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第3話 僕の病気の彼女

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 アイボリーの軽自動車を運転して、国道を走る。夕暮れに景色が流れていく。
 それから十五分ほど。アパートの駐車場に停車して、降りる。

 階段を上がって、一番奥の部屋に。鍵を開けて、中にはいる。



 彼女は、西日の差す窓際を眺めている。
 光の粒がそのシルエットに反射しているところで、僕のほうをむいた。

 鼻から顎にかけてが、ヴァージニア・ウルフに似ている。
 少しだけ前歯が出ていて、髪が長めの栗色のソバージュ。

 やつれてはいないし、青ざめてもいない。凪は、一見病人には見えない。でも、そうなのだ。

 僕に顔を向けるまでの、彼女の表情を知らなくても、そうだと分かる。部屋はあまりにも静かで、カーテンだけが黄金色に輝いて揺れていた。

「おかえり、しーくん」

 その、全てがまどろみに溶けそうな夕暮れの色合いの中で、声が聞こえた。
 わらうと、歯がちょっとだけ出る。可愛いと思う。
 それが、彼女を人間にしてくれているような気がして、たまらなく愛おしくなる。
 僕は荷物を置いて上着を脱いで、手洗いうがいをしてから、彼女のそばによる。

「ただいま」
「今日も、疲れた顔してる。大丈夫?」
「疲れたよ。でも、みかん食った。平気」
「なに、それ」

 笑ってくれてホッとする。
 僕の、彼女だ。ずっと付き合っていて、今日は会える日だった。

「何、してたの」
「映画、見てた」

 今日は彼女のために夕食を作る日だ。IHのキッチンで、うどんをゆでる。
 そのあいだ、凪はベッド脇から伸びる小さな台の上に、タブレットを立てている。

「なんていうやつ」
「タイトル忘れちゃった、ごめんね」
「内容。教えてよ」
「なんかね、ええっと。そう、記憶。記憶喪失の話」
「重くないか」
「そう、それでね。面白かったの。自分から記憶を消す話。失恋して嫌になって、相手の記憶、自分の中から消すの」

 ちょっと、吹きこぼしそうになる。
 火をゆるめる。
 トイレに行きたいな、と思った。行かないけど。
 口の中で、みかんの味がした。

「ひどい話だなぁ。そんなの辛気臭いでしょ、絶対」
「いやいや、面白かったの。笑えるシーンばっかりだったんだよ。本当だって」

 だしは、だしはどこにあったかな、棚をさがす、さがす。
 窓の外から、車の通る音がした。

「なぁ、だしパックってどこに片付けたっけ――」
「ほんとに笑えるの。忘れようとしても、未練があるから、全然うまくいかなくって。結局記憶自体は消えちゃうんだけど、それで、また出会うんだよ」

 彼女は、話している。
 彼女は、二年前に大学をやめた。

「ねぇ、しーくん。私のこと、そうしたくなったら、いつでもしていいからね」
「だしパック!!」

 鍋が、しゅうしゅう、湯気を立てる。
 こぼれた汁がIHに落ちて、焼けるような音がする。
 僕は急いで電源を切って窓に向かってカーテンを閉めて、そのついでにタブレットを閉じさせて、彼女を見て。
 そのときには、彼女は眠るように目を閉じて、その皮膚のあらゆる隙間から、甲虫が這い出て、どんどんとその表面を覆い尽くしながら、フローリングにこぼれていった。



 複眼が妙に細くて、手足が多い。
 医師は、厳密には節足動物にあたるのでは、とか言っていた。
 甲殻の色は肌と同じ色で、時折激しく身動ぎする。
 でも基本は、さほど動かない。微妙にしめっていて、短い毛がびっしりと生えている。

 僕はスプレーを持ってきて、床に液体のようにこぼれ落ちながら蠢いているそいつらにかける。
 きゅううう、という声を出しながら、跳ね返るようにひっくりかえり、真っ黒なお腹と、いざいざした手足を向けてくる。

 そいつらを、見ないように、ではなく、意地でも注視しながら、ちりとりとほうきでかき集める。
 ベッドにも転がっているので、つまんで、最後には二重にしたポリ袋に入れてしまう。

 口をくくって、ざかざかと中身を振って、何の抵抗も感じない頃には、フローリングにワイパーをかけ終わっていて、彼女の顔と腕に裂けるように開いた孔は、全部嘘のように閉じている。

 彼女は、目を覚ますと。
 カーテンを見て、次に、こちらを見る。僕はフローリングを見る。

「っ、私、私」

 凪の呼吸が急激に荒くなって、ばたばたと手を振った後に、シーツをギュッと掴んで、顔をうつむける。

「まただ、またやっちゃった、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」
「いいって、ほら、カーテン開けるから、」
「開けないで、そしたらまた出てきた時、アイツラが外に」

 顔に指を当てて爪を立てる。僕は袋を置いて彼女の傍に行って、抱きしめる。
 それでもじれったそうに腕の中でうごめいている。
 背中を擦ろうとしても、そこから逃げようとする。

「だいじょうぶ、だいじょうぶ」

 付け焼き刃だ。

「駄目だよ、しーくん。早く私殺してよ。お願い、もう嫌だ、何度目なの、もう本当に」
「しないしない、大丈夫、大丈夫だから」
「嘘、嘘だ、嘘つきっ」

 凪は半身だけで体当りするようにして、僕の抱擁を拒絶した。
 顔をこちらに向けないようにしながら、またシーツを掴む。
 すすり泣きが聞こえる。

「……」

 こういう時、どうすべきか、とか、そういうことは、もう考えなくて済むようになっていた。
 冷めたうどんをどうしようかと思っていた。

「そうやって哀れんでる、嘘、こういうこと言うと、結局そんなことないって言ってもらいたいだけ。カスだよ、私、本当に、まだ生きてる」
「大丈夫、大丈夫だから」
「嘘、嘘。早く出てって。もう嫌なの。何もかも。自分が、いや、自分じゃなくて、ああ、何が嫌なんだろ」

 頭を抱えて、うなり始めていた。
 僕は立ち上がって、カーテンの隙間をほんの少しだけ開けながら、後ろを振り向かずに言った。

「ベランダ。煙草吸ってくる」

 返事はなかったので、外に出た。

 ベランダから見る外はすっかり暗くなっていて、空は灰色と藍色。
 ライターでタバコに火をつけて咥える。

 いつもより多めに煙を吐き出すと、それは空中に分散して消えていく。
 しばらくじっとしていた。いつまでも、そう出来そうだった。

 特に意味はないけれど、街並みを見る。
 同じような高さのマンションとか、ビルとかがちらばっている。代わり映えはしない。
 そのうちのひとつの、屋上。赤いランプが付いている。
 ……僕はしばらくそれを見続けていたけど、やがて、風が強くなってきたので、室内に戻った。

 戻った彼女は、いくぶんか落ち着いていた。
 また、画面を見ている。

「しーくん、ごめんね、さっきは。私、本当に駄目だね」
「そんなことないよ」
「ごめん、また迷惑かけるかも」
「いいって。それより、またいいの見たら、感想聞かせてな」
「うん、分かった。ありがとう」

 彼女はまた歯を見せて笑った。来た時よりは、目立たないように思った。
 僕は上着をきて荷物と袋を持って、彼女の頬にキスをした。くすぐったそうに笑った。

 ……早急に、磁石みたいに離れる。
 背を向ける。玄関に。
 彼女が声をかけてくる。

「気をつけてね。また明日。今度……いつか、本当にそのうち、海行こうね。あの、パラソルで」

 少し。
 ぴくっ、と。立ち止まって、考えた後に。

 うなずく。
 出る、帰る。

 車に戻るまでの間、ひどく身体がどっしりしたように思った。
 すっかり暗くなっていて、夕食を食べる気がなくなっていた。シャワーだけ浴びて、とっとと寝ようと思う。

 じゃないと、何かが言語化されてしまうような気がしたので。


 それはひどくつらく残酷で、爆弾のような矛盾を抱えているようなものだと感じるからだ。
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