三鏡草紙よろづ奇聞

第一章

薬種商、鹿島屋

　江戸の風習と文明開化がいりまじるごく始めのころ、十三歳の結之丞ゆいのじょうは、生薬きぐすりを取り扱う問屋とんやへ奉公にあがった──。


　睦月むつきの末っ子である結之丞は、これまで生まれた地域からでたことがなかった。ゆえに、見知らぬ町での日々の暮らしは、あれこれ気に病んだり、奉公先で年長者にひどく使われたりするのではないかという、不安ばかり募つのった。

「結坊ゆいぼう、下を向くな。背筋をのばして歩かんか。目ざすお店たなはな、奉公人の躾しつけにはきびしいと聞くが、行儀見習ぎょうぎみならいだと思って、しっかり働けよ。そうすりゃ、年季が明あけるより先に、りっぱな人間になれるってもんよ」

　まるで他人事のように語る父親は、母とのあいだに六人の子どもがいた。長男は家業を継ぐため残るとして、長女と次女は、それぞれ子守奉公にでている。結之丞とひとつちがいの三女は、赤ん坊のころから甘やかされて育ち、世間知らずのままであった。幼子おさなご時分じぶんの口癖は、「あたち、父ととのお嫁さんになる」だ。将来、奉公へだされないための巧言こうげんだとしたら、睦月家の三女は、誰よりも計算高い性格の持ち主だろう。天然痘により幼くして命を奪われた次男の存在は、結之丞の記憶にはない。

「ほら、彼処あすこが薬種問屋やくしゅとんやの鹿島屋かしまやだ。先代は五年前に隠居して、跡取あととりの息子が商あきないを切りまわりしている。たしか名前は、千幸かずゆきとかなんとか……」

　農家の出身で大柄おおがらな父親は、痩やせて病弱な祖父母をだいいちに養うため、生活費のほかに毎月の薬代が必要だった。そこで、家族のひとりが薬種商やくしゅしょうで働けば、高価な薬を安く手にいれることができるのではと考えた。実際、関係者による注文は、相場より勘定が低い傾向にある。しかしながら、丁稚でっちのうちは例外だという事実を、少年の父親は失念していた。

　故郷をはなれて訪おとずれた鹿島屋は、予想より大きな家だった。敷地は高い垣根で囲われ、緑濃い庭木が深々と茂しげっている。ちょうど、薬医門やくいもんの潜戸くぐりどから顔をだす若旦那は、手を引かれてやってきた少年と目が合うなり、やさしく微笑ほほえんだ。千の幸せを願って付けられた名前のとおり、金持ちの家に生まれて苦労もなく成長したようで、顔だちの整ととのった美形である。

　贅沢ぜいたくを知らない結之丞ゆいのじょうでも、育ちのいい若者わかものの風貌をひと目見て、うらやましいと思った。いずれにせよ、きょうから鹿島屋の奉公人となるわけで、至らないながらも、お店たなにも千幸かずゆきにも誠まことを尽くそうと、覚悟を決めた。


〘つづく〙

※この物語には独自設定が含まれるため、ふりがなや呼称、時代背景など、かならずしも正しい表現とはかぎりません。ことばの響きを優先し、あえて使用している意図もございます。ご留意ください。