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第8部
第141話
しおりを挟む互いに策をめぐらして意見が対立するキールと大熊の勝負は、一瞬で決着がついた。生まれつき左目が開かないクマは、あきらかに身体的なハンデを負っている。キールは、素速く相手の左側へまわりこみ、脇腹に噛みつこうとしたが、作戦は失敗に終わった。
バキバキッと地面に亀裂がはいり、とっさに後退したキールの頭上には、シギではなく地の精霊が浮いていた。いつもの全裸状態ではなく、薄茶色の浴衣のような服を身につけており、素足のままキールの前に降り立つと、『生簀の法は、梟が証さねばならんぞ』と、意味不明な科白を述べた。
「あんた、出てくるのが早すぎだろ! せっかく大熊野郎が油断してたってのに……」と、キールが悔しがると、ジェミャは腰に手をあて『われの勝手ぞ』と、ため息を吐く。
「あ、あれは、いつかの全裸ヤロウですぜ、兄者! ……きょうは、服を着てるっスね」
キツネは大熊のかたわらに駆け寄り、ジェミャを見あげた。地の精霊が放つ霊力には、注意が必要である。また大熊が幼獣化させられては状況が不利になるため、グルルッと喉を鳴らして警戒した。大熊は、じっとジェミャを見据え、次なる策を思案する。
「……ったくよ、あんたって、ミュオンよりなにを考えてるかよくわかんねー精霊だよな」
『われを他の精霊と同じにするな。もとより、精霊は唯一無二なり。ひとつとして、同一個体は存在しない』
「……それって、ミュオンはミュオンってことだろ? わかってるさ。今のあいつは弱ってるからな。分化して助かっても、それはもう、あいつじゃない。まったく別の水の精霊になっちまうンだろ」
キールとジェミャの会話から察するに、大熊が存在をうらやむ水の精霊は、じきに消えるらしい。涙と苦しみに属さぬ愛はない。ハイロと愛しあったミュオンの代償は、心の裂傷である。ゆえに、ハイロに対して素直な気持ちで向き合うことはできなかった。好きだと伝えても、自分が消えてしまっては意味がない。
人間だけでなく動物や精霊も、奇異な別離は幸福を砕き、あすに起き立つ希望を失わせる。それでも、どんなに苦しくても、現実を生きていかねばならない。ひややかな大地の下で、生きるすべを知るときを待つ黒蛇のように、孤独な感情を押し秘めて、十字架の影を遠ざけて、かしこに燃える太陽に愛を語る。なにが起きても、なにを消されても、季節はめぐり、すべての生は流動する。
「おい」
と、大熊に声をかけられたジェミャは、くすッと笑い、高みの見物をする大鳥を一瞥した。本来、頻繁に半獣属との接点をもたない精霊が、ここまで亮介と関わる理由は、ひとつしかない。少年は、精霊の加護を受けている。それは偶然ではなく、黒蛇の体内で再生のときを待つリヒトに、必要な存在でもあり、森の行方を左右する大きな変換期が近い。地の精霊は、誰よりも早く、地中を活発に動きまわる黒蛇の気配を察知し、なにが起ころうとしているのか、緑の谷間で数々の夜を思いだす。
永遠と自由、ばら色の肌
やさしくつながった肉体
快楽と、苦悩、
いたるところで花が咲き
大地の扉をたたく
どれだけの苦痛に耐えれば
恐怖は平安に変わるのか
心の破綻 愛の終焉
森で いつも誰かが愛しあう
いつわりの幸福と、流れる涙
隠れ家は
真実を映すだろう
シギが得意げに歌うと、ジェミャは軽快に踊りだす。すると、大熊とキツネは戦意喪失となり、呆気にとられたキールも、ぽかんとした。
★つづく
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