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第2章 フールズ・ゴールド

#14 フールズ・ゴールド(後)

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「一体、何が……」


 ダウンタウンのサウス・ブロードウェイで、一人のモロウが頭を抑えながら目を覚ました。


 それから周囲を見て、唖然とした表情でそう言った。


 ――彼の周りに広がっていたのは、夜のとばりのたもとに点在する、破壊の痕跡。沢山のビルが崩れ、切り刻まれ、黒煙を吐き出している。多くの車がスクラップ同然になって道に投げ出され、到るところから炎がふきでている――そして、その合間を縫うかのように。同じように倒れ、そして目を覚ました者達が居る。


 ……まるで、無数の細かな嵐が過ぎ去ったような。


 ――実際その例えは正確極まりないのだが、今頭痛とともに『正気に戻った』この男が知ることはない。

 それでも彼は――身体のおぞけを知覚した。少なくない人々が、地面に倒れたまま動かない。瓦礫や、ガラスの破片とともに。


「俺が……――俺がやったのか」


 彼はその一言を吐き出す。

 震えながら。吐き気と戦いながら。

 そこへ、声がかかる。


「ああ――そうだ」


 それは、彼に手を差し伸べた男。LAPDの制服に身を包んだ巨漢。

 本能的に彼は恐怖したが、その手を拒絶することはなかった。

 次にその男が、こう言ったからだ。


「だが――裁かれるべきなのはあんたじゃない。もっと別の、大きなものだ」


 ――同様の状況が、街中のいたるところで起きている。



 猛烈な頭痛の中、フリーデマン氏は目を覚ます。


 自分が、店の中で商品に塗れながら倒れていることに気づく。そして、その状況に至るまでを思い出そうとする。あれは、そうだ――突然、白い腕のようなものが手招きしていて、自分はそれにいざなわれて、そこから急に、意識が……。


 ――と、そこで推理は中断される。


「……あなた」


 目の前に、涙を浮かべた妻の姿があった。

 彼女は、目を覚ました自分に気づくと、両手を広げて抱きついてきた。

 それから、震えながら大声で泣き始める。


 フリーデマン氏には何がなんだかわからない。

 だが――ひとまず、その両手で、愛しい彼女を抱きしめることにした。

 彼の手は、人間の手なのだから。



 夜空の下に広がる、港湾地区の倉庫街。


 昼間は無数の労働者たちで賑わうはずのこの場所は今、赤と青のサイレンで彩られたパトロールカーが大挙して詰めかけるひとつの胡乱な場所となっていた。夜を裂くように、怪しい光が交錯する。その中で、一つの大きな倉庫の前に警官たちが詰めかけている。


「だから!!!! ここは通せねぇって言ってんだろうがアホども!!!! 帰って上の連中が喜びそうなポルノ記事でも書いてやがれ!!!!」


「警察ともあろうモノが、そんな発言許されると思ってるのか!? 言質とったからな、今の言質とったからな!!!!」


「うるせぇッ!! どうせ今更好かれようなんざ思っちゃいねぇッ、ほら、さっさと失せやがれッ!!!!」


「市民に警官が銃を向けるのかッ!!!!」


 入り口を塞ぐように立つ、屈強なスペシャルケースカウンターの男たち。彼らに対して詰め寄るのは、眩しいフラッシュライトとレコーダーを携えた大量のマスコミ連中。今ここで行われたはずの大捕物に対して何かを得ようと必死である。だが、公僕とは思えない見た目の男たちが、その道を開けることはない。中に居るのは、彼らよりももっと強く、おっかない――女ボスなのだから。



 ――倉庫内部は、外からの明かりでかなり照らされ、その全容が把握できるようになっていた。


 閑散とした空き倉庫の雰囲気はそのままに、ごく一部だけが生活空間としてゴテゴテに飾られている。無数の高級な調度品に彩られた、廃屋――まるでそれは、灰で出来た玉座だった。


「……ここに来るのにも、骨が折れたんだぞ。この地区一帯を、野郎子飼いのギャング共が牛耳ってやがった」


 クリスが深い溜め息をつきながら、煙草を咥える。


「まぁ、そう言うなや。結果オーライってやつさ」


 医療班によって(いささか乱雑に)包帯の処置を施されたキーラが、彼にライターの火を差し出す。

 クリスは当然のごとくそれを受け取って、吸い、吐く。

 その表情そのものに、深い疲労が滲んでいる。あまりにも深い。


 外から聞こえてくる怒声やサイレンの音、夜の街のざわめきをBGMのようにして、キーラはくすりと笑った。


「で? 暴れてた連中の処遇はどうする」


 彼女自身も煙草を取り出して吸いながら、聞く。


課長オヤジと決める。場合によれば、署長に詰め腹を切らせる羽目になる」


「ははは。今夜も徹夜だな」


「……――レッドブル買わせるか。業務用で」


 それを聞くと、キーラは更に愉快そうに笑った。クリスはそれを受けて『こっちは愉快じゃないんだが』という言葉を顔に浮かべたが、呑み込んだ。

 ――……一番徹夜と超過勤務を重ねているのは、きっとこの女だからだ。


 タバコの煙がふたつ、サビの浮いたトタンの屋根に吸い込まれていく。

 キーラはその包帯だらけの身体――そのありさまも、どこか人形のようで美しい――をそっと両手でかき抱いて、夜気を感じ取る。


 そのまま視線をクリスから外す。彼は、何かヘマをやったらしい部下に対して無言の威圧を寄越したまま、あれこれと指示をしている。彼女は――彼を見る。



「……ほら、しっかり歩け」


「くたばれ、てめぇら警察が……俺を救えなかったから、俺は――」


「はいはい、続きは取調室で聞くとするよ。チリとチャプスイ、どっちが好みかなー」


 ロットンとリカルドが、ぼろぼろの身体をおして、オデールを護送車へと導いている最中だった。


 オデールは顔を俯け、深い恥辱と絶望に表情を歪ませたまま、ぶつぶつと何かを言い続けていた。

 ……ハッキリ言えば、まるで見ていられないようなありさまだった。つい先程までの、虚証の威勢で飾り付けられていた男からは、想像もできない姿だった。


「……」


「……おい」


 キーラは、オデールに静かに近づいていく。自らも傷だらけの身体を引きずって。



「オデール」


 声を掛けると、彼はゆっくりを顔を上げる。そしてもごもごと言った。


「俺を笑いに来たのか、売女……何もかもがうまくいかず、復讐をかけらも果たせなかった俺を……」


 それを聞いたキーラは肩をすくめてため息をつき、言った。


「バカだな、お前。ンなわけねぇだろ」


「……――じゃあ、なんだってんだ」


「……本当はな。てめぇを歪ませちまったことを、オレは謝罪しなきゃならないのかもしれない」


 彼女は首の後ろをかき、後悔を示す。

 ……全てを引き起こしたこの男の罪は、重い。

 だが、かつて自分が『他のナニカ』をしてやれたら、ここまで馬鹿な真似には走らなかったのかもしれない。

 そんな思いが、キーラの仲に去来する。

 しかし、それは虚しい仮定だ。ここはアンダーグラウンド、全ては必然と運命で動く。


「だが、そいつをしちまえば、それはてめぇを更に貶めることになる。だからそれ以上は、何も言わねぇよ。てめぇはオレとのゲームに負けた。それだけってわけだ」


「じゃあなんだ、お前は一体俺に何を――」


「……こいつは、オレの師匠みたいな奴が教えてくれた譬え話なんだが……ゴホン」


 彼女はあらたまった態度を示し、それから告げる。


「――『ファックの体位が納得いかなけりゃ、別の姿勢を試してみろ』……それだけだ」


「……」


 オデールは一瞬ぽかんとした顔になる。


「なんだそりゃ……何の警句だ。下らねぇ」


「――そのうち分かるさ」


「…………ふざけんな。俺はお前を一生許さねぇ」


「……――だろうよ」


 ……オデールはそこで、キーラから目をそらした。そのまま、ロットンとリカルドにせっつかれながら前に進む。「自分で歩ける、触るなクソボケ共」と言いながら。

 その様子を見送りながら、キーラは静かに煙草のけむりを吐き出した。


「……」


 ――彼女の背中ににじむものは、彼女しか知らない。


「……おい」


 クリスの声。


「あん?」


「どうするんだ、アレ」


 彼が示した方向――。

 二人の、女がいる。



 シャーロット・アーチャーが、背後のサイレンの光を浴びながら、グレース・フレミングと向き合っている。彼女たちの間に流れるわだかまりは、言葉にせずとも分かった。彼女は彼女を見た。彼女は彼女から目をそらした。

 やがて、その片方が口を開く。


「……ほっといてやれ。迎えが来るまでは」


 キーラが言うと、クリスは肩をすくめる。


「そうかよ」


 キーラはそこから背を向ける。

 盗み聞きをする趣味はない。



「……どうして。私を助けたの」


 その腕で身体を抱き、視線を外しながら――グレースが言った。


「私なんて……何の価値もないじゃない。貴女だって知っているでしょう。知っての通り私はこの街にありふれているほどありふれているのよ。私を助けたって……それは私に生き地獄を味合わせるだけ。貴女は何も分かっちゃいないわ……」


 グレースの仲にわだかまっている感情は、そう少なくはない。シャーリーが実はアウトレイスであった驚きなどは、どうでもよかった。ただ彼女は、間違いなく自暴自棄になっていた。


「なにもないのよ、私には……」


 そう呟く。

 すると……彼女の腕を掴んだ手があった。

 それはあたたかく、血が通っていた。


「……そんなこと、ない」


 グレースが顔を上げる。

 シャーリーが、彼女を見る。傷だらけの顔に、微笑を浮かべながら。


「だってあなたは――エスタのお母さんなんですから」


「……っ、私に……そんなことをやる資格なんて……」


 グレースは動揺する。シャーリーの言葉と、彼女の満身創痍の姿に動かされていた。

 目が泳ぎ、呼吸が苦しくなる。

 そこへ、言葉が被さってくる。


「――それでもあなたは、世界で唯一人の。あの子のお母さんです。世界がどう変わっても、それだけは変わらない。だからあなたも、それだけは変えちゃいけない。そうじゃないですか? だってあなたが着ている服は……


 シャーリーがはにかみながら、マフラーを触った。

 どこかほの暗さを秘めた、赤い色の。


「…………っ」


 グレースに……その言葉は、ハッキリと作用した。

 彼女はその場で崩れ落ちる。

 積年の後悔が山のように押し寄せてきて、彼女を押し潰そうとした。しかし、胸に去来するのは、決してそれだけではなかった。


 ……グレースは、その色のことを知っていた。

 ――ああ、知っていたのだ。



 ――“お母さんの服と、おそろいだね”。



 それなのに、自分は、自分は――。


「っ……――エスタ…………」


 グレースは肩を震わせながら、座り込んだ。

 間もなく――彼女は自らの身を抱いて、声もなく泣き始めた。


「エスタ…………ごめんね、ごめんね…………っ」


 ――これからの彼女にとって、日々はおそろしく苦しいものとなるだろう。

 だがそこには、黄金以上の価値があるはず。

 ああ、そうでありますように。


 ……シャーリーは静かにその場から離れ、そんなことを祈った。

 間もなくグレースは、警官に肩を抱かれながら去っていく。

 その間も――シャーリーは、祈り続けた。



「よく、力を取り戻しましたね、シャーロット・アーチャー」



 ふいに――その声が。

 忌々しくも聞き馴染みのあるその声が、倉庫内に響いた。


「なんだッ――」


「おい、空が裂けるぞ!?」


 そして再び赤い悪夢。

 鮮血の如き空間の亀裂から、その男が姿を見せる……シャーリーの正面に。

 美しく響く声は、空間内いっぱいに響き渡る。


「ディプスっ……!!!!」


 彼の声が、その場全てを支配する。

 誰もが、動きを止めて、見やった。

 亀裂の合間から顔を出す、異様なほどに美しい青年の姿を。


「っ……――」


 彼の目線が注がれているのは、紛れもなくシャーリーに対してだった。


 あらゆる者達がざわつき、各々の反応をしていた。だが、シャーリーにとって世界とは、その瞬間にディプスと自分だけになった。それ以外の全てがノイズとなって消えていき、やがて対話が始まった。


「なんで、お前が……」


 汗が吹き出し、身体が震える。疲労や痛みが忘却に追いやられると錯覚してしまうほどに。だが、目をそらせない。現実にはありえないほどの美しい容姿の青年が、まさに現実として目の前に現れているという悪夢。そこから、目を離せない――。


「なに、たまたまですよ」


 彼はあくまで軽い調子で言った。

 だが歌うようなその声が耳に届くたび、頭の中が彼の存在で溢れて、嘔吐感を催させる。長い間対峙していれば、気が狂ってしまう。だが、足が磔にされたように動かない。


 歯がガチガチと鳴り、唇が震える。

 ――そんなシャーリーの状態を知ってか知らずか(間違いなく知っているだろうが)、ディプスは続ける。


「だが、今回の件を、君の力が安定しているかどうか。それを確かめる機会として利用させてもらった。そして……たやすく結果は出た」


「結果……?」


 なんとかその返答を絞り出す。

 そのさまに気を良くしたのか……ディプスの声が、更に上機嫌になる。

 内容が、頭に入らない。


「確かに君は、君の思いによって力を無事発動させた。エスタ・フレミングを救い出したときのようにね。だが――安定には程遠い。君は今回の発現に至るまで、幾度となく悩み、ぶれ、弱音を吐いた………………赤の他人の言葉に、たやすく揺さぶられてしまうほどに」


「……――ッ!!!!」


 否定できない。

 出来るはずがない。

 今この場に自分が居るという状況そのものが、何よりの証拠だ。全てがディプスの言った通りだ。認めるほかない。


 拳を握り、唇を血が出るほど噛む。あるいはもう出ていたかもしれない。今のシャーリーには分からない。足元に大きな穴が空き、胴体に冷気が流れ込むような感覚が続く。

 しかし……。


 それでも。

 そう、『それでも』だ。

 今のシャーリーに、その四文字が浮かぶ。

 その次に浮かぶのは、グレースの顔。そして、エスタの顔……。

 シャーリーは、顔を上げる。


「僕はゆえあって、君の成長を期待している。これからもその力を伸ばしてもらわなければ困るのですよ。そして君自身も、そのままで留まっていてはよくない」


「どういう意味だ――」


「君の心の力を安定させ、いつでもその力を振るうための確固たる基盤が必要です。そのために君は、君自身の過去を清算する必要がある」


「過去……」


 舌の先でその二文字を転がすと、ひどく苦い味がする。


 

 打ち明けていないことが、山ほどあった。

 あの人達に言っていないことが、沢山あった。

 だが、それでも。

 ――『それでも』。


「その時は確実に近づいている。君が君の忌まわしい過去と対峙して、彼女たちと真の意味での仲間になれるかどうか。その審判の時がね」


 グレースを助けたときのことを思い出す。

 あの瞬間の自分を動かしたものは何だったのだろう。

 後ろめたさ? 自分の過去?

 そのいずれでもなかったはずだ。


 ――それは思い。ただ純粋な思い。

 そうではなかったか。エスタを救った時と同じ。

 『助けたい』という、たった一つの願いだけではなかったか。

 そこに、一切の枷はなかったのではないか。


 ……ならば、自分がこれからなすべきことは。


「――覚悟は良いかな、シャーロット・アーチャー」


 ディプスの真意は、今この場においてもやはり見えない。

 だが、それでも。

 今回のことで、伝えられる言葉が生まれた。


 シャーリーは震えながら、不安と恐怖で心を満たしながらも、自らの確かな意思のもとで、その言葉を伝えた。


「望む……ところだ……ッ!!」


……。

…………。

 そこから、シャーリーが元の世界に帰還するまで、しばしの時間を要した。


 気づけば彼女は倉庫の只中に立ちすくんでいた。


 既にそこには、オデールもグレースも居なかった。だが、警察はまだわらわらと群れていた。口々に、ディプスのことを話している。


 彼は去った。

 だが、シャーリーに消えぬ刻印をほどこしていった。

 背中が汗で濡れる。息が荒くなる。


「――大丈夫かよ、おい」


 ふいに、目の前にあらわれる影。キーラだった。


「どわっ!?」


 唐突に現れたために、妙な声を出してしまった。


「そんなにビビんなよ、ったく」


 呆れながら腰に手を当てる彼女は、全身が包帯まみれになっていた。しかし、その姿もどこか美しい。


「まー、アレだ。なんだ。ご苦労だったな、今回のことは」


 頬をかきながら、そう言った。


「いえ、別に……」


 シャーリーの頭の中で、ディプスの言ったことがぐるぐると回り始める。


「おい」


 キーラの指が、ふいに、額を叩いた。


「痛っ!?」


「なんか余計なこと考えてるな、今」


「えっと……」


 図星である。


「オレにはよくわかんねぇが、お前にも色々あるらしいな。だけどよ、今は考えなくたっていいんじゃねぇか?」


「……?」


 キーラは背を向ける。

 続いて、倉庫の外で何やらドリフト音が聞こえ、それに伴って警官たちのざわめきが広がる。


「――お前が今、誰よりも会うべき連中が、来てる」


 キーラがそう言ったとほぼ同時に。

 倉庫の扉が開いて、夜の闇を切り裂くように、車のハイビームが流れ込んできた。

 光の帯が、シャーリーのいる場所をいっぱいに照らして、目をくらませる。

 ……そして。


 ざわめく警官たちの向こう側に、数人のシルエットが見える。

 シャーリーは彼女たちを知っていた。

 ここにいる誰よりも知っていた。

 ――どこかで、来ないものと思っていた。

 だが確かに、今、彼女たちは――。


「道を開けてやれ――こいつらの歩く道だ」


 キーラの言葉とともに、警官たちが倉庫の扉の、左右に分かれる。

 まばゆいシトロエンDSの光の中で、彼女たちはやってくる。


「あ……――」


 シャーリーの身体から、力が抜けてくる。

 しかしそれは決して、嫌な感覚ではなく。

 そこはかとなく、じんわりとした喜びを運んでくる。



 ああ――それは、安堵と呼ぶべきものだろうか。

 にわかに湧き上がったその思い。

 言うなれば、自己の存在を肯定されたような気持ち。


 そう――彼女たちが、来た。


 満身創痍の身体を引きずりながら、互いの肩を借りながら、彼女たちが来た。グロリアが。ミランダが。キムが、チヨが。そして、フェイが。全身をぼろぼろにして、ふらふらになりながら。それでもなお、こちらに向かってくる。闇を切り裂く、光の中で。


「ハロー、シャーリー。元気してた????」


「……バカ。元気なわけないでしょう……あの傷を見なさいよ」


「遅れてごめんっス、シャーリーちゃん!」


「……なんだ、もう斬る奴はおらんのか……」


「――……」


 まったくもっていつもの調子で、彼女たちはやってきた。ひどくおどけた調子で、おっかなびっくり。海を割るように。


 ――そうだ。彼女たちが、ここに来たということは。

 ――つまり、そういうことなのだ。

 ――だって、誰も。

 ――誰も、今の自分の姿を、否定しないのだから。


 ……にわかに込み上がってきたその実感が、シャーリーの中で溢れかえった。

 ディプスに宣言したことで、後がないような感覚を覚えていた。恐ろしかった。不安で吐きそうになっていた。だがそれも、彼女たちを見た瞬間に、すっかり消えてしまった。そのかわり、張り詰めていた身体も、ときほぐれてしまった。


 見栄を張るための道具は、もうすっかり手元から消えていた。いや、あるいは、そんなものは必要なかった。


 だから、シャーリーは。


「ちょっと、大丈夫なのシャーリー」


「あなたが余計なこと言うからよ……」


 へなへなとその場に座り込んだ。彼女たちが、もみ合いながらやってくる。

 そして、ただ一言、彼女たちに言った。


「こ……」


 光が溢れていた。シャーリーの周囲に。



「怖かったぁ…………っ」


 ――間もなく、グロリアがシャーリーに抱きついて、キムがそれに続いた。ミランダはため息をつきながらその状況を見、チヨは何も言うことなく彼女を小突いた。そしてフェイは、キムとグロリアにもみくちゃにされながら目を回しているシャーリーを見ながら、静かに笑みを浮かべた……。


「……――かなわねぇなぁ」


 キーラは、煙草の煙を長く吐きながら、その様子を見ていた。


 あの赤いマフラーの少女は、第八の女たちに囲まれながら色々なことを問いただされていた。彼女はそのたび、弱々しく眉をハの字に曲げて笑い、答えていった。


 あれが……あのへなへなした少女が、ディプスに啖呵を切った少女と同一人物なのか。振れ幅が、あまりにも大きすぎる。


 間もなくシャーリーは、金髪のグラマーにセクハラまがいのことをされて立腹し、彼女と姦しい追いかけっこをはじめる。周囲の女たちはそれに呆れるやら何やらで、反応はさまざまだ。ただ共通しているのは、誰しもがボロボロの満身創痍でありながらも、痛みを表に出そうとしていないことだった。


「おい」


 クリスが、声をかけてくる。


「何呆けてんだ」


「いや、あいつらにはかなわねぇな、と思ってな」


「ハッ」


 クリスがそう嘆息した時、彼が笑っていたのかどうかは、分からなかった。

 しかしキーラは、肩をすくめながら笑い、彼女たちに背を向けた。

 女たちに囲まれて苦笑を――その中でも、本当の笑顔を浮かべているシャーリーは、その退去に最後まで気付いていなかった。



 巨漢の部下によって、肩からコートをかけられたキーラが、光の中に消えていった。その光は、決してシトロエンDSのまばゆい白色に混じることなく、夜闇を照らすLAPDの赤と青に輝いていた。





 それから数時間も経たないうちに、LAPDの連中は『後始末』のための人員を残して去っていった。キーラや、リカルドを含めて。


 ――そして、港湾地区の裏側。

 警察の喧騒が、いくつかの倉庫を隔てた上で、随分とくぐもって聞こえる。

 そんな中、シトロエンDSは、雑草がまばらに茂っただだっぴろいアスファルトの上に駐車されていた。


 ……その前方に、第八機関の全員が座り込んでいた。

 浮島に邪魔されて、僅かにしか見えない星空を眺めながら。


「……」


 夜の空気がたっぷり充満した世界の中、いくつかのタバコの煙が立ち上る。

 座っているのは左から順にミランダ、キム、フェイ、グロリア、チヨ、そしてシャーリー。


 誰もが傷だらけの顔をぼんやりと上に上げながら、何をするでもなくただともに居て、上を見ていた。


 ミランダは珍しく煙管ではなく煙草を吸っていた。キムもまた彼女から手渡されたパーラメントを吸っている。フェイも自前のものを吸っている。


 時間が、過ぎていく。いたるところでサイレンや声が聞こえてくる。ロサンゼルスの夜。いまだにダウンタウンでは、事後処理が続いているだろう。今回の件の傷が全て癒えるまで、一体どれだけの時間が必要になるのか。それが分かるのは、ごく一部の連中だけだろう。おそらく、自分たちが決して好きになれない連中だけ――。


「……ええっと」


 口を開いたのはシャーリーだった。

 他の第八は皆、黙っていた。黙ったまま、寝ぼけたような顔で空を見ていた。その時間が不愉快というわけではなかったが、むず痒いものがあった。


「その……皆さん。すいま――……」


 ここで、シャーリーは思い直した。


「……ありがとうございました」


 そう、言った。

 すると。


「…………にひひ」


 ドア付近から背中を持ち上げて、シャーリーの方を向いてにんまりと笑ったのは、グロリアだった。いつものような、弾ける笑顔。しかし、流石に今回は疲労が混じっている。


「なんですか、グロリアさ――」


 ……ごすっ。


「痛っ?」


 思わず、疑問符がついた。

 シャーリーは右を向いた。



 そこに居たのはチヨで、彼女がどうやら頭を脇腹にぶつけていたのだった。


「な、え……?」


 彼女を見る。

 すると。


「……たわけが」


 チヨはその一言だけ吐いて。

 ごすっ。ごすごすごすごすごすごす。


「痛っ、ちょ、痛っ!? チヨさん、何を――痛っ、痛いっ!!」


 だが、そんなシャーリーの苦悶を無視してチヨは頭突きを続ける。

 その表情は憮然としていて、決していい機嫌とは言えなかった。

 だが、心底怒っている、というわけではなかった。どちらかといえばそれは、駄々をこねている子供のようなそれだった。


「たわけが……たわけが」


「な、なんで怒ってるんですかっ……」


 そのシャーリーの言葉が、チヨの頭突きを更に加速させる。

 チヨはシャーリーよりもさらに小柄なので、彼女を見下ろす形になる。ひどく幼く見える。



 シャーリーは、当然ながらチヨの心境を知らない。


 そこには、シャーリーが、あの弱々しい自己しか持っていなかったシャーロット・アーチャーが、助けを呼ぶことなく、あろうことか最後まで敵の執拗な責め苦に耐え抜いたことに対する驚きと、いくばくかの複雑な気持ち――当人以外その理由を解析できない複雑な――があった。


 とにかくチヨとしては、シャーリーが意地と根性を示したということに対して、どういうわけか素直に喜びを示せない自分に苛立っていたのである。


「えへへ、優しいっスねぇ、チヨさんは本当に……えへへ」


 キムは疲労の峠を超えた際特有のへらへらした表情で二人を見た。


「な~~~~にちちくりあってんのよ、ったく……」


 グロリアが呆れた顔をする。ミランダはただただため息をつきながらたばこを吸う。

 フェイはそれら全てを包括するように、いつもの曖昧な笑みを浮かべていた。



 それからも皆は、身体にじんわりと広がる疲労に身を委ねながら、少し冷え込む夜のもとで、空を見上げていた……十年前から変わらない、寂しい夜空を。

 だが、その静寂を切り裂くように。


「……そういえば」


 キムが、一言漏らした。



「今回の件が終了したことって……うえに報告、したっスか?」


 

 その声とともに――一斉に皆が、キムを見た。

 続いて。

 フェイを見た。


「……」


 彼女はゆっくりと……ひどくゆっくりと、アークロイヤルのアップルミントを吸い込み、そのかぐわしき香りを楽しんだ後……吐き出した。

 それから、柔らかな、ひどく柔らかな笑みを浮かべて、言った。


「………………――――忘れてた」



 皆がお互いの顔を一斉に見て、青ざめた顔でシトロエンDSへと走っていったのは次の瞬間だった。


「ちょっと、何やってるっスかああああああ!!!!」


「いやぁ、すまんすまん。あまりにもいい夜だったから」


「そんなポエミーなこと言ってる場合じゃないっスよ!! グッドマンさんマジギレっスよ!? ほら、チヨさんも、シャーリーちゃんも急いでッ!!」


「わわっ!?」


「喧しい……自分で行ける」


「ほらほら、お二人も――」


 キムは、そこで振り返った。

 振り返って、残る二人を見た。

 ……二秒後、見なかったことにした。


「はいはいはいはい!!!! さっさと車に乗ってッ!!!!」


「何故お前が仕切っている……」


「あたしぐらいしか居ないでしょ、このメンツだと……」


「痛っ、ちょっ、押さないで下さい――」


 わらわらと、キム達が車に向かっていく。



 ……そんな彼女たちに遅れるかたちで、グロリアとミランダはゆっくりと歩いていた。


 グロリアは微笑しながら車に乗り込むシャーリー達を見ていたが、やがて後ろを歩いてくる『彼女』に対し、振り返りもせず言った。


「ねぇ、あんた――ほんとはただ、あの子が心配で心配でたまらなかったんでしょ」


 すると、彼女――ミランダは足を止めた。


「……うるさいわね。私はただ、あの子は外野が相応しいと思っただけよ」


 との返答。歯切れは良くない。

 彼女が顔を背けているのが、振り返らずとも分かった。

 グロリアは口の端を歪めて、最大限皮肉っぽい笑顔を作った。

 今回の戦いでは――自分の勝利に終わる。そんなことを考えながら。


「どうやって? ディプスに頼み込む?」


「……うるさいって言ってるでしょ」


 強い拒絶の言葉。荒々しく。

 そこでグロリアは表情を一変させてため息をつく。それから振り返って、顔を合わせた。


「――いい? ミランダ」


 いつもの挑みにかかるような口調ではなく。強く、説き伏せるように。真剣な眼差しで。


「あたしらは皆、フェイを信じてついていくことを決めた。そしてそのフェイが、シャーリーを選んだ。おまけにその子が、この世界そのものと関わってるかもしれない。……だったら、否が応でも付き合ってくしかないのよ」


 シトロエンDSの運転席にはフェイが乗り込み、その隣にはシャーリーが乗り込んだ。シャーリーが何かを言ってフェイに頭を下げた。するとフェイが何かを言い返した……途端にシャーリーの顔が真っ赤になる。それを後ろから、キムが全力でからかいにいく。


 その様子の中では、シャーリーは既に第八機関のメンバーだった。そう、その様子の中では。


「いつまで? ……世界が終わるまで?」


 ミランダの質問。

 グロリアは返答を躊躇しなかった。


「違うわよ。この世界が……――本当に始まるまでよ」


 ミランダは肩をすくめる。


「付き合いきれないわね」


「だったら離脱する? あたしは大歓迎よ」


「……――でもそうすれば、あなたを背中から撃てなくなる。お断りね」


「ハッ。言ってなよ」


 そこで……やり取りは終わった。

 二人は顔を見た。互いの顔を。しばしの間、目線が交錯する――。



「おーいお二人とも!! はやく乗って下さいっス!!!!」


 キムの声が、大音声で聞こえてくる。


「あー、分かってるわよ!!!!」


 グロリアが怒鳴り返し、車へと歩みを進める。

 その時、ちらりと……ミランダを見た。


「……」


 ミランダは、何かを言おうとした。

 だが、何も言わなかった。

 ただ静かに目を閉じて、髪を耳にかきあげた。

 ひどく画になった――グロリアはそれを認めたくなかった。


 間もなく、グロリアと、続いてミランダが車の中へ乗り込んだ。

 それからシトロエンDSが、荒々しいカーブを描いて発進する。


 後の港湾地区には、胡乱な様相を呈した事件現場と、その事後処理にあたる警察の群れだけが残される。絶えず響くサイレンの音に混じって聞こえる、ごうごうと響く海鳴りの音。それらをまとめて黒い夜空が包み込む。



 ――LAの夜は、続いていく。
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