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Let Me Fall - 1
しおりを挟む翌々朝、眩しい朝日のプリズムが瞼の上で踊っているのを感じて、オリヴィアは目を覚ました。
カーテンの隙間から漏れる白い日の光が肌寒い朝の寝室を照らしだし、少しずつ空気を温めているところのようだった。本格的な初夏の訪れを待つノースウッドは、今、最も瑞々しい季節を迎えている。
オリヴィアは何度か瞬きを繰り返して光に瞳を慣らすと、ベッドの中で機嫌よく手足を伸ばした。
ころりと寝返りをうって横向きになり、シーツの下の体温の名残りをむさぼりながら、静かに耳を澄ます。
──下階からマギーの声が聞こえてきた。
何か、どこの片付けがなっていないとか、そんな文句を言いながらバタバタと忙しく歩き回っている。さらに耳を澄ますと、わずかながら、エドモンドとローナンの声も聞こえてきた。
(皆、もう起きているのね)
オリヴィアはのろのろと身体を起こし、ベッドサイドに足を下ろして座ると目を閉じた。
そして爽やかな朝の空気を胸いっぱいに吸い込んでから、再び目を開けた。
新しい朝が来た。
さあ、立ち上がって。
空に光があるのが、見えるでしょう。
*
少ししてから、艶やかな黒髪を後ろに結ったオリヴィアが食堂に下りてくると、椅子に座った二人の男は同時に顔を上げて彼女を見つめた。
ローナンは満足そうな笑顔で。
エドモンドは見たこともないような顔をしていた。
にっこりと控えめに微笑んだオリヴィアは、エドモンドの前まで進み出て軽く腰を下げる。
「おはようございます、ノースウッド伯爵。もう具合はいいのですか?」
「ああ」
と、エドモンドの答えは短かったが、彼の視線はずいぶん長い間オリヴィアの全身に張り付いて離れなかった。その正面ではローナンが、いかにも楽しそうに微笑をたたえながら、義姉にたいする賞賛の眼差しを隠そうともしないでいる。
「朝の挨拶よりも先に、まず、君の美しさを称えさせていただいてもいいだろうか」
わざと、かしこまった喋り方をして立ち上がったローナンに、オリヴィアは声を漏らしながら笑った。
「まあ、お優しいのね」
「正直なだけです。さあ、僕の隣にお座りください」
「ありがとう」
クスクス笑いながら騎士と姫のままごとをしている二人を、エドモンドは黙って見ていた。彼は水の入ったゴブレットを手に持っていたが、その指が癇癪でぶるぶると震え始めるのを止められなかった。
確かにオリヴィアは美しかった──。
今朝の彼女のドレスは、大胆に胸が開いた薄いレース作りで、ぴったりと身体に張り付いて魅惑的な線を強調している。動くたびに肢体の揺れがあらわになり、豊かに押し上げられた胸元にいたっては、今にもこぼれ落ちそうだった。
間違いなく、今までオリヴィアが身に付けていた中で、最も色気のある衣装だ。
ローナンがオリヴィアを椅子までエスコートする短い間、少なくとも三回、オリヴィアの胸が弟に触れそうになった。
それはエドモンドの寛容範囲を超えた出来事だった。
まったくもって、許すまじ出来事だった。
「マダム、そのはしたない格好は何だ」
敵を前にうなる野犬のような声で、エドモンドは食ってかかった。「屋敷をうろうろするような格好ではないだろう。裏庭に娼館を開いて客を取るというなら話は別だが」
「いいじゃないか。素敵だよ。うちは女気が足りないからさ、このくらいの方が華やかになっていいだろう?」
オリヴィアに代わって、ローナンが答えた。
オリヴィアは──内心、このままエドモンドの足元にひざまずいて平謝りをして、全てをなかったことにしたい誘惑と戦わなければならなかったが──明るくローナンの言葉に相づちをうった。
「ローナンの言うとおりです、ノースウッド伯爵。お堅いことは言わないでください。今日は朝の仕事が終わったら、私、街に出てみようと思うんです」
「街?」
エドモンドはこれ以上ありえないほど深く眉間に皺を立てた。
オリヴィアは早口に説明する。
「ウッドヴィルです。素敵な仕立て屋があるとローナンに聞きました。天気もいいし、面白そうでしょう? 領地を見て回るのも大切だと思って」
「それと、その布の足りないドレスと、何の関係がある」
「大ありです! 修道女みたいな格好で街に出たくないわ。これは中央で流行っているドレスの形なんです」
オリヴィアは嘘をついた。
正確には、嘘ではなかったが、これは昼間に街へ外出するための種類のドレスではなく、ごく親密な集まりなどに着て行くためのものだ。少なくともそれが姉の説明だった。そう、これは元々姉シェリーの持ち物だったのだが、あまりにレース使いが見事で感心していたところ、衣装もちの姉がオリヴィアにこのドレスを譲ったのだ。オリヴィアが自ら買い求めたりする種類のドレスではない。
それがまさか、こんなところで役に立つとは思ってもみなかったけれど。
「オリヴィア──」
忠告を与えるような低い声でエドモンドに名前を呼ばれた。
オリヴィアはびくっとしたが、多分、それを隠すのに成功したと思う。隣でローナンが支えていてくれたからだ。──ここで怯んでいたら、せっかく演じていた『陽気な女』が台無しになってしまう。
背筋を伸ばし、なんとか、この状況を楽しんでいるような笑顔を作ってエドモンドに向ける。
「街に出てはいけないなんて、仰らないでしょう? 旦那さま」
オリヴィアの問いに、エドモンドは答えなかった。
「大丈夫さ、義姉上。兄上はノースウッドで最も心の広い男だからね。こんな美人の奥さんを手放してもいいと思っているんだ、街に出たくらいで怒ることはないよ。そうだろう?」
代わりに答えたのはローナンだ。
そして、エドモンドは弟の意図を理解した。
彼は兄を試している──挑戦、といってもいいだろう。どこまでエドモンドが我慢できるのかを試して、その限界まで兄をチクチクと刺し続ける気なのだ。
三人は早朝の食堂でしばしお互いを見つめあった。
無言の、緊張に溢れた数分のあと……沈黙を破ったのはエドモンドだった。
「好きにすればいいさ」
*
久しぶりの外出だというのに、オリヴィアの気は滅入るばかりだ。
ジョーが玄関先に馬車を用意しているのをぼんやりと眺めながら、オリヴィアは勝利よりも敗北を感じて肩を落としていた。
──好きにすればいいさ。
投げ捨てるようなエドモンドの声が、何度も何度も繰り返し思い出される。
繊細なレースの重なったドレスに目を落とし、自分の格好を確認した。シェリーが着ていた時はあんなに妖艶でエレガントに見えたドレスなのに、オリヴィアが着るとその十分の一の艶やかさもないように思えた。胸は窮屈ではみ出してしまいそうだし、腰の部分は少し余っている。
持ち衣装の中で一番女性らしいものを選んだつもりだったのに。
少しは、エドモンドに、魅力的だと思ってもらえるかもしれないと思っていたのに。
「義姉さん」
と、後ろからローナンの声がして、オリヴィアは振り返った。
外出着に着替えたハンサムな義理の弟が、玄関から軽快な足取りでこちらへ向かってくるところだった。
落ち込んでいる彼女とは対照的に、ローナンは晴れ晴れしい顔をしている。
「ローナン……残念だけど、あなたの計画は上手くいっていないと思うわ。彼はまったく私に関心を示さなかったもの」
オリヴィアは眉を下げながら言った。
「ところが、僕は大成功だと思ってる。兄さんは今頃、君のことで頭がいっぱいで、たとえ空から大量の牛ガエルが降ってきても気がつかないだろうね」
「あなたがそう思った理由を教えて欲しいわ、ローナン」
「一つ一つ上げていたらきりがないほど教えてあげられるよ、オリヴィア。さあ、まずは馬車に乗って。それにしても、そんなに素敵な服をどこに隠してたんだい?」
最後の質問には答えずに、オリヴィアはエスコートされるまま馬車に近寄った。
オリヴィアを間近にした小姓・ジョーは、急に顔を真っ赤にさせて、あう、あう、と溺れる犬のように喘いだあと、大疾走で厩舎のほうへ逃げていった。
「ほらね」
オリヴィアは諦めの口調で言った。
「ほらね」
ローナンはさも楽しそうに言った。
御者がいるのかと思ったのに、御者台に乗ったのはローナンだった。
「窮屈な馬車の中より、こっちの方が好きなんだ。それに義姉さん、そんな格好のあなたと狭い箱の中で二人きりでいるのは、すごく難しいな」
──まったく、皆して人を疫病のように。
オリヴィアはすっかりつむじを曲げて、むっと唇の先を尖らせながら、一人馬車に乗り込んだ。
今日は街に出るのだ。
ウッドヴィルというノースウッド最大の街を見て、そのあと有名な仕立て屋に連れて行ってくれるというのがローナンの計画だった。
これが一体どうしてエドモンドの心を掴む計画の一環になるのか、オリヴィアにはよく分からなかったが。
一昨日の夜ローナンに言われた通り、最も女らしい服を着て陽気に振舞ったものの、結局、効果のほどは不明だ。
ローナンのことは好きだし、頭の回転の速い人だということもよく分かるし、何よりも彼はエドモンドと人生を共にしてきた弟だ。だから信頼はしている。
でも今回の『計画』とやらだけは、いまいち解せなかった。
しばらく狭い馬車の中で出発を待っていると、ローナンの掛け声が外から聞こえたのを合図に、馬車は少しずつ進みだした。
しかし──まだ玄関から数メートルと離れていない場所で、再びぴたりと止まってしまった。
そしてそのまま動かなくなった。
(なにか不具合があったのかしら……)
そう思って、オリヴィアは少し不安になった。
バレット家には馬車は一台しかないし、その為の馬の数も多くはない。自分とローナンの馬鹿な計画のおかげで馬車を駄目にしたら、エドモンドはきっともっと機嫌を悪くするだろう。
案の定、しばらくすると外からエドモンドとローナンの声が聞こえてきた。
閉ざされた馬車の中からでは、いくら耳を澄ましても言葉の内容までは分からなかったが、何か、言い争っているようなのは感じられた。
オリヴィアは焦った。
このまま中に閉じ篭って、臆病者らしく馬車の隅で小さくなっているべきか。
それとも、勇敢に外へ飛び出し、義弟を弁護するべきだろうか。
(ゆ、勇気を出すのよ、オリヴィア……!)
オリヴィアは臆病者ではない。今日のエドモンドは怖かったけれど、彼から逃げていては元も子もない。
外から響くエドモンドの怒声が大きくなるのを聞いて、オリヴィアはついに馬車の扉に手を掛けて、外へ出ようとした。すると驚いたことに、オリヴィアが押すよりも先に、扉が勝手に大きく開いた。
「きゃあー!」
当然、勢い込んでいたオリヴィアは、そのまま馬車の下へ落ちることになるはずだった。
しかし馬車の扉から落ちるように飛び出してきたオリヴィアを受け止めたのは、エドモンドだった。──扉を開けたのは彼だったのだ。
計らずも、薄いレースの波に包まれただけの柔らかい肢体を抱きかかえることになり、エドモンドは馬車の下で唸り声を上げた。
温かい肌がエドモンドの胸に押し付けられ、甘い香りが鼻腔を刺激する。
「くそ、マダム」
エドモンドは呪いの言葉を吐いた。
「くそ、オリヴィア、この魔女め」
オリヴィアは戸惑って強くもがいたが、エドモンドはそのまま落ちてきたオリヴィアを抱え上げ、足台なしで勢いよく馬車の中に転がり込むと、彼女を長椅子の隅に押し込むように座らせた。
そして扉を勢いよく閉めた。
「ノ、ノースウッド伯爵……」
「出せ、ローナン!」
と、エドモンドは外に向かって怒鳴った。「そしてあなたには、色々なことを覚悟してもらおう……。決めかねているところだ、あなたの首を絞めるのが先か、ローナンか」そう、低く続けて。
馬車は再び動き出した。
小さな箱の中に、癇癪を起こしたエドモンドと、戸惑うオリヴィアの二人を乗せて。
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