上 下
25 / 56

Let Me Fall - 2

しおりを挟む


 晴れわたる青空、生い茂る緑の香り、肥沃な大地の感触──。
 馬たちは勢いよく砂利道を駆けぬけ、その手綱を握るローナンの機嫌をますます良くさせた。実際、彼はとても機嫌が良かった。
 あの兄を狼狽させるのに成功したのだ。

 それはローナンに甘い勝利を感じさせたし、傍観者として強く興味をそそられる出来事でもあった。エドモンドとオリヴィア。なんと面白い二人だろう、と。

 おまけにどうやら、ローナンは最高の席で彼らを鑑賞できるようなのだ。
 御者台から後ろを振り返り、背後にある馬車を盗み見るローナンの口元には、悪戯っぽい曲線がかかれている。──この小さな密室の中で何が起こっているだろう? オリヴィアはあの格好だし、エドモンドはこれ以上ありえないほど頭に血が上っている。いや、頭ではなくもう少し下の方かもしれないが。

 ローナンは落ち着いた性格だったし、滅多なことでは興奮しなかったが、今回ばかりは子供じみた興味を抑えきれなかった。

 バレット家の敷地から出て数キロ。
 二またに分かれた道に馬車が差しかかると、ローナンは『左』に馬を向けた。
 ウッドヴィルへの近道は『右』だ。

 ローナンの選んだ道は近道より二倍の時間がかかる。──それこそまさに、ローナンが望んでいることだった。





 オリヴィアは狭い馬車の中でせわしく視線を泳がせながら、どこかに身を隠す場所がないかと探していた。
 救いを求めるように上を仰いでも、見えるのは低い屋根だけ。
 自分がどれだけ狭い箱の中に閉じ込められているのか、思い知らされるだけだった。

 エドモンドはそんなオリヴィアを凝視しながら、この娘を懲らしめる百の方法を思案中だった。何かに考えを集中していないと自分を抑えていられなかったからだ。
 エドモンドはオリヴィアとローナンの二人にたいして大いに腹を立てていたが、それ以上に彼が許しがたかったのは他でもない、彼自身だ。

 ──あの白い肌を見てみろ。
 ──あの柔らかい肢体を。

 歩く男の夢が、薄いレースに身を包んできょろきょろと外をうかがっている。
 エドモンドはオリヴィアにたいして禁欲を誓ったつもりでいたが──死人ではない。呪わしくも人一倍健康な成年男性であり、少なくとも法律的には彼女の夫である。
 彼女に触れるのを我慢するだけでも脂汗がにじむほどの忍耐と努力が必要だというのに、そこに嫉妬が加わっては最悪だった。

 この薄いレースに包まれた生き物をローナンの隣に立たせ、他の街の男たちの目にさらすなど、考えるだけで耐え難いことだった。
 しかしエドモンドは、彼女に触れ、彼女が自分のものだと主張することができない。

 生き地獄とは、業火に焼かれることでも、針のむしろに立たされることでもなく、天国を目の前にしてそれに触れるのを禁じられることなのだと……エドモンドは理解した。

 エドモンドの視線を感じる。
 いや、感じるなんてものではない。エドモンドはまるで悪魔と一晩中戦ったあと、まだ決着がつけられないで苛々している悪鬼ような顔でオリヴィアを睨んでいた。
 今の彼なら素手で彼女の首をへし折ることもできるだろう。
 オリヴィアは恐怖を感じていたが、同時に、彼がすぐ目の前に座っているということで、説明しがたい安心をも感じていた。

 エドモンドがここにいる。
 彼の気を惹くために選んだドレスを、(その気性はどうあれ)、熱心に見つめている。

 ──逃げることができないならば、せめてこの場を和めたり、気の利く会話を始めたりしなければ。そう考えたオリヴィアは、中央仕込みの洗練されたお愛想笑いをにこりと顔に貼り付けて、エドモンドに向けて微笑んでみた。


 エドモンドの心臓は、今にも破裂せんばかりの強さで脈打ちだした。
 嗚呼、神よ。
 エドモンドは信心深い男ではなかったが、オリヴィアの笑顔は……天国と地獄の存在をいっぺんに彼に突きつけてくる。いつもそうだ。

 彼女が可愛らしく繊細な笑顔をつくると、それは朝の太陽のように瑞々しく輝いて、エドモンドの存在そのものを鷲掴みにするのだ──。


『話題に困ったときは、天気の話をしなさい』
 これは、初めて社交界に顔を出しはじめた頃から口を酸っぱくして言われてきたことで、オリヴィアは今こそこの約束ごとを利用するべきだと思った。

「あの……今日はとてもいい天気ですね、ノースウッド伯爵。青空がとても綺麗だわ」
 すると、エドモンドは一層険しい目つきになってオリヴィアを睨んだ。
 オリヴィアはすぐには諦めなかった。
「きっと街を散策をするには最適の日和です。太陽は肌に良くないといって嫌う婦人も多いけれど、私は好きだわ。温かくて……」
「マダム」
「気持ちい……え?」
「マダム、一体何がしたいんだ」

 エドモンドの口調は明らかに苛立っていた。
 驚いたオリヴィアは、しばらく口をぱくぱくさせて何と答えていいのか考えていたが、エドモンドが先に続けた。

「その裸同然のはしたない格好で私の弟と街を出歩いて、一体何がしたい?」

 馬車は相変わらずのんびりとした調子で進んでいて、時々、車輪が小石の上に乗ったり小さな溝に落ちたりして揺れる以外、順調な走りだった。 
 オリヴィアの言うとおり天気のいい日で、閉め切った馬車内は蒸し暑く感じるほどだ。しかし、エドモンドの額ににじんでいる汗は、暑さのせいではない。
 エドモンドとオリヴィアは向かい合って座っていた。
 四人が向き合って座れる形の馬車だったから、いくらかの距離はあったものの、それでもお互いの呼吸を感じられるほどの近さには変わりない。

 オリヴィアは暑さと羞恥とで肌を赤く火照らせて、壁の方へにじり寄った。
 裸同然と言ったエドモンドの台詞には明らかな棘があったし、オリヴィアが始めた天候についての会話を引き継ぐ気がないのは明らかだった。
 エドモンドはひどく怒っているように見えた──それは、とても理不尽なことだ。

 つい昨々夜、愛人を作っていいとさえほのめかしたのは彼なのに。
 それに、敬愛する姉のドレスを悪く言われたのも嫌だった。

「お言葉ですけど……ノースウッド伯爵、このドレスは裸同然なんていう下品なものとは違います。姉のものだったのよ。少し大胆なだけです」
「では言い直そう。その少し大胆なドレスで私の弟にからみついて、何をするつもりだ?」
「からみついてなんていません! 彼は……っ」
 オリヴィアは声を上げた。
「彼は私を慰めてくれているだけです! 夫にかまってもらえない可哀想な義理の姉を、散歩がてらに仕立て屋に連れて行ってくれるだけだわ!」

 言い終わるとオリヴィアはなんだか急に悲しくなって、ついにエドモンドから視線をそらすと、ぷいと小窓の方を向いた。
 しかし、エドモンドが肩を落とすのが目の端に見えて、思わず顔を戻した。
 エドモンドは怒りと悲しみがごちゃ混ぜになったような顔をしていた。

「どうして……そんな顔をするんですか、ノースウッド伯爵?」
 オリヴィアは聞いた。
「あなたには想像もつかないだろう、マダム」
 エドモンドは答えた。

 たしかにオリヴィアにはエドモンドの心が読めなかった。でも昨々夜、バレット家の呪いについて話してくれた時の彼を覚えている。
 彼は、人一倍自分に厳しい人間だ。
 あまり人に弱みを見せようとしない男でもある。そんな彼が悲しみの片鱗を見せるのは、本当につらい時だけのはずだ。
 オリヴィアは自分のドレスに今一度視線を落とし、しばらくきゅっと唇を結んで押し黙った。

「……この服がお気に召さないなら、すぐに着替えます。ローナンに頼んで屋敷に戻ってもらいましょう」

 オリヴィアは小声で敗北を認めて、馬車の中で立ち上がろうとした。
 するとその時、急に馬車が大きく縦に揺れて、オリヴィアの身体が座席から前へ弾かれるように飛んだ。エドモンドはすぐに立ち上がったが、さすがに間に合わず、オリヴィアはゴンと壁におでこをぶつけて正面の席に倒れこみ、そのままずるずると床に落ちた。

「ーーっ、ご、ごめんなさ……」
 目に涙を溜めて馬車の床に座り込んだオリヴィアを見て、エドモンドは心の中で毒づいた。
(くそ、だからこの娘は……)

 もっと強情な女だったら、突き放せたかもしれないのに。
 こんなに美しくなかったら、背を向けられたかもしれないのに。

 しかしオリヴィアはか弱く、やわらかく、そして目を離せないほど綺麗だった。ちくしょう、どうして怪我なんてするんだ。全部、私のせいじゃないか!

 エドモンドは持てる限りの全ての自制心を総動員すると、オリヴィアの側にひざまずき、彼女を頭からすっぽりと抱いて、ゆっくり髪をなでた。
「よし、よし、大丈夫だ」
 オリヴィアの身体は温かくて気持ちがよかった。
 まるで焼きたてのパンのように柔らかくて、うっとりとするような甘い香りがする。「傷を見せてごらん、オリヴィア。痛くはしないから」

 すると、オリヴィアはエドモンドの言うとおりにした。
 小さな顔を上げて、つんとおでこを突き出すと、じっと彼を見つめる。
 傷はたいしたことはなかった。
 少し赤くなっているだけで、もしこれが自分についた怪我なら、エドモンドは怪我とさえ呼ばなかっただろう。しかしそれがオリヴィアの肌についたとなると、ひどく心が痛んだ。

 エドモンドはオリヴィアの顔に張り付いたほつれ毛を両手で払うと、泣きそうな顔をしているオリヴィアを覗き込んで、しばらく見つめた。

 オリヴィアの泣き顔──。
 彼女の笑顔はエドモンドの存在を鷲掴みにしたが、泣き顔は……彼の心を粉々にした。床に落ちたポーセリンのように無残に。どんな修復師も直せないくらい散々に。

 足場の悪い道に差しかかったのか、馬車は相変わらず揺れ続けていたが、エドモンドはこれ以上オリヴィアに怪我をさせるつもりはなかった。
 両腕を使ってぎゅっと華奢な全身を包むと、そのままゆっくりと抱き上げ、席に座らせる。
 オリヴィアは潤んだ瞳でエドモンドを見上げ続けていた。

「オリヴィア。本当に街に行きたいのなら、戻る必要はない。服を作りたいのなら、いくらでも注文すればいい……ただ今度は、もう少し肌の隠れるものにしてもらえるとありがたいが」

 今度はエドモンドが敗北を認める番だった。
 馬車は走り続けた。

しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

5年も苦しんだのだから、もうスッキリ幸せになってもいいですよね?

gacchi
恋愛
13歳の学園入学時から5年、第一王子と婚約しているミレーヌは王子妃教育に疲れていた。好きでもない王子のために苦労する意味ってあるんでしょうか。 そんなミレーヌに王子は新しい恋人を連れて 「婚約解消してくれる?優しいミレーヌなら許してくれるよね?」 もう私、こんな婚約者忘れてスッキリ幸せになってもいいですよね? 3/5 1章完結しました。おまけの後、2章になります。 4/4 完結しました。奨励賞受賞ありがとうございました。 1章が書籍になりました。

公爵様、契約通り、跡継ぎを身籠りました!-もう契約は満了ですわよ・・・ね?ちょっと待って、どうして契約が終わらないんでしょうかぁぁ?!-

猫まんじゅう
恋愛
 そう、没落寸前の実家を助けて頂く代わりに、跡継ぎを産む事を条件にした契約結婚だったのです。  無事跡継ぎを妊娠したフィリス。夫であるバルモント公爵との契約達成は出産までの約9か月となった。  筈だったのです······が? ◆◇◆  「この結婚は契約結婚だ。貴女の実家の財の工面はする。代わりに、貴女には私の跡継ぎを産んでもらおう」  拝啓、公爵様。財政に悩んでいた私の家を助ける代わりに、跡継ぎを産むという一時的な契約結婚でございましたよね・・・?ええ、跡継ぎは産みました。なぜ、まだ契約が完了しないんでしょうか?  「ちょ、ちょ、ちょっと待ってくださいませええ!この契約!あと・・・、一体あと、何人子供を産めば契約が満了になるのですッ!!?」  溺愛と、悪阻(ツワリ)ルートは二人がお互いに想いを通じ合わせても終わらない? ◆◇◆ 安心保障のR15設定。 描写の直接的な表現はありませんが、”匂わせ”も気になる吐き悪阻体質の方はご注意ください。 ゆるゆる設定のコメディ要素あり。 つわりに付随する嘔吐表現などが多く含まれます。 ※妊娠に関する内容を含みます。 【2023/07/15/9:00〜07/17/15:00, HOTランキング1位ありがとうございます!】 こちらは小説家になろうでも完結掲載しております(詳細はあとがきにて、)

余命宣告を受けたので私を顧みない家族と婚約者に執着するのをやめることにしました

結城芙由奈 
恋愛
【余命半年―未練を残さず生きようと決めた。】 私には血の繋がらない父と母に妹、そして婚約者がいる。しかしあの人達は私の存在を無視し、空気の様に扱う。唯一の希望であるはずの婚約者も愛らしい妹と恋愛関係にあった。皆に気に入られる為に努力し続けたが、誰も私を気に掛けてはくれない。そんな時、突然下された余命宣告。全てを諦めた私は穏やかな死を迎える為に、家族と婚約者に執着するのをやめる事にした―。 2021年9月26日:小説部門、HOTランキング部門1位になりました。ありがとうございます *「カクヨム」「小説家になろう」にも投稿しています ※2023年8月 書籍化

最愛の側妃だけを愛する旦那様、あなたの愛は要りません

abang
恋愛
私の旦那様は七人の側妃を持つ、巷でも噂の好色王。 後宮はいつでも女の戦いが絶えない。 安心して眠ることもできない後宮に、他の妃の所にばかり通う皇帝である夫。 「どうして、この人を愛していたのかしら?」 ずっと静観していた皇后の心は冷めてしまいう。 それなのに皇帝は急に皇后に興味を向けて……!? 「あの人に興味はありません。勝手になさい!」

殿下、側妃とお幸せに! 正妃をやめたら溺愛されました

まるねこ
恋愛
旧題:お飾り妃になってしまいました 第15回アルファポリス恋愛大賞で奨励賞を頂きました⭐︎読者の皆様お読み頂きありがとうございます! 結婚式1月前に突然告白される。相手は男爵令嬢ですか、婚約破棄ですね。分かりました。えっ?違うの?嫌です。お飾り妃なんてなりたくありません。

一宿一飯の恩義で竜伯爵様に抱かれたら、なぜか監禁されちゃいました!

当麻月菜
恋愛
宮坂 朱音(みやさか あかね)は、電車に跳ねられる寸前に異世界転移した。そして異世界人を保護する役目を担う竜伯爵の元でお世話になることになった。 しかしある日の晩、竜伯爵当主であり、朱音の保護者であり、ひそかに恋心を抱いているデュアロスが瀕死の状態で屋敷に戻ってきた。 彼は強い媚薬を盛られて苦しんでいたのだ。 このまま一晩ナニをしなければ、死んでしまうと知って、朱音は一宿一飯の恩義と、淡い恋心からデュアロスにその身を捧げた。 しかしそこから、なぜだかわからないけれど監禁生活が始まってしまい……。 好きだからこそ身を捧げた異世界女性と、強い覚悟を持って異世界女性を抱いた男が異世界婚をするまでの、しょーもないアレコレですれ違う二人の恋のおはなし。 ※いつもコメントありがとうございます!現在、返信が遅れて申し訳ありません(o*。_。)oペコッ 甘口も辛口もどれもありがたく読ませていただいてます(*´ω`*) ※他のサイトにも重複投稿しています。

記憶喪失になったら、義兄に溺愛されました。

せいめ
恋愛
 婚約者の不貞現場を見た私は、ショックを受けて前世の記憶を思い出す。  そうだ!私は日本のアラサー社畜だった。  前世の記憶が戻って思うのは、こんな婚約者要らないよね!浮気症は治らないだろうし、家族ともそこまで仲良くないから、こんな家にいる必要もないよね。  そうだ!家を出よう。  しかし、二階から逃げようとした私は失敗し、バルコニーから落ちてしまう。  目覚めた私は、今世の記憶がない!あれ?何を悩んでいたんだっけ?何かしようとしていた?  豪華な部屋に沢山のメイド達。そして、カッコいいお兄様。    金持ちの家に生まれて、美少女だなんてラッキー!ふふっ!今世では楽しい人生を送るぞー!  しかし。…婚約者がいたの?しかも、全く愛されてなくて、相手にもされてなかったの?  えっ?私が記憶喪失になった理由?お兄様教えてー!  ご都合主義です。内容も緩いです。  誤字脱字お許しください。  義兄の話が多いです。  閑話も多いです。

仲の良かったはずの婚約者に一年無視され続け、婚約解消を決意しましたが

ゆらゆらぎ
恋愛
エルヴィラ・ランヴァルドは第二王子アランの幼い頃からの婚約者である。仲睦まじいと評判だったふたりは、今では社交界でも有名な冷えきった仲となっていた。 定例であるはずの茶会もなく、婚約者の義務であるはずのファーストダンスも踊らない そんな日々が一年と続いたエルヴィラは遂に解消を決意するが──

処理中です...