勇者の姉、召喚

奏多

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7章 彼女に謳う天上の青

魔の中に飲みこまれて

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「おのれぇっ」

 ミュルダールは、血走った目で剣を振り回し始めた。見えない敵を、打ち払うように。
 そしてふと気づいたように、足下の伊織に向けて剣が振り下ろされる。

 伊織は目を閉じた。せめて自分が死ぬ瞬間は見たくない。
 そう思ったのに、火花が散りそうな金属音が響き、伊織に剣は突き刺さらなかった。

 重たい瞼を開くと、肩で息をするアルヴィンがいた。
 アルヴィンは伊織を背後に庇って、ミュルダールを押し返し、その間に襲いかかってきた最後の兵士を切り倒す。

「やめろミュルダール! 全てお前の仕業だと、モルドグレスは全部吐いた!」

 モルドグレス……確か、誘拐の首謀者だと言われていた国だ。ミュルダールがモルドグレスに罪をなすりつけたのではなかったの?
 驚きのあまり、少しだけ伊織の意識がはっきりする。だけどミュルダールは剣をふるい続けた。

「なぁにが、モルドグレスだっ」

「城にも連絡をとった。ここは既に包囲されつつある。もうよせ!」

 ミュルダールの攻撃はやまない。アルヴィンの背の向こうに見えた彼は、目を虚空に向け、口は笑みの形に開いたままだ。
 ……狂ってるのか?
 それでもアルヴィンは説得しようとしていた。

「お前の目的は何だ!? さらなる権力か。それともエンブリア・イメル上納の優先権か?」

 ミュルダールは何がおかしいのか、笑い出す。
 なおも言いつのろうとしたアルヴィンだったが、再び魔方陣から湧き出した黒い影が細く伸びて彼の足を捕らえた。アルヴィンはその場に縫いとめられたように動けなくなる。

「くそっ」

 アルヴィンは剣を持ち直し、一気に攻勢をかけた。
 振り下ろされる刃を強く弾き返し、ミュルダールが体勢を崩したところで突き出す。
 アルヴィンの剣は、まっすぐにミュルダールの腹に刺さった。
 終わった、と伊織は思った。アルヴィンでさえそうだったのだろう。

 アルヴィンが、思い切って剣を引き抜こうとした。
 その時伊織の首筋に悪寒が走る。

「アル……っ!」

 悪い予感に押されて、彼を制止しようとした。けれど剣が引き抜かれる前に、仰向けに倒れていくミュルダールの腹から黒い霧が噴き出した。
 目の前が真っ暗になる。

「イオリ!」

 自分の名を呼ぶ声。そして庇うように覆いかぶさる誰か。
 だめ、逃げてアルヴィン。
 また腐臭がする。これはただの煙じゃない。霧じゃない。魔法でもない。

 この黒い空気そのものが、きっと魔なのだ。
 理解したけれどもう遅い。アルヴィンに声を届けようにも何かが口から侵入してきそうで、必死に閉じていることしかできなかった。


 気づくと、あたりは薄暗がりの中だった。
 暗いのに物を見分けられる程度にはなぜか目が利く。
 魔に飲み込まれてしまったんだろうか。そう思った伊織の目の端に、暗闇に抗うような光が見えた。
 暖かな空気が頬を撫でる。けれど、光が触れている肩は冷たいままだ。

「血が、止まらない……」

 震えるアルヴィンの声。
 その言葉で伊織は理解する。自分の傷のことだ。そしてアルヴィンは魔法を使おうとしたけれど、効果がなかったのだろう。

「アル……」

 伊織は伝えたかった。この暗さは魔に飲み込まれたからだ。魔には魔法が効かない。だからここでは使えない。だから諦めてほしかった。

「イオリ、気がついたか? まだ平気そうか?」

 顔を覗き込んでくれたおかげで、アルヴィンの表情がはっきりと見える。
 なんて顔をしてるんだろう。いつも言い合いばかりしてたアルヴィンが、どうしてそんな、泣きそうな……。
 ぼんやりと見つめ返すだけの伊織を見て、アルヴィンが舌打ちをする。そしてまた彼の手に光が宿る。

「殿下……魔に、とらわれてる、間は無理です」

 小さな声が制止してくれた。
 アルヴィンはわかっていたのだろう。でも誰かに言われるまで、信じたくなかったのだ。アルヴィンは手の中に握り込んで光を打ち消し、勢いよく背後を向いた。

「お前は黙ってろ! フレイ」

 アルヴィンの視線の先に、フレイがいるのだ。彼はまだ生きているようだ。よかった。

「いいえ。せめて殿下だけでも。早く、ここから出て下さい。魔の領域に居続ければ、健康な者だって精神を……」

「うるさい! けが人のお前やイオリを置いて行けるか!」

 そうか。魔法が使えないのなら、フレイの怪我も治せない。
 血まみれのフレイは、とても立っては歩けないだろう。だからアルヴィンは動けないのだ。どちらかを選んだら、一人はこのまま死んでしまう。でもこのままだとアルヴィンが危険だった。

「お早く、殿下。魔が広がっている。近隣の人間を、避難させないと」

 アルヴィンがフレイのいる方向から顔をそらした。眉間の皺が、彼の苦悩の深さを感じさせた。

「私なら、まだ持ちます」

 フレイの一言が、アルヴィンの中で何かを決意させた。アルヴィンはこちらをじっと見つめてくる。
 視線が絡み合うとは、こういう事だろうかと伊織は思った。
 言葉よりも温もりよりも強く、彼が何を選ぼうとしているか感じられた。
 身体に力が入らない自分は、たった一言すら言えない。

 ――だめだよアルヴィン。

 もう長くなさそうな自分よりも、フレイを優先させてほしかった。そう言いたくても、声もでない。代わりにまぶたが熱をもって、涙がこぼれ出た。
 アルヴィンがうつむき、その肩が時折細かく震える。まるでむせび泣いているみたいだ。

 伊織も、もっと泣きたくなる。
 捕まって悠樹の足手まといになってはいけないから、この世界に召還されたはずだった。よしんば捕まっても、自分だけがどうにかすれば済むと思っていた。
 なのに今できるのは、アルヴィンを苦しませることだけだ。

 何も出来ない。
 何の力もない。
 絶望感と共に意識が遠のいていく。

 目を閉じて思ったのは、母のことだった。母は最後の時に、何を思ってフレイを助けたのだろう。でも娘の自分は誰かを庇うことすらできなくて。
 ただ祈ることしかできない。誰か彼を助けてほしいと。

 ――大地はあなたを慈しむ。

 母がよく口ずさんでいた歌を、不意に思い出す。
 何の歌かと聞くと、故郷の祈りの歌だという。自分の大切な人を守って欲しい時、子供のための子守歌にもするから、物心つく頃には自然に覚えていたらしい。
 口馴染みがよくて、つい歌っちゃうのよね。そう言って笑う母の顔がやけに鮮明に思い出された。

 ――風はあなたと笑うだろう。
 ――炎は眠りを守り、

「……時は、全てを見下ろす……上天の青の世界」

 ほとんど声など出なかった。だけどやけに、自分の声が耳についた。

「イオリ?」

 アルヴィンの声が掻き消える。
 脳裏に浮かぶ地面にしみこんでいく大量の血。これは自分の血。
 赤い血と一緒に意識まで地面に吸い込まれていく。そこは暗くて、重苦しい空気に満ちていて、どこか異質な気配に満ちていた。

 魔だ。

 彼らは大地まで飲み込み、少しずつ変質させていく。
 自分も変わっていくのだろうかと伊織は思った。なによりアルヴィンは、フレイはどうなるのだろう。
 想像して、伊織は泣きたいような気持ちで願う。

 助けたい。せめて二人だけは。

 伊織はどうにかできないかともがいた。すると地に溶けた手の先が、まだ侵食されていない土に触れる。
 そこから息吹を吹き込まれるように、イメージが広がった。

 大地を抜け出し、地表に視界が移る。そして暗い影のような光に覆われた城が見えた。
 あれは、たぶん自分たちが今いる場所。

 逃げようとしてる人がいる。泣きながら炭色のガラスのように固そうな壁を叩く。
 でも影の檻からは出られず、広がっていく魔の領域と共に移動するのがせいぜいだ。そのうちに絶望して倒れていく。
 その間にも魔の領域は城の中の木を草を飲み込む。その瞬間に力なく草は萎れ、樹もしなびて倒れていく。

 影に覆われたような城の周りに、人が見える。兵士みたいだが、彼らもなすすべがなく、じわじわと範囲を広げる魔から離れることしかできない。
 なんとかしなければと思った。けれど、魔を滅ぼせるのは悠樹しかいない。

 その時、青い光が視界をよぎった。
 瞬きした伊織は、再び地面に溶けたままの自分を再認識する。そして大地の中に、魔の暗さにも負けずに光る、青い星をいくつも見つけた。

 天上の青。
 この世界では、エンブリア・イメルと呼ばれる石。
 青色の石に触れると風を感じた。この力を使えないだろうか。滅ぼせないのは知っている。止めるだけでいい。

 今、この瞬間のまま。
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