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第一幕 『なれそめ』

11.

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 あれから一週間が経って……オフェーリアは、あの鋭い瞳の伯爵との邂逅は夢だったのではないかと思いながら、自宅の食卓で母親と一緒に甘い香りの焼き菓子を食べていた。

「どうしたの、オフェーリア。最近すっかり心ここにあらずね」
 母・マーガレットの声にはっとしたオフェーリアは、弾かれたように紅茶から目を外して顔を上げた。ああ、濃く淹れられた紅茶が、ゴードンの髪の色にそっくりだなどと考えていたとは、口が裂けても言えなかった。

「なんでもないの。ちょっと……キャスリンのところからの帰り道が、すごく疲れるものだったから……。御者がひどいお爺さんで、馬車がすごく揺れたの」
「じゃあ、もう少し休んでいたらどう? 今日はとても気分がいいのよ。あなたの手伝いがなくても大丈夫よ。キャシーもいるわ」

 キャシーとは、オフェーリアの家にいる唯一の使用人だった。
 オフェーリアがまだ産まれる前、両親を亡くして孤児になるところだった農民の娘を、オフェーリアの母が同情して家に連れ帰ってきて、使用人として雇ってあげようと父に懇願したのがはじまりだった。父は今も昔も、母の願いならどんなことでも叶えてあげたい人だったから、当然、その願いは聞き入れられ、キャシーは今でも屋根裏に部屋を与えられてこの家に仕えている。
 母は体の弱い人だった。
 特に冬場は具合の悪くなることが多く、キャシーの助けだけでは家が回らず、オフェーリアは様々な仕事をこなした。本格的な冬がはじまる前に男爵屋敷へ遊びに行きたいと思ったのも、そのせいだ。忙しくなる前に少しだけ、仲のいい従姉と息抜きをしたいと思っただけ……。
 傲慢で冷淡な長身の伯爵に心を奪われるためではなかったのに。

「オフェーリア」
 母は優しい声でささやき、食卓の上に置かれていたオフェーリアの手の甲にそっと触れた。
「相談事があるなら、言ってごらんなさい。男爵のところでなにかあったのね? 他にお客様がある予定だったと聞いたわ。あなたの年頃の青年が……ロバートと言ったかしら?」
 ロバート。
 一瞬、誰のことだかさっぱり思い浮かばなくて、オフェーリアは大きく目を開いた。ああ、そうだ。あの運命の夕食会で、隣に座った青年。穏やかで気の利くいい人だったけれど、オフェーリアの記憶からはすっかり抜け落ちていた。それだけゴードンの存在が強烈だったのだ。
 ゴードン。
 ウィンドハースト伯爵ゴードン・ランチェスター卿。
 彼はオフェーリアの実家を訪ねると約束し、激しい口づけで唇を奪った後、なにかに急かされるように男爵屋敷を発ってしまっていた。それ以来、連絡は一切ない。
 あれから一週間。やはり、ただのおふざけだったのだろうか……。
「違うの、お母さん。ロバートはいいひとだったけど、そんなふうには思わなかったわ。恋煩いをしてる訳じゃないから、安心して」
 叔母か叔父から、ゴードンのことを両親に報告する手紙が来るのを覚悟していたが、それはまだない。オフェーリアの口からは伝えられなかった。裕福で傲慢な伯爵に心と唇を奪われましたが、どうも彼はわたしをからかっていただけのようです、とでも言えばいいのだろうか?
 それはさすがに自尊心が痛んだし、心配性の母を悩ませたくなかった。
「そうなの? でも、あなたももうすぐ年頃だわ。そろそろ年相応に好きな人を見つけてもいいのよ。誠実で愛情深い人なら、そんなに裕福でなくても大丈夫。大切にしてくれる男性を探しなさい。たとえば……」
 母の微笑みと優しさが、今のオフェーリアの心にはちくりと痛んだ。ゴードンはそれとまったく正反対の男のようだったから。
 いくつか母が好ましい青年の名前を挙げようとした時、食堂の狭い入り口にキャシーが現れた。腰に巻いた白いエプロンで手を拭いながら、そばかすの散った色白の顔をほころばせている。
「失礼します、奥様。オフェーリア様にお客様が見えていますよ。男の方です」
「まあ、噂をすればなんとやら、ね!」
 母は嬉しそうに声を弾ませた。
 オフェーリアは座っていた椅子を吹き飛ばす勢いで立ちあがり、口をあんぐりと開いた。すぐさま心臓が高鳴りはじめて、あふれる期待が痛いほど胸を圧迫した。
「だ……誰……?」
 震える声で尋ねるオフェーリアに、キャシーは不可解に首をかしげて、玄関の先に向けてあごをしゃくる。
「ハンサムなお坊ちゃんですよ。ご自分で行って確かめてみたらどうです?」

 取るものも取らず、オフェーリアは玄関へ向かった。母とキャシーはくすくすと笑い合いながら、そんなオフェーリアの後ろ姿を見送っている。
 息を切らしたオフェーリアが玄関口へたどり着くと、そこに立っていたのは栗色の巻き毛とほっそりした長身の、いかにも気立ての良さそうな青年だった。
「エティエン……」
 町中で流行っている仕立て屋の跡取り息子で、オフェーリアの三つ年上で、幼い頃から馴染みの深いエティエンだった。彼はオフェーリアを見ると嬉しそうに微笑んだ。

「ひさしぶりだね、オフェーリア。しばらく叔父さんのお屋敷に行っていたんだって? 楽しかったかい?」

 礼儀正しく、脱いだ帽子を胸元に握りしめているエティエンは、年相応の清々しさと若々しさで彼なりの魅力を振りまいていた。少なくともオフェーリアの住んでいる田舎町では、エティエンは一番の美青年と噂されている。オフェーリアも、それに同意していた。
 ゴードンに出会うまでは。
「ええ。たくさん従姉と話せて……嬉しかったわ」
 どこかうわの空で答えながら、オフェーリアはもじもじと襟元のボタンをいじった。
「どうかな、オフェーリア。少し散歩しないかい? 男爵のお屋敷での話を聞きたいな。君にもしばらく会っていなかったし、今日は天気もいいよ」
「それは……」オフェーリアは断る口実を探そうとした。「わたし、今日はちょっと疲れていて……」

 散歩──。
 ゴードンは約束してくれた。三回、オフェーリアを散歩に誘ってくれると。
 それなのに彼はまだ来ない。便りさえない。
 オフェーリアは待っているのに。心が押しつぶされそうなほど、彼に会いたいのに。苦しいのに。恋しいのに。オフェーリアは多分、捨てられたのだ。

 心の中で、シャボン玉のように繊細ななにかがパチンと音を立てて割れた気がした。オフェーリアは決然と顔をあげ、大胆にもエティエンの手を取った。
「ええ……連れて行って。散歩に。『紳士が好ましい婦人を見つけた時』にするみたいに……」
「うん?」
「ううん、なんでもないの。一緒に散歩に行きましょう。いいお天気だものね、もったいないわ」
「そうこなくっちゃ。その前に少しだけ、お母さんに挨拶させてもらってもいいかな? 彼女の気分はどう? 最近はだいぶ具合が良いみたいだね」
 エティエンの好青年ぶりは完璧だった。
 オフェーリアがゴードンに望んだことをすべて、頼まれてもいないのに実現してくれる。たとえオフェーリアが彼の手を取っても、それにかこつけて唇を奪ったりしない。
 エティエンはオフェーリアの身の丈に合った相手だ。
 理想の……ずっと夢見ていた……穏やかな恋をできる青年だ。

 商売をしている家の息子らしく、愛想のいいエティエンは、母とキャシーを相手に礼儀正しい挨拶と短い歓談をすると、あらためてオフェーリアを散歩へ誘った。そのあいだに自室から帽子を取ってきて、ショールを肩にかけたオフェーリアは、エティエンと共に外へ出た。

 空は雲ひとつない薄い水色で、冬を控えて大陸へ飛んでいく渡り鳥がくの字を組んで鮮やかに横切っていく。オフェーリアは目を細めて天上を仰いだ。この広い空の下のどこかで、ウィンドハースト伯爵はなにをしているのだろう。今もあの傲慢で冷たい表情を浮かべながら、強靭な肉体を無理やり紳士の服に詰め込んだようなあの姿で、年端もいかない乙女を誘惑しているのだろうか?
 違うと、思いたかった。思ったところで、どうにもならないけれど。

「今日は丘の向こうの小川に君を誘いたいな。紅葉が綺麗なんだよ。まだ散りきっていないといいんだけど」
 ちくりと胸を刺す痛みを感じながら、オフェーリアはぼんやりとうなずいた。いちいち抵抗する気にもなれなくて、誘われるままエティエンの示す道を一緒に歩きはじめる。
 紅葉……。
 けぶるような瞳にとらえられ、髪にからんだ濃い赤の葉っぱを取ってもらった、あの運命の瞬間を思い出す。あの時、オフェーリアは図らずも自分の心を手放していたのだ。そして人を人とも思わない残忍な伯爵にそれを預けてしまった。
 愚かな娘。
 エティエンはさりげなくオフェーリアの腰の後ろに片手を置き、気さくに近状を語りながら先導してくれた。
 しかし、家を少し離れて轍や馬の蹄の跡の目立つ田舎道に足を踏み出すと、オフェーリアは急に心細くなりはじめた。まるで誰かを裏切っているような後ろめたさに、強く足を引っ張られているような気がする。
 オフェーリアは足を止めた。
「ねえ、エティエン……せっかく誘ってくれて嬉しいのだけど、わたし、やっぱり……」
 なんとかあやふやな笑みを顔に張り付けながら、オフェーリアは元来た道を戻ろうとした……その時。背筋が凍るような視線を背後に感じて、オフェーリアは慌てて振り返った。

 狭い道を我が物と支配するように、両肩に濃紺のタッセルが飾られた優美にして力強い軍服を纏ったウィンドハースト伯爵ゴードンが、オフェーリアを鋭くねめつけながら立ちふさがっていた。

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