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第2章 フールズ・ゴールド

#10 オープン・セサミ

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 シャーリーは沈黙の中にあった。


 蒸し暑い。じんわりと汗をかく。体中が痛い。何もかもが、底の底。

 そんな気がした。

 ずっと頭をうなだれさせているせいで、血がのぼってひどく頭が痛い。だがわざとそうしていることで、自虐的な楽しみに浸っている――そんな心地だった。


「……」


 足音がする。誰のものかは分かっている。

 グレースだ。


「……馬鹿な子ね」


 彼女はそう言った。

 シャーリーは返事をしない。


 ……それからグレースは、何かを服のポケットから取り出す。

 ゆっくりと顔をあげると、それが何かがわかった。

 シャーリーの、スマートフォンである。


「……いつの、間に……」


 グレースはさして表情を変えることもなく、肩をすくめる。


「オデールは馬鹿だから。これに気付かなかったのよ」


 あくまで淡々と。『オデール』という名前には、欠片の愛着も滲んでいなかった。それが、彼女にとってのあの男がどのような存在であるかをあらわしていた。


「あなたは、何を…………」


「電話帳見るわよ。あなたの仲間、なんていう名前なの?」


「え……?」


「もし助けが欲しいなら、仲間を呼びなさい。あの糸女は無関心だから見逃してくれる。――……それで余計な被害が、なんて考えないことね。自分の命を考えなさい。この町で、かっこつけたってしょうがないわ」


 シャーリーはその発言についてしばし考えた。鈍りきった頭で。

 グレースは回答を待つ。


 ……それから数十秒後。

 シャーリーは、首を横に振った。


「ッ……正気なの…………、助かりたくないの??」


 もう一度首を振る。


「じゃあどうして……」


「助かりたいですよ……全身が痛くて泣きそうだ……だけど。ボクがこの立場から抜け出せないなら。せめてこれ以上迷惑はかけたくない…………それぐらいの意地を、張ったっていいでしょう……」


 シャーリーは力なく笑おうとする。グレースは奇妙な表情を浮かべてため息をつく。


「呆れた、本当に呆れた……そんなことで、この街で――…………」



「あぁまったくもってそうだよなぁグレース、呆れるを通り越して称賛をくれてやりたいぜ!!」


 癪に障るような、いささか甲高い男の声。ハッとしてグレースは振り返る。


 ……にやにやと貼り付いた笑みを浮かべたオデールが、闇の中から現れる。

 ……その数秒前まで、彼はそんな表情をしていなかったが。


「オデールっ……!」


「なぁおい、マイ・スウィートよ。お前は一体、何をしようとしてた? えぇ、おい??」


 硬直したグレースから、彼はスマートフォンを奪い去る。


「関係ないでしょう、あなたには……」


「あるさ。お前は俺の支配下にあるからな。お前の管理も、俺の大事なジョブってわけだ……どれどれ、ふむふむ…………」


 ニヤついた顔のまま、オデールはスマートフォンを見る。

 それから、ちらりとその目を――蛇のようなその目を、シャーリーに向けた。


「なるほど、な・る・ほ・ど。そのガキのやつか。それでお前が何をしようとしていたのか。なるほど、なるほど…………」


「オデール、私は何もあんたの計画を…………」


「あー待て。要するにだ。お前は俺の計画を邪魔しちゃいない。お前の馬鹿な旦那の情けないツラを俺が見て以降、一度たりともだ。そう、一度たりとも。だがなぁグレース。グレース・フレミング。お前は今、俺の、計画に…………――――水を差したんだぞクソアマがぁッ!!!!!!!!!!!」


 突如。その表情から笑みが消えて憤怒が浮かび上がる。そのままオデールは、グレースの頬を強烈に叩いた。

 その手からスマートフォンがこぼれ落ちて、何らかの番号を呼び出す。


「ッッ……――」


 シャーリーの目が見開かれ、また食って掛かろうとする。オデールはそれを無視して、荒い息を吐きながら、へたり込んだグレースの上にのしかかる。


 それから再び――。


「全てはッ!!!!」


 頬を張る。

 そのたびに彼女の表情が激痛と恥辱に歪み、口の端から血が漏れる。


「やめろッ、やめろ!!!!」


 聞こえていない。いや、聞いていない。


「全てはッ!!!! 俺の計画通りじゃなきゃならねぇんだよッ!!!!」


 オデールは何度も何度も、したたかにグレースの頬を張る。何度も、何度も。

 そのたびに炸裂音が頭上に響き、苦痛の中で彼女が身じろぎして呻き声を上げる。


「こいつッ……――」


 シャーリーは一瞬、声をだすことを忘れていた。

 ――異常だ。こいつは、異常だ。

 おぞけとなって全身を襲う感覚。


 一人の、大人の男が……ここまで幼稚な衝動に駆られるものなのか。

 彼を一体ここまでにさせたものとは一体。


 ……シャーリーは知る由もない。知ったところでそれに同情することなど出来やしない。

 オデールの中に荒れ狂う激情。


 あの糸使いの女……カネで雇われただけの、薄汚い殺し屋。そいつに、コケにされた。舐めやがって、どちらが上の立場か考えやがれ。だが奴に逆らうことは出来ない。あの胡乱な目で射すくめられた時、オデールは……動けなかった。


 更に、テレビやラジオ、インターネットが告げる情勢は彼にとって良くないものだった。


 ……状況が徐々に、彼に不利になりつつあるというのだ。警察側の『予想以上の奮闘』によって、街の被害が少しずつ減少しているという話を聞いた。何故だ、何故そこまで唐突に――突然に。


 無論オデールは、第八機関の存在を知らない。


 何故だ――ディプスの奴は何をしている。俺に力を与えてくれるのではなかったか。お前の力があれば、あんな連中などあっという間に……――。

 だが、ディプスは現れない。彼の前に、現れない。どこかに潜んで、沈黙したままだ。


 そしてオデールは……おのれのいらだちをぶつける場所を失った。



 だから今――自分が手篭めにしているこの女までもが、自分をコケにしたという事実が許しがたくのしかかる。


 彼は節くれだった手にさらなる力を込めて、彼女に振り落とそうとする。既にグレースの顔は赤く腫れ上がり、涙さえ流せずただただ呻いている。何の抵抗もせず。


 運命を運命のまま受け入れるとでも言うように。そんな態度が、更に癪に障った。今、その手を振り下ろす――。


「やめろォッ!!!!!!!」


 叫び声。オデールは濁った目でそちらを見る。



「やめろ!!!! やるならボクをやれ、その人は関係ないッ!!!!」


 シャーリーは喉が痛むほどに叫ぶ。そのたびに、身体に激しく糸が食い込み痛みを催させる。そして、その身体を痛みに震わせるのは……糸だけではなかった。


「黙りやがれぇッ!!!! いっぱしのガキがぁ……――てめぇには何にも出来ねえだろうがッ!!!」


 血走った目で、オデールは叫び返す。


「……――ッ」


 そのオデールの言葉に反撃できるだけのものを、今のシャーリーは持っていただろうか? 


 答えは否である。残酷なまでに。

 自分の出自も、戦う理由も、そして――その右腕に蓄えられていたはずの力も。今はすべてが不十分で心もとない。頭は絶え間なくガンガンと痛む。全身の打撲がじんわりと重苦しく響く。糸が食い込んで、肉体が悲鳴をあげる。足元に、穴が空いた感覚だ――。


 今の自分には、なにもない。


 ……そう、何も、出来ない。


「くそッ、くそッ――」


 悲痛なまでに、彼女は心の中で叫ぶ。

 ――お願いだ、力よ蘇ってくれ。


 せめて、目の前のこの人だけでも助けられるだけの力を、ボクに取り戻させてくれ。


 ああ、それすらかなわないというのなら。あの魔人は、何のためにボクに力を与えたというんだ――。


 怒りは、衝動は今、嘆きに変わり――。


「てめぇの無力さを、そこで思い知りやがれッ!!!!」


「くっそぉぉぉぉぉぉーーーーッ!!!!!」


 今、決定的な無力感に変わる――。



「――随分と調子良さそうじゃねぇか!! えぇ、おい……『黄金銃のオデール』よォ!!!!」



 その叫び声。


 オデールが動きを止めて振り返るのと、『それ』が起きたのはほぼ同時だ。


 声が誰のものであるかを理解するよりずっと早く――。

 鋼鉄の扉に拳が叩きつけられ、猛烈な轟音が響き渡った。一瞬遅れて、夕焼けの眩しい光が帯のごとくアジトの中へと入り込んだ。


「何っ――」


 眩しい。思わず目を背ける。オデールも、シャーリーも。誰もが、一瞬見えなくなった。


 

 ……ゆっくりと、光が収まっていき……轟音の余韻がひいていく。その中で、オデールが、ついでシャーリーが、扉の方角を見た。


 今や倉庫のすべてが薄い橙の光で顕になっていた。その中央――最も眩しい場所から、こちらに向けて歩いてくる影法師のシルエットがある。確信的な足取りをもって、まっすぐに――こちらへ、こちらへ。


「……てめぇ、ついに、来やがったな……――!」


 オデールはそう言った。その声は震えていた。表情には、歓喜と……不安、それぞれ両方が混ざっていた。


 そこに来てようやく、シャーリーも理解する。


 このタイミングで、ここに現れたのが誰なのかを。


 扉を盛大にぶっ壊して、真正面からやってくるなどという芸当が出来るたった一人を。


 ……足音がやんで、そのシルエットが明確になる。


 紫のゴシックロリータ。燃えるような髪。くっきりとした瞳、そして、煙を上げる拳。



「よう、根性あるじゃねぇかよ、嬢ちゃん――こいつをぶっ飛ばした後で、ローストターキーを奢ってやるからな!!」



 両の拳を胸の前でぶつけ合ったキーラ・アストンが、満身創痍のまま顔を上げたシャーリーに、白い歯を見せて笑いながら、そう叫んだ。
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