け、それでもなんとか勝とうとしあろうことか最後の力を振り絞り姉の顔に噛みつき双方顔がぐしょぐしょになるまで泣き叫んだ大喧嘩の時の事である。
 縄で縛られながら、にこにこと微笑み、偉大なる母は明に言った。何故縄で縛られる必要があったのかというと、偉大なる母は現役時代看護師をしながら趣味で女王様をしていたからに他ならない。
 明が、それが家の常識でも外の世界の非常識だと知るまでそう時間はかからなかったが、当時程度の酷い説教は大抵、細い縄で体のあちこちを包むようにぎゅうぎゅうと縛られて行われるものだった。もちろんそれは明だけでなく姉たちも例外ではない。幸いと、明本人はその時に新しい扉を開いたり性癖を歪められることはなく、むしろ恐怖心が勝っていたので、明は緊縛が今でも苦手だった。
 偉大なる母は絶対に女には手を上げるなと教え込んできた息子が、その日「女」である姉に怪我を負わせたことに大変ご立腹だった。明の姉は決してゴリラではなく、一応は「女」だった。そして女であり姉であった。姉弟間では目上の者である。だからこれはいけない事なのだと、身をもって教えるわ、これは躾で虐待じゃないわよと、偉大なる母は縛られたちんちんが痛い、と泣きじゃくる明に言った。
 今でもその時のことを思い出すと下半身がぞっとして背筋が震えるのだが、女系家族で育った明にとって、この言葉こそまさに愛という呪いのようなものだった。女には絶対に手を上げてはいけない。そういう家訓。その家訓における愛。呪い。それがあるから自分は、敬愛なる姉君には一切逆らえず、そして姉君たちも、親愛なる弟をある程度おもちゃにしてもかまわないと思っている。可愛がることは、愛であるので。
 なお、母も姉も呪術や占術には疎い。占いは好きだが別になくてもそれはそれで構わない、ニュースのコーナーでやってたらついでに見るかな、くらいの認識だ。明がある日、耐え切れず実家から逃げ出すように家出して、転がり込んだ繁華街の胡散臭い占いの館で知り合った老婆から、占術を学びそのまま占い師になるだなどと予想もしていなかったくらいには。
 明は今、偉大なる母に説かれた愛、そして姉たちに与えられていた愛についての様々な出来事を思い出している。祭り囃子は、明にとっては遠くから聞くものだったから。
「……うちの姉が」
 祭りに行くといつも食べきれないほど屋台の飯を買ってきたんだ、と明は言う。
 本来、田中がもらったはいいがおいていった一本だけだったはずのとうもろこしは、傘芽と共にスーパーに向かった後四本に増えていて、今は横に半分くらいに切ったそこから、焦げた醤油の香ばしい匂いが立ち上っている。その隣では、じゅうじゅうと焼ける串にささった牛肉から、肉汁が垂れ落ち火を高く跳ねさせる。串が焼け切らないうちに、明はトングで串を掴み上げ、紙皿の上にそれを移した。
「焼きトウモロコシ、りんご飴、牛串、箸巻き、お好み焼き、焼きそば、こんにゃく、綿あめに、あとは……まあともかく、買えるものは殆どだな。買ってきてくれたんだが」
「来てくれた?」
「俺は祭りにはいかなかったんだ。当時の俺は……まあめちゃくちゃモテてな? 顔がいいばかりに」
「はあ」
 またその話か、とばかりに傘芽が呆れた声を上げる。「だからよく誘拐されかかってなあ」と続けた明に、今度は声を跳ねさせたが。
「誘拐?」
「男か女かわかりにくかったらしい。一度祭りに連れて行った時に、運悪く家族と離れて……その間に、まあ~実の所トラウマレベルの事をされていたらしいんだが」
「らしい」
「ほぼ覚えてないしトラウマにはなっていないからな。ともかく、そう、そういう事があって、俺は大抵縁日や祭りは留守番をしてたんだ。姉は俺のことを愛していたからな、そりゃあもう屋台と名のつく場所で売っているすべてを一つずつ俺に用意して帰るつもりだったらしい」
「いい話……ですね……?」
「いや? 別にそう美しい姉弟愛の話というわけでもないぞ。何せ、姉は俺を愛しているというのを免罪符に俺を痛めつけるのを趣味としてたからな。偉大なる母の性癖を立派に受け継いで今は上の姉が女王様だ」
「わあ」
「興味があるなら紹介するぞ」
「結構です」
 で、それとこれと何の関係が、と傘芽はきょとん、と首を傾げる。こっちはもう出来ましたよ、とお好み焼きと焼きそばを焼いていたホットプレートのつまみを保温に合わせていく。
「お前、ストーカー被害に遭った時――正直なところどうでもよかっただろ?」
「はい?」
「それはお姫さん由来のものか?」
「ことちゃんですか? ……あー……、まあ、うーん。別に、ことちゃんのことも、俺は黙認しているというわけじゃないんですが」
「応えてやる気もないのに、甘やかしたり好きにさせたりするとつけあがるぞ」
「それはそうでしょうが……まさか、あの明先生から女性関係で説教を頂くなんて思いもしませんでした」
 冷めちゃうので食べましょう、と傘芽は明を促してくる。明も握っていたトングで焼き上がったトウモロコシを皿に移し、傘芽の後を追った。
 庭先に並べたバーベキューコンロの火はとりあえずそのままに、庭に出したテーブルにつく。テーブルの上はあの日姉たちが買ってきたのと同じようなメニューがずらりと並んでいる。二人分には多すぎましたね、と傘芽は言いながらひとまず近くにあった焼きそばを手に取っていった。飲み物も準備して、じゃあいただきます、と軽く合掌する。それから、傘芽はにこりと明に微笑みかけた。
「――それで、明先生はどうして俺にそんなことを?」
「そんなって?」
「要するに、明先生が言いたいのは、ことちゃんのストーカーを容認するなってことですよね?」
「まあ……、……お前のそれが、例えば、妹分なんかに対する親愛なのだとしても、常識的に考えて、その。俺もああいった手前……なんだが」
「あ、その自覚はあるんですね」
 どの口で言うのかと、と傘芽は言う。じっと明を見つめたまま、悪い事はちゃんと辞められる子ですよ、と彼は言う。
「むしろあの環境じゃ、『間違う』ことの方が少ない。間違いがなければ人間は精神的に成長しませんから、敢えて間違えさせているんですよ」
「ただの方便じゃないか、それ……?」
「そうですか? ――……明先生は、自分の身に起きた事には何故か寛大だ。それが女性であれば、責めることすらしない。俺は同じように見えて違います。ただ、許す人間を限定しているだけですよ」
 他の女はちゃんと放っておかなかったでしょ、と傘芽は明に同意を求めてくる。確かにそうだが、と一度頷き、すぐには納得出来ずに眉を顰めた。そうではあるが、何と言えばいいのか、何と名を付ければいいのか。
 もやもやとする。コンロの中で燻る炭が静かに白い煙を上げる。煙は青く、箸を持つ自分の手も何故か青く染まっている。そういえば、と陽が落ちる頃だと言うのにまだかなり明るいな、と明はふと空を見上げた。
 真っ青だ。
 昼間の青とは違う、夜の群青とも違う。ただ、広がっていた蒼穹の濃度だけを煮詰めて濃くしたような、そんな青だけが広がっていた。夕焼けの頃なのに赤くなった記憶がなかった。夕焼けも赤と青があるんだったか? そういえばそんな話を聞いたことがある気がする。明が呆けて空を見上げているのに気付いて、傘芽もふと食事をする手を止め空を見上げた。
「ああ。そういえば青焼けですね」
「……おー……」
「あはは。明先生も景色に夢中になることがあるんですね」
「それくらいの情緒はあるに決まってるだろ! 波雲、お前馬鹿にしてるのか?」
「あはは、してませんよ」
 これ持っていきますね、と彼は先に視線を空から戻して、食べかけの皿を手に立ち上がる。目が覚めるような青を前にしているのに、先ほどからまだ靄はかかったままだ。同じように見えて違う。何がだ? そこに違いはないんじゃないか?
「……面白くないんだ」
「――はい? 何か言いました?」
「面白くない」
 だが何故だ? 明は考える。あまり考えるのは得意ではないから、明はこの違和感が何なのか、答えをすぐには出せない。ただ、面白くない。
 傍から見ればそれには「これ」という名前がついたが、残念ながらその時彼の傍にはそれを馬鹿正直に伝えてくれる者の存在はなかった。
 傘芽は何だ、と不思議そうな顔をして首を傾げこちらを振り返る。そろそろ暗くなってきたので中に入りましょう、と彼は明に訊ねながら、リビングのガラス戸を開けていく。明はそれを手伝うこともせずに、首を傾げ、ただ深く沈んでいく青を見上げていた。
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