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〘140〙下種野郎
しおりを挟む夜鷹坂に空き部屋はあった。だが、ハルチカはエンジュと同室で過ごすよう指示をだされ、ただでさえひろくはない部屋に、ふたりで寝起きすることになった。さいわい、エンジュの荷物は小さなかばんのみで、箪笥や化粧台は、ひとつで間に合っている。
今夜から客を取るエンジュは、男娼らしからぬ着流し姿で、さっぱりとした短髪である。ハルチカより背は高く、淡く日焼けした肌の持ち主だった。
「あのラギって男、何者だ?」
鏡の前に腰をおろして寝グセをなおすハルチカは、足を投げだして坐るエンジュに質問された。哥に関心があるのか、真顔である。ハルチカは、ほんの少し答えにためらった。
「おれも、哥さんのことはよく知らないんだ。ヒシクラさんなら、大學をでたあと、どこかに就職したらしいけれど、ダンナといっしょに、娼館を立ち上げたみたい……。」
「帳場のおっさんか。あの髭面、いかにも常識人っぽいよな。……ああいうやつにかぎって、下世話に特化してたりするンだぜ。キスもうまい。」
その見解は当たっている。エンジュのことばに共感するハルチカだが、知らないふりをして鏡のなかのじぶんを見つめた。アカラギに私情をはさまれた夜、このうえなく幸福な時間を過ごしたハルチカは、仕事に専念することにきめた。おもむろに立ちあがったエンジュは、ハルチカの背後にまわり、両脇から腕を差しこむと、股のあいだをじかにとらえた。
「あんた、かわらけか。……なめらかだな、」
「……なに……やってるの、」
「上級男娼なんだろう? おれの手で、いい具合に温めてやるよ。」
「……やめろ、そこは、……あッ、」
刀身を摑まれて身動きできないハルチカは、エンジュの指をふりはらえず、速くなる心拍数に呼吸が乱れた。頭がクラクラするのは、快楽に弱いせいで、エンジュの吐息が耳にかかるからではない。敏感な部位を擦られて、「あんッ、あんッ!」と声をあげることしかできないハルチカは、アカラギの体温を思いだそうとした。
「あんた、好きな男でもいるのか。」
「なに云って……、」
「図星って顔だな。ラギ? それともダンナ? もしかしてヒシクラか?」
「う、うるさいな。エンジュには関係ないだろ。」
文脈の流れで興ざめしたハルチカは、なんとか相手の腕を押し退けると、中途半端な生理現象を苦心して鎮めた。
「まさか下種野郎じゃあないよな。」
「……げすやろう?」
下種野郎に躰を弄ばれたエンジュは、心なしか腹を立てていた。下種野郎と呼ばれる人物が誰なのか、まったくわからないハルチカは、あからさまに眉を寄せた。惚けているようには見えないため、エンジュが詫びた。
「悪い。……起きれるか?」
ハルチカはエンジュが差しのべた手を辞退して、畳のうえで背中を丸めた。愛情を求める男は、ひとりだけ存在する。告白もした。結果は、現在の状況に至る。あいまいさを回避できずにいたが、それでもいいと考えを改めた。むろん、寂しいとは思う。しかし、ハルチカのやるべきことは、アカラギの陽炎を追いかけるだけではない。
「……やっと、哥さんの一部が理解できたような気がする。……おれは、本当にものすごくまぬけだったンだな。……嫌われるまえにわかってよかった。」
戯言をきくほど、エンジュは閑人ではない。寝転がるハルチカを放置して廊下にでると、エンオウの姿を探した。調理場で野菜の下拵えをしている。開店前の準備で忙しそうにつき、エンジュは風呂場へ移動した。裸身になって湯殿にはいると、剃刀で体毛を処理した。
✓つづく
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