向こう岸の楽園

み馬

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第99回[楽園]

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 旅の仕度したくといえるほど荷物などない飛英は、「かならず帰ってこいよ」という鷹羽に見送られ、始発車両へのりこんだ。礼滋郎の口数は少なく、背後が気になって落ちつかない飛英は、軍人のとなりへ腰をおろした。スーツの男に狙われる可能性は低かったが、そうとは考えない飛英は、視線が泳いでしまい、ちょうど横を向く礼慈郎と至近距離で目が合った。

「す、すみません……。」

 ぎこちなく顔をそむける青年の表情は、緊張が隠し切れず、硬くなっている。時刻は平日の早朝につき、地方へ向かう人影はほとんどなく、ふたりが並んで坐る車両は貸し切りに近い。線路を走る機械音に耳がなれたころ、ようやく平静になれた飛英は、車窓を流れる景色をながめた。晴れた空の下、オーロラのように光る川や、ぽつぽつとした屋並やなみ、一面にひろがる田畑など、長閑のどかな山間部を通過していく。

 飛英は生い立ちに悩むことをやめにしていたが、織原の姓だけは気重に感じた。呪われた血筋であり、受け継いだところで負の遺産でしかなく、滅びた集落の後片付けは、生き延びた者の役目となってしまった。池に沈む犠牲者を弔い、有害を生み出した儀式の祭壇を破壊し、憐れな先祖を供養することが、やるべき内容である。織江おりえが築いた楽園は、もはや、どこにもない。飛英の父親のように、集落から離れていった村人は、名前を変え、ひっそり暮らしていると思われたが(織原の姓がめずらしい響きとなっているため)、忌まわしい集落の出身だと、あえて口外する者はいないはずだ。常識的に考え、飛英は、故郷をなつかしむことはできない立場なのだ。

 無人駅の待合室に、ぽつんと人影がある。汽車が走り去ったあと、まず、礼慈郎が先を歩きだし、飛英がそのうしろをついていく。思ったとおり、白髪の男がベンチに坐っていたが、何かようすがおかしい。礼慈郎は眉をひそめ、「少し待て」と云う。

「どうか、お気をつけを……、」

 礼慈郎は人影を確認するため、ひとりで待合室へ向かった。背中を丸め、前かがみに腰をかける老人は、かつて集落で暮らしていた生き残りであり、織江の悪習に取り憑かれていた。儀式の祭壇で、快楽を貪る権利があると思い込み、数十年待ち続けた結果、飛英が姿をあらわした。語り継がれていたとおり、ひたいあざを目にした老人は、まず、生贄を池に沈める必要があった。飛英に寄り添う軍人は、ただ邪魔な存在につき、淫呪の血の供物くもつにしようと考えつく。とはいえ、体格的に腕力では勝負にならないため、軍人が飛英との快楽に溺れ、油断しているところを背後から狙うつもりだった。

『死んでるの?』

 青年は、いつまでも戻らない礼慈郎が気になり、待合室へ近づくと、戸口から顔だけだしてたずねた。口調の変化で英理えいりの人格を確信した礼慈郎は、背を向けたまま「そのようだ」と、こたえた。ふたりが到着する前、白髪男の脳は、神経細胞が過剰な異常活動を引き起こし、意識傷害に陥った。興奮性の発作ほっさは憑き物のしわざだという誤解や偏見のある世上で、まさに、ふさわしい往生際だったといえる。死後、一定時間ののちに始まる筋肉の硬化現象が見て取れた礼慈郎は、「安らかに眠れ」と、弔辞ちょうじを述べた。英理は静かに歩み寄り、死者を見おろした。

『ほんに、愚人ぐじんだこと。狂人の夢想にすがったところで、生きていけるはずもないわぇ。』

 底知れぬ闇が、常に理性を迷わせる地上に、楽園など存在しない。


✓つづく
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