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〘112〙サイキチ
しおりを挟む恋人を持つ身で娼館に近づく者は、急所に呪詛や禁厭を施される。いちどでも花町を見てきた者は、妻子があっても永遠に惑わされる。ことごとく辛辣な評判だが、怪しき類こそ、公けに認めたがるものだ。
狩谷鷹羽との二度にわたる枕席で、心に動揺をおぼえたハルチカは、調理場で頭を冷やすことにした。水道の蛇口をひねり、バシャバシャと顔に水をかけていると、十四歳の彩吉がやってきた。
「ハルさん、なにやってるんですか?」
男娼が顔を洗うさい、髪結場の洗面器を使う。営業時間まえの調理場で、ハルチカの姿を見かけたサイキチは、気になって声をかけた。三年前、十八の誕生日を迎えるまでの数ヵ月間、ハルチカは、サイキチといっしょに客間へ食事を運んだり、枕席後の布団を片付けたりしていた。
「サイキチ……、なんでもないよ。頭を冷やしたくてさ……。」
「だいじょうぶですか? 具合が悪ければ、ラギさんを見つけてきますが……、」
「平気だよ。それこそ、熱っぽくなってしまうから、」
「でも、ハルさん、なんだか、泣いているように見えます……、」
サイキチにまで気を遣わせてしまったハルチカは、どうしてこれほど弱々しい状態になったのか、原因の張本人を恨めしく思った。好きと嫌いは紙一重というが、好きだと思えるうちから、やっぱり嫌いだと意識した時点で、特別な存在であることに変わりない。カリヤは、そういう類の人間だった。
「サイキチ……、きみは、娼館をどう思う?」
「夜鷹坂のことですか? ぼくは、余処の舗で働いた経験がないので比較はできませんが、生活に困っていたとき、旦那さまに下働きとして雇われたので、とてもありがたい場所ですね。従業員のみなさんをはじめ、男娼の方々もすばらしくて、尊敬しています。」
「尊敬? おれのことも?」
「はい、すばらしいです。」
「そ、そんなことない。おれは、失敗ばかりで、何ひとつ、うまくできないから……、」
「いやだな、失敗なんて誰でもしますよ。ぼくだって、栄螺の潮汁を煮つめてしまったり、洗ったばかりの椀を床へ落としてしまったり、調理場では、未だにひとりだけ半人前です。」
以前、十七歳のハルチカは、十三歳のサイキチと調理場で皿洗いをしたことがある。まだ身体が発達過程にあるサイキチは膝が痛むといいながら、笑っていた。痛いはずなのに、なぜ笑い話になるのかと、ハルチカはサイキチの言動に違和感をおぼえたが、早くから働きだしている少年は、忍耐力を身につけていたのかもしれない。
「お恥ずかしい話ですが、裏庭でしょんぼりしていたら、ヒシクラさんが通りかかって、励ましてくれたこともあります。ぼくなんかの小言に耳をかしてくれる大人がいるなんて、すごいなって思いました。……ぼくでは役不足かもしれませんが、お話なら、いつでも聞きます。遠慮なく声をかけてください。」
人前では泣かず、ひそかに己をかえりみる。ハルチカは、思ったことをアカラギに吐きだすばかりで、サイキチのような鷹揚さは欠如していた。忍耐強い人間は、じぶんの利益を求めない。恨みを抱かず、異言を語られても、心意気までは廃れない。ハルチカは劣等感にとらわれたが、サイキチの経験談を教訓とし、周囲の支えに感謝した。
「ありがとう、サイキチ。おれ、すばらしい男娼になってみせるよ。」
上級男娼として、これからも夜鷹坂で働く意欲を分けてもらったハルチカは、歳下のサイキチこそ、しっかり者でがんばり屋だなと感心した。
✓つづく
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