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第10話 しんでほしいひと②

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 ――一瞬。
 何を言われたのか、分からなかった。
 そのまま彼は続けた。

「もう随分前からおかしくなっちまって。いい加減、両親も高齢だし。うんざりなんだよね。負担が大きいし。それに、ほら。分かるだろ」

 彼は肩をすくめて、皮肉めいた調子で。

「何の役にも立ってないんだよ、あいつ。まぁ、といっても兄貴だからさ。良心はいたむわけで」

 この男は――何を言っているのだ。
 ……死んでほしい?
 身内に?

「だから、前々から相談させて貰ってるのよ。格安で身請けしてもらうかわりに、安楽死させてやれないかって。どうせ遺してるもんも何もないからさ」
「……」
「きょう、その返事が聞けるってことだから。郵送で来るらしかったんだけど、せっかくだからカレと直接話したくってねぇ。カレはいいぜ、君も見習わなきゃ――」

 どくどくと、心臓が鼓動する。血が流れ込んでいくのが分かる。
 赤い血が。
 僕はいつしか、彼が大切な顧客であることすら忘れ、声のトーンを失った状態で訊いていた。

「なぜ、何の役にも立っていないと……?」
「ええ? そんなの決まってるじゃないか。働いてないし、ずっと寝たきりならまだしも、しょっちゅう暴れられるからね。警察呼ばれたことだって二度や三度じゃないわけだ。そんな奴居たってしょうがないじゃないか。君だってそうは思わないか」
「僕は……」
「おいおいおい、『僕』になってるよ。良くないよ。『私』に戻しなさい。聞かなかったことにしてやるから、ほらほら」

 彼は笑いながら、馴れ馴れしく肩を叩いてくる。

 どくん、どくん。
 彼の言葉が何度も、何度も頭の中で繰り返される。

 役に立たない。
 死んでほしい。
 迷惑。

 ――魚が跳ねている。
 僕は、その魚に対して、何度も、何度も……。

「……がう」
「ん?」
「絶対に、違う」

 ――違う。
 違う違う違う違う違う。
 
 

「ちがう。違います。それは貴方が、その方の価値を勘違いしているからです、貴方にとっての家族とは一体、一体」

 止まれ。止まれ止まれ止まれ――。

「……」
「貴方はお兄さんときちんと向き合うべきです。家族を、大切な人を、そんなふうに言ってはいけない。かけがえのない存在なのですから、絶対に――」

 嘘つき。
 お前は、僕は――嘘つきだ。
 そんなふうに考えたこと、あったか。一度だって。

 アレに対して、そんなふうに、考えたことが、一度だって。
 嘘つきだ、嘘つきだ、嘘つきだ……。

「おい。『おまえ』」

 ……冷たい声。
 顔を上げると、男は怒っていた。

「誰に、何言ってるんだ。こっちは客だぞ」
「……!」

 急激に、しぼむ。せり上がっていた激情が消えて、『やってしまった』という思いが湧き上がってくる。
 僕は少し後ろに引き下がり、頭を下げようとする。

「お待たせいたしました、すみません、お時間をいただきまして」

 そこで先輩が入ってきた。
 ……お客を見て、その次に僕を見た。
 先輩は、一瞬だけ真顔になって、僕に着席を促した。

 僕はすっかり萎縮して、それに従った。



 その後の時間は、先輩がお客に対して何度も謝罪していたことを記憶している。僕も一緒に何度も頭を下げたが、そこに実感はなかった。

 次には、『実際のはなし』が始まった。
 内容が頭に入ってこず、ひたすら後悔と疲労感に包まれていた。

 結局、男の『兄』は、どうなったのだろうか。
 最後には、僕は客に対して頭を深く下げ、彼が機嫌を取り戻して外に消えていくところまで見守っていた。

「ちょっと、来い」

 その後、先輩は僕を休憩室に呼び出した。
 僕は、ひどく惨めな気持ちになって、従った。 

「お前。何言ってくれてんだ、バカが」

 先輩はいつになく怒っていた。
 僕は拳を握り、ひたすら頭を下げるしかなかった。

「……すみません」
「ああいうのは居るんだよ。感情的になってたらキリがないんだ。まずは聞け。それから蓋をしろ。じゃなきゃきりがない。これ、前にも言ったよな」
「すみません」
「謝りゃいいってもんじゃない。俺があと少し戻るの遅かったら、お前どうなってた。ん」
「……すみま、」
「答えろ」
「あの人は、怒って。出ていったかもしれない」
「だよな。それでこちらの対応の不手際ってことになる。そうなりゃ、『不祥事』ひとつ出来上がりだ。発言ひとつで大きく変わるってことを分かれ。何年目だ」

 年数は関係ないだろう。
 そう思ったが、口には出さなかった。
 そのかわり。

「まったく……客には客の事情があるだろ。それに、ある程度向こうの考えが汲み取れてりゃ、さっきみたいなことには――」

 その発言には、全く同意しかねた。だから、反射的に、反論していた。

「納得できません。あんな言い方をする人に、身内をあんなふうに考える人を相手に、僕らの仕事はあるんじゃないでしょう。僕らの仕事は、もっと」
「……いいかげんにしろ!!」

 先輩は、怒鳴った。
 ――声が、休憩室の外にまで、びりびり響いたような気がした。
 ほとんどなかったことなので、僕は卒倒しそうになるくらい驚いてしまった。
 身を固くして棒立ちになって、先輩を見る。

「全く……」

 先輩はため息を付いて眉間を揉み、壁に背中を押し付ける。

「あの、すみません。僕……」

 続きの、付け焼き刃の謝罪を先輩は許さなかった。
 僕の歩み寄りをおしとどめて、そのままで、言った。

「……俺の妻がな。前も言ったか」

 ぽつり、と。

「免疫系の病気なんだよ。前までは在宅で看護できたけど、俺がこっちに異動してからは難しくなって……悪化してる」

 何も言えない。知らなかったからだ。
 途端に、先輩の顔が違って見える。
 黒いスーツがシワだらけに、顔には隈がはっきりと見える、ような気がする。

「だけど、どうにもならない。だからやってる。その中でやりがいを見つけて、やっていくしかないんだ。分かるだろ」
「そんな……」
「分からなくても、分かれ。お前にも責任がある。もうとっくに」

 先輩は、『彼女』のことを知っていたっけ、と思った。
 でも、きっと、どっちであろうと、彼は同じことを言うだろう。
 それに対して僕は、何も反論ができないのだ。
 きっと、間違っているのは、僕だ。

「いいか」

 先輩は壁から背中を話して、言った。

「もうこの国では、簡単に生まれない割に、簡単に死ねないんだ。だけど国がその権利をくれるんだ。そんなありがたい話、ないだろ」

 答えないでいた。
 先輩は気にしなかった。

「二度とあんなふうになるな。分かったな」

 ――返事を待たずに、先輩は休憩室から去っていった。
 その背中が、いつもよりこわばっているように見えた。

 ……五分あと、僕も休憩室を出て、仕事に戻る。


 時間が、泥のように過ぎていく。
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