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第1章 ウェルカム・トゥ・ザ・ジャングル
#7 エスタ・フレミング
しおりを挟む「間違いない。エスタ、だよね。どうして、こんな――」
「シャーリー……」
「エスタ、」
だが、シャーリーの目の前に居る彼女は。
「……ッ」
不意に目を背けた。身を捩ってベッドから降りた。
「エスタ!?」
それから、その場に居る全員を振り切って部屋から出ていった。空間に足音が残る。
シャーリーは弾かれたようにその後に続く。
「なんでッ……!?」
逃げ出した彼女を追って、部屋を出る。
「……」
フェイとチヨは顔を見合わせた。
3秒後。
――彼女たちも、それに続いた。
◇
少女がストリートを全力で疾走し、その後ろをシャーリーが必死に追いかける。
「なんで、なんで逃げるッ!?」
「……ッ、……ッ」
その後方からシトロエンが続き、2人の逃走劇を見守り始める。
胡乱な目をした道行く者達が、この地を進むにふさわしくない軽い身なりをした2人の少女を訝しげに見ている。トタンの瓦礫、あるいは焚き火の煙越しに。
散らばったゴミ箱、折れ曲がった標識を通り過ぎながら二人は走っていく。エスタは角を曲がった。シャーリーもそれに続く。駐車された凹みだらけのワゴンから黒人が出てきてシャーリーの前に立ちふさがる。
「へい嬢ちゃん、そんなに急いでどこに行くんだ、俺と一緒に――」
「ごめんなさいッ! それどころじゃないんです!!」
相手の言っていることをよく聞くこともせず、シャーリーはその腕をすり抜ける。
黒人は痰を吐いてからシャーリーを追おうとする――が、そこにクラクションを鳴らしながら車が通り過ぎる。もう少しで男は跳ねられそうになった。
「ワッツ!? 危ねえ、」
そして男はそのシトロエンの窓から顔を出す和装の少女の、殺気に溢れた表情を見た。
男は背筋が凍って、ひとつのことを思った。
「なんで……俺が悪いみたいになってんだ……」
少女は走っていく。どこまでも。エスタは追跡していく。
道に座り込んだ若者のグループを突っぱねて、悪態を背中に受けながらどこまでも。
至るところに、野放図に駐車された車がある。それらに行く手を阻まれながらも進んでいく。少女はそのたびに遠のくが、それでも諦めずに追跡していく。
何度か、跳ねられそうになる。
「馬鹿野郎、殺されてぇのかッ!!」
だがシャーリーはそれすら無視して進んでいく……狭い路地に入っていく。後ろにシトロエン。一度停車し、ドリフトして別の道へ。
少女は柵を乗り越えて、薄暗く狭い階段の下へ。そこは原色の色彩と激しいドローンミュージックに彩られたクラブのような場所だった。
様々な姿をした者達が我を忘れて踊り狂っている。エスタはその中に潜り込み、その奥へ奥へと進んでいく。シャーリーも続く。
「ねぇ、お姉ちゃん……僕らと直結しない? 種族は関係ないよ……みんなでアルカディアに行けるんだ……」
その場所の隅には、機械人達による集会が行われていた。円陣を組んで、何やらその中心にあるコード類の塊を崇め奉っている。シャーリーの行く手にはそれがあった……フェイはその先に居た。突っ切るしかなかった。
「ごめんなさーいッ!!!!」
意を決して、その場所を正面から突破した。コード類がぶっ飛んで、その周囲の者達が悲鳴を上げていく。
「アアアアアアアーーーーッ!!!!」
「なんて、なんてひどいことを、」
エスタは既に反対側の出口から地上に出ていた。シャーリーも続いた。光が溢れて、空の下へと辿り着く。それから再び、追走が再開される。頭の中で先程の空間の重低音がガンガン響いていた。シャーリーは耳を抑えて顔をしかめながら進んでいった。
逃げていく、逃げていく……。
「エスタ、待って!! 話を聞いてッ!!」
「嫌だ、絶対に嫌ッ……」
大音量のロックミュージックを流しながら、一際大きなトラックが歩道に乗り上げながら目の前を通り過ぎていく。2人は隔てられ、エスタの姿が見えなくなる。シャーリーはその場で足踏みする。トラックが通り過ぎる。走るのを再開する。さらに角を曲がる。
……誰かにぶつかった。
「……おい」
岩のような肌を持つ巨漢が目の前に影を作り、シャーリーを睨みつけていた。殺気。彼の拳が迫った。
「ごめんなさいッ!!」
――シャーリーは避けた。股の間をくぐり抜けて、その先のはるか遠くに行っているエスタを追ったのだ。
「ぐあッ!!??」
悲鳴が上がる――巨漢の拳は確かに相手の顔面に炸裂していた。
そう。偶然シャーリーの後方に居た者に。
「……」
「おい」
その男は、全身に入れ墨と金細工を施し、禿げ上がった頭頂部に角を生やした人相の悪い男だった。その顔が腫れて、血がべったりついている。
「――……俺がグライムス・ギャングのメンバーだってことを知ってての拳か? こりゃ。ええ??」
巨漢の顔が一瞬ごとに青ざめていく……殴られた男の後方に、わらわらと男たちが募っていく。
……そうして、シャーリーが間接的な原因で何らかの火種が切って落とされた。彼女の後方で悲鳴が上がり、何やら物騒な複数の炸裂音が響き渡り始め、とうとう爆発音まで聞こえ始めた。
彼女は一瞬振り向いた……が、そもそも自分は拳を避けただけだった。
額に汗を垂らしながら、シャーリーは再び前を向いて走り出した。後方で賑やかな数々の音が炸裂し、どういうわけか乱闘が始まっている。多くの者達が殴り合い、吹き飛ばされあっている。彼女は走る、走る、走る――エスタを、追いかける!!
◇
「平和ねぇ」
「……」
「グロリアさん、ミランダさん、コーヒーどうぞっス」
「ありがと」
「……」
「……」
「……」
「これ濃す「薄すぎない?」
「……」
「……」
「……やべっ」
――2人は、同時に向かい合って牙を剥いた。
◇
少女は薄汚れた集合住宅の屋上に来ていた。室外機がすぐ傍で唸りを上げて、その傍らには木造の小さな小屋。中で鶏が合唱し、そのにおいが外まで漂ってくる。
小柄な老婆がほうきでその小屋の周辺を掃除しながら、膝に手をついて荒く息を吐く少女を怪訝な顔で見ている。
「ここなら……もう……」
「――なんでだーーーーッ!! エスターーーーッ!!」
「!? キャーーーーーーーーーーッ!!!!」
シャーリーは屋上の縁から、不意に頭を出してきた。エスタは絶叫した。どうやって登ってきたのだろうか。そして再び逃走劇が再開された……。
……それから、数十分後。
「……っ」
「やっと……っ」
シャーリーは、エスタを路地裏の壁際に追い詰めていた。コンクリート造りの、八方塞がりの場所である。
ぶちまけられたゴミ箱の傍をねずみが走っていく。先程まですぐ近くの壁では、身体から触手を伸ばした男と腕が複数生えた男が向かい合って言葉をかわしていたが、少女たちがやってきてから興が削がれたのか、その場から退散していった。
そういうわけで今、エスタの背中にはコンクリートの壁だけがある。
……シトロエンはそのすぐ近くに駐車する。フェイは双眼鏡で2人を見ている。
少女は――エスタは息を吐きながら、両腕で身体をかき抱いている。華奢で小柄な、ワンピースに包まれた身体。焦茶色の髪は両端が小さく結ばれており、その顔は汗に濡れつつも、僅かに腫れあがっている。
「やっと……」
シャーリーは息を整えてから、ややためらいがちに彼女の方を向いた。
「やっと……会えた」
――10年だ。
その歳月を経て、今出会えた。
困惑と嬉しさが混じった気持ち。どういう気持ちで、彼女を見れば良いのかわからない。
エスタは――紛れもなく、エスタだった。
しかし、何かが彼女の中で変わっている。
今のシャーリーには、そんな風に見えていた。
だが――それでもなお、今言うべきことは一つだった。
「怪我は大丈夫なの、エスタ……手当をしないと……あの男は一体誰なの」
駆け寄りたい気持ちはあったが、身体はそれをすることがなかった。何かが、その行動を阻んでいた。
これが10年前なら、すぐにでも彼女の頬に手を当てて、その痛みを嘆いていたはずなのに。
「ねぇ、エスタ――答えて……」
「あなたには……関係ない」
「……っ」
その言い方は冷たく、棘があった。シャーリーの胸の中に、たしかに突き刺さる感覚があった。言葉に詰まる。混乱が加速する。
「でも……でも、手当てしないと……」
「いいよ。どうせ大したことじゃない」
「そんな……」
そう言われてしまえば、その先の言葉を飲み込むしかなくなる。2人の間には確かな距離が空いていた。お互い、一歩も動かない。空気が淀んで、漂っていく。日陰の不快感。コンクリート壁の落書きが、どうすることもできないシャーリーをあざ笑っているかのようだった――“誰も最適を知らない”。
「エスタ……」
シャーリーの手が半端に伸びて、空中で固まる。ずっと後ろに車が停まっていて、成り行きを見守っているのには気付いていない。エスタは……かき抱く手を下に降ろして、低く……ひどく小さな声で、言った。
「ねぇ……どうして、来たの?」
ぞっとするほどに――突き放したような口調だった。シャーリーの中で何かが走った。それは背中を通り過ぎて、一気に足元にまで及んだ。彼女は……気づけば、まくし立てていた。
「エスタに……エスタに会いたくって、ここまで来たの。あの時離れ離れになったから……無事でいてほしくって。でも今こうして再会できたから……良かった、ほんとうに、会えてよかった」
――だったらもっと嬉しそうな顔をしろ。良かった、という顔をしろ。今のお前はなんだか罪をひた隠しにしているみたいだぞ。ひどく醜くて不格好だぞ。どうしてそんな言い方しか出来ないんだ、もっと良い方法があるはずなのに――……頭の中で思考がまとまらない。
笑顔を作ろうとしていたのかもしれないが、口の端が強張っていく。くそっ、なんなんだこれは。
エスタに会えば、もっと嬉しい気持ちになるだろうと思っていた。しかしどうだろう。今彼女を襲っているのは困惑と、地面の下に穴が空いたような強い不快感。決定的な何かが目の前の彼女と繋がらないという感覚。気持ちが悪い。頭の上に日陰がある。
「……そう」
そんな状態だから。
言うべきでないようなことも、言ってしまうべきだと錯覚していた。だから言った。言ってしまった――。
「……あのね。ボクは、君ともう一度友達に――」
「ごめんなさい」
「……ッ」
「ごめんなさい。もうあたし……あなたと、そんな風には、いられないの」
身体中が冷え切って、シャーリーは後ずさる。これまでの全てが色を失っていく。
「10年。10年だもの……昔と今じゃ、あまりにも、何もかも違いすぎるから」
エスタは顔を伏せていた。かつて、道端で泣いていた時のように。しかし、そこに手を差し伸べることは出来ない。シャーリー自身が、それが出来ないと分かっていた。分かってしまっていた。エスタの粗雑な上履きの下で、砂利が乾いた音を立てた。
「あなたは、上に住んでいた。でもあたしは、こうして地面の上に住んでいる。あの時もきっと何もかも違ってた。環境も、何もかも。でも今は……それとは比べ物にならない。だから……友達とか、そういうのは違うの」
「そんな……」
口の中が乾いて、呻くような言葉しか言えない。自分が立っている場所が、酷く現実感を失っていくように感じられる。
エスタは、前を向いて……笑おうとしていた。だがそれは、悲しげな何らかの表情になっただけだった。彼女は掠れた声を絞り出して言った。
「あたしね、びっくりしちゃった。だって、あなたがあまりにも昔と変わっていないから。でも、それが怖くって……逃げ出しちゃった」
おどけているのか。シャーリーにはわからない。
「あなたはあたしを追ってここに来たって言ってたけど……でも、あたしはもうあなたとは……――だから、ごめん。ごめんなさい」
壁に背中を付けて、力なくうなだれながら、エスタは「ごめんなさい」を繰り返す。違う、謝ってほしくなんかない。エスタは何にも悪くない。悪いのは、悪いのは――。
「違う、エスタ……そんな風に言わないで。ボクは、エスタがどんな風に変わってしまっても、絶対に……」
「――なら。この身体を見てもっ……そんな風に言えるのっ!!??」
エスタは不意に大声を出した。それからワンピースを……脱ぎ去った。
そこには。
「……――ぁ、」
駄目だ。見られない。
ボクはこれを、直視することが出来ない。
……そこにあった、エスタの身体は。
あまりにも残酷で、過酷で。どうしようもないほどに取り返しのつかない、『変化』の刻印だった。
彼女がこの地に降り立ってから、見てきた者達。多様な姿をしている者達。ああそうか、今なら分かる――それは、呪いだった。
決して解けることがない、呪いだったんだ……!
「……あぁ、エスタ……――」
シャーリーは膝から崩れ落ちそうになるのを必死でこらえる。エスタのその姿は、彼女にしか見ることが出来ない。だが、それは焼き付いて離れない。涙すら乾いて、吐き気が喉奥からこみ上げる。その“あんまりな”姿への拒否感?
違う……これは、ボクが、私自身が、彼女に今何を強いていたのか。その証左なのだ、それが――今、目の前に……。
「これが今のあたし、あたしなの、シャーリー……あの時からずっと、この身体とともにある――」
エスタは呪詛のように俯きながらつぶやいて、髪を掻きむしる。取り憑かれたように。
「嫌だ、こんな醜い姿……嫌だ、嫌だ……――でもっ……この身体がないと……あたしは、生き――」
「エスタっ……」
ついに、シャーリーは駆け出して、羽織っていたジャケットをその裸身へと被せていた。
それから、沈黙の数十秒が過ぎた。
エスタはワンピースを元通りに着た。シャーリーは地面に落ちたジャケットを拾って、再び羽織った。その間、目を合わせることはなかった。2人の距離は近づいていた。しかし、間に壁があるかのように、交わらない。
「パパは死んだ、ママは違う男の家に行ってろくに帰ってこない……その中で、この体で……やっぱり嫌でしょ、怖いでしょ、この体」
エスタは無理に笑おうとしていた。悲痛さをむき出しにしてくるよりもずっと、シャーリーにはそれが耐えられなかった。取ってつけたような言葉しか、もはや口から出てこない。
「そんなことは――」
自分が居なかった10年間。自分が、のうのうと空の上で暮らしていた歳月。その間に変わってしまったもの。その間に、エスタが経験してきたこと。彼女は多くを語らない。どうせなら、自分を目一杯罵倒し、怒鳴り、その罪を償わせて欲しかった。
しかしエスタは……それをしない。
「シャーリー……昔、言ってたよね。二人ならきっと、生きていけるって」
「そう、そうだよ、エスタ……ボクは……君と――」
「でもあなたはっ……『そっち側』に行っちゃったじゃないっ……!!」
「……ッ!」
ああ――まただ。あの日のあの光景が蘇る。そうだ。ボクはエスタの手を拒んだ。彼女に手を差し伸べられなかった。助けようとしていたはずなのに。それが、その事実が、どれほどエスタを苦しめていたのだろうか。そうだ……ボクは、逃げた。逃げたのだ――。
「ボクは。ボクは、」
「ごめんなさい……あなたに当たり散らしても、しょうがないの……わかってる、分かってる……でもあたしはもう、あなたと一緒に居ることは出来ない……っ」
「やめて、言わないで、エスタっ……」
崩れていく……何もかもが。足元が震える。
「あたし達が共にいられる世界なんて、きっともう存在しないんだ。あなたには、あなたの世界が存在する。でも、あたしの世界にはきっと、あなたは……居られない」
「エスタ、」
「ごめんなさい」
「待って、エスタ……」
「ごめんなさいっ……もう、会えない――」
エスタは顔を覆った……そして、コンクリートの壁から背中を離した。
シャーリーの横を、すり抜けた。
止めることが、出来なかった。
彼女は目の前から、去った。
そして、後ろへ、走っていった。足音だけが遠ざかっていって、エスタが、居なくなっていく。後方の光景へと溶け込んで消えていく。
最後の言葉だけを、シャーリーの耳に残して。
――もう、会えない。
「エスタ……」
路地裏で1人、シャーリーは呆然と立ちすくんでいる。
あれほど焦がれた相手は、もう行ってしまった。一分先のことでさえ、もう定かではない。足の先から力が抜けていって、彼女はその場に膝から崩れ落ちた。
10年という歳月が、鎖となって身体中を締め付け、地面に拘束していた。
◇
「彼女を、送ってやろう」
フェイは車内で呟く。
一部始終を、双眼鏡で見ていた。取り残されるシャーリーの姿。
そこにある光景は、あまりにもありふれているものだ。この街においては。
だからこれは、そう――大したことじゃない。
チヨが、小さく頷いた。
「……空の上にある、家まで」
フェイはそう言ってから双眼鏡をしまい込むと、車の窓を閉め切った。
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