向こう岸の楽園

第58回［狂気］

　織江久吉おりえひさよしは、軍隊の構成員である医師（軍医）の家系に生まれた三男である。富国強兵ふこくきょうへいを国是こくぜとした明治維新後の大日本帝国は、軍事力の強化および、殖産興業の政策を掲げ、めざましい近代化が成り立っていく。生産をさかんにして経済力を高め、より強い軍隊を増やすことで、田舎の農村部では、もっとも働ける若者が兵役へいえきに取られる結果となり、生活に困窮する家が多くなった。

　地主でもある織江家は、貧まずしい農村社会の振興に努つとめ、よき仕事をする一族として尊敬されるようになり、しだいに発展に尽くした時代に関係なく、人々から敬意を払われる存在になった。久吉ひさよしは、当時としては裕福な家庭環境で育ち、先祖の才を受け継ぎ、医術を学ぶ道へすすんだ。生家を離れて大学へ通い、豊富な知識と技術を備えてゆくが、戦火のおり、微力ながら医師として従軍し、野営テントで負傷者の治療にあたる経験をした。精神状態が崩壊した兵士の面倒を担当するうち、久吉自身も正常な判断力を失っていき、やがて、平和を求めて単身さまよい、長閑のどかな地方で町医として働くようになった。もとより、織江家の家督は長男が継ぐため、三男が姿を消しても、あわてる親族はいなかった（必然的に本家とは疎遠そえんとなり、音信不通となった久吉は、土地の相続権や財産分与の対象から除外じょがいされた）。

　また、久吉の医術の腕は確かで、その評判を聞きつけた人々を相手に、しばらく平穏な日々を送ることができた。あるとき、ひとりの青年が診察にやってくると、久吉は驚いて腰をぬかした。二十代前半といった容貌の青年は、膨らんだ腹に両手を添えると、深く頭をさげて訴えた。

　どうか助けてください。
　自分はどうなってもいい。
　せめて、腹の子だけは、
　無事にとりあげてほしい。　

　ま、待ちたまえ、
　きみは男であろう。
　その腹は、いったいどういう
　仕組みになっている？

　診察していただけますか。
　じきに産まれそうなんです。
　
　……では、きみはほんとうに
　妊娠しているのか、まさか、
　そんなことが……、

　この青年こそ、久吉の平穏な暮らしを打ち破り、狂気を引きだす存在となる。織江は、町医として得た評判と信頼を置き去りにして、謎の青年とふたり、さらなる山奥へと姿を消した。　　


✓つづく