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『思慕』
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しおりを挟むその日は蒸し暑く、まだもう少し先になるだろうと思われていた蝉の音が、どこか庭の先から聞こえてくるほどだった。
景はわずかに正座を崩して楽にした格好で縁側に座り、鮮やかに宙を舞う鬼の太刀筋に見惚れながら、時々籠を編む手を休めては心の中で呟いていた。
ええ、退屈なんてするはずがないわね、と。
朝餉の盆を片付けてから部屋に戻った鬼と景は、それぞれがそれぞれのすることを黙々と続けているばかりだった。すなわち、鬼はひとりで刀の稽古をし、景は趣味であり、わずかに家計を助けてもいる竹籠作りに取り組んでいた。
部屋の障子を開けたままに。鬼の目の届くところに常にいるのだと、景はながば命令されたにも関わらず、その結果に十分に満足していた。
鬼の、目の届くところに。
つまり、鬼『が』、目に届くところに。
鬼の稽古は、景がこれまで見たことのある誰の稽古とも違っていた。もはや、同じ単語を使って表現していいとさえ思えない技術の違いだ。
彼が振るう刀は、構えに戻るまでその刃先が目に見えないほどの早さで宙を切った。
よく見る正眼の構えをすることは少なく、下段と言われるような刀の切先を地面に向ける姿勢を取ることが多いのにも気が付いた。それは、無駄に気負うことなく、まるで勝利を確信している猛者の余裕にさえ見えた。
ひと振るいが静寂を切り、さらに次の手が音もなく見えない敵を切り刻む。鬼の足は軽やかに地を蹴り、自在に立ち位置を変えて敵対者を戸惑わせた。
そして、彼の瞳はつねに冷ややかで、まるで能面のように微動だにせず、その洗練された動きの向こうにどんな心が隠されているのか知るのは難しかった。実際の戦いでも、彼はきっとこうなのだろう。彼と戦わなければならない者は、底冷えのする恐怖を味わうと同時に、一種の恍惚とした心境に陥るのではないか。
まさに、鬼だ。
「……っ!」
しなった竹の細棒の先端が、ぼうっと鬼に見惚れていた景の人差指を弾くように切った。
簡単そうに見えて、竹籠作りは熟練と集中力がいる複雑な手仕事だ。景は自身のうっかりさに気付き、恥じ入るように傷ついた指を隠そうとした。
しかし。
相手は鬼だ。
「指を切ったか」
質問ではなく、断定の口調で、鬼はすでに景に向かって歩いてきていた。いったいいつ刀を鞘に戻したのだろう。音も気配もなかったのに、鬼の刀はすでに腰に収まっている。
「す、少しかすっただけです。なんでもありません」
慌ててそう説明しながらも、景は指先に赤いものがつっと滴るのを感じていた。
なぜか、その赤が、あらざるべき鬼への淡い思慕を象徴しているように思えて、景はぎゅっと逆の手で傷のついた指を握りしめて隠した。
見ないで。
気付かないで、と。
しかし鬼は簡単に景の手を取り、あっと声を漏らす間もないうちに、怪我した指を目前にさらした。幅は狭いが、深く切れていたようで、深紅の血がじわりとにじむように膨れ出てくる。
「鬼……ど、の」
景は抵抗するように呟いた。
掴まれた腕が、鬼の視線が、熱い。景の身体の芯が、それこそ鋭利なものに切られたように、じんじんと疼いた。熱い。痛い。息苦しい。
でも、このまま時が止まったらいいとも、思う。
景の唇から憂鬱なため息が漏れたのと同時に、鬼は傷ついた景の指先を口元へ運び、滲み出た血を吸った。
「あ……!」
その時本当に、景の望み通りに、時が止まったような気がした。
ほんの数秒の吸引。口づけでさえない、原始的な治療の行為。それでも、鬼の冷たい唇が景の指先に触れ、彼女の生命の滴りを吸うのだ。これを官能と呼ばないのなら、景はもう、その意味を永遠に知らなくてもいいと思った。
「は……っ、ぁ」
しばらくの間、景は無意識に息を止めていたようで、鬼の唇が指から離れると同時に、切ないため息が再び漏れた。
そして鬼は、必要以上に長くの時間を、景の指先を見つめるのに費やしていた。
すこししてから、
「ここに塗り薬がある」
と、鬼はつぶやき、帯の中に片手を滑り込ませた。出てきたのは、親指の先ほどの小さな漆喰の入れ物で、中にはどこか血の色に似た細かい朱色の粉が入っていた。
それを怪我した指にあてがおうとする鬼に、景は慌てて首を振った。
「鬼殿、いけません。きっと高価なものでしょう。わたしなどに使っては……」
「俺には無用の長物だ。ほかに使ってやりたい相手もいない」
「でも……」
景の抵抗は、やんわりと無視された形になった。
朱色の粉が景の血を拭い取るように塗られると、傷口がじんと沁みる。それが薬の効能なのか、鬼の指に触れられているせいなのか、景にはもう分からなくなっていた。
薬を塗り終わり、もう離れてもいいはずの鬼の手が、まだ景の手を握っている理由も……分からなかった。分からなかったけれど、それで構わないと思う自分が、どこかにいた。
「しばらく、手は休めることだ」
鬼は言った。
景はなんとかうなづいて見せ、かすれた声で慇懃に「かたじけのうございます」と答えた。すると、鬼が心外だとでもいうように片眉を上げたので、景は慌てて、
「ありがとうございます……」
と礼を言い直した。
どうやら、この方が鬼は気に入ったらしい。彼は満足したようにうなづいた。
息がはやる。
鬼は武人で、景は商人の娘でしかないのに。
ここに鬼がいるのは、彼が景の父に雇われたからで、こうして共に過ごせる時間はかりそめでしかないのに。
ああ。
すべて、すべて、分かっているのに、景の想いは時と共にただただ募った。
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