向こう岸の楽園

み馬

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第94回[気概]

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 生きるために人を好きになる。確定的な定義はないが、人間は自分にとって持続的な価値を求める傾向にあり、その主体(対象)が損なわれないかぎり、心は満たされる。

「こんな話、よしましょうか?」

 個人的な思いを吐露する椿だが、あまり興味を引かれない礼慈郎は、少し考えた末、「そうだな」といって、劇場の出入口へ視線を向けた。責任者の花園がいない今、当時の飛英ひえいについて詳しく知る人物は、闇市の支配人キラだけとなる。ひとまず、椿に飛英の無事を伝えておき、芸者時代に変わった点はなかったかどうか、それとなくたずねた。

「そうねぇ、とくに何もなかったと思うけど……。あの子の場合、額に黒いシミがあったでしょう? それを本人も気にしていたみたいで、基本的に笑わないし、話しかけてこないし、いつもひとりでいたわね。だからって、誤解しないでね。わたしたちは、それなりにうまくやっていたわ。闇市で暮らす者同士、どんな事情があれ、むやみな差別はしないの。」

 闇市で飛英と遭遇したとき、こちらの顔を見ようともせず、逃げ去るような態度を取られた礼慈郎は、椿の意見を聞くかぎり、ストリップ劇場の関係者は、英理えいりの存在を知らないようだと判断した。生身なまみを得ることができなかった双児の片割れは、飛英の内面に潜み、過去の出来事や感覚を、すべて共有している。英理は、刺激や快楽に過剰な反応を示す気質だが、快楽主義という表現は、いささか語弊ごへいがあった。内気な飛英であっても、舞台上では紐パン姿で開脚ポーズをきめてみせる。常におとなしく、控えめに行動している性格ではない。廃村で拐われたときも、体当たりで目の前の壁に立ち向かおうとしていた。秘めた側面を持つ者は、意外と多い。したがって、他者の二面性を極端に警戒せず、本質(あるいは、気概きがい)を見ぬくことが適切である。

 礼慈郎は財布さいふから紙幣を抜き取り、椿へ情報料として差しだした。これといって生活に困らない椿は「らないわ」と、丁重に断った。

「少しだけど、お話ができて楽しかったわ。それに、安心したの。それだけで充分。……利玄礼慈郎さん、あなたはほんとうにはなぶさのことしか頭にないのね。末永く、あの子をよろこばせてあげて。……さようなら。」

 出番が近づき、舞台の裏方へ引き返す椿は、扉の前で礼慈郎をふり向き、小さく頭をさげた。誰もが思いどおりに生きることはできない世の中でも、心が満たされているうちは、理想的な節制と調和が実現する。内在する負の感情に、理性がこわされることはない。椿は、克衛の存在が精神の支えとなり、胸を張って舞台に立つことができた。たとえ、相手に気持ちを受け取ってもらえなくても、同じ空間(闇市)に身をおけるだけで、しあわせを実感できた。

 椿と別れた礼慈郎は、事務所へ向かった。ひときわ目立つ4階建てのビルに、闇市の支配人が住みついている。3階の応接間から、みつるが姿をあらわした。いつもの癖らしく、階段の手すり越しに身を乗りだすと、あわてたようすで駆けおりてくる。

「なによ、こんな時刻に。軍人さま、、、、が、なんのご用?」

 男娼だんしょうの充は、口唇くちびるべにをさしている。キラとは親密な関係で(たんに、肉体からだ相性あいしょうが良い)、闇市へ迷い込んだ飛英に、はなぶさと命名した人物でもあった。


✓つづく
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