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『思慕』
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しおりを挟む長かった眠れない夜が明けて、やがて朝が来るころになるとやっと、景も浅い眠りに入ることができた。
ふたたび目を覚ますと、太陽はもうだいぶ昇っているようで、東日の当たらない景の部屋もずいぶん明るくなり始めていた。景は何度かまばたきをして、ゆっくりと身を起こして襖の隙から漏れる光に目を向けた。
短い睡眠の間ずっと、うららかに、夢から夢を渡り歩いていた気がする。
現実との境がはっきりしない、曖昧で短い夢をほんの少しだけ覗くように見た。しかしどの夢にも、闇のような瞳をした長身の武士がひとり、景のことをじっと見ていた。
時には身の凍るような冷たい瞳で。
時には近づくだけで火傷をしてしまいそうな熱い瞳で。
その気性はどうあれ、いつでも、いつまでも、彼はじっと景のことを見つめている。
そんな夢を。
(あれは……)
いつのまにか、景は首元に手を当てていた。
よかった、もう痛くはない。それでもわずかにチクリと夏虫に肌を刺されたような感覚が鬼に刀を突きつけられた場所に残っていて、景は昨夜、なにが現実で、なにが夢だったのかをしっかりと思い出した。
(あれはなんだったのかしら……)
景は立ち上がり、朝の身支度を始めながら考えた。
世話をしてくれるはずの下女も、いるにはいる。しかし屋敷の外れのこの場所にいつも顔を出してくれる訳ではなく、わざわざ呼びに行かなければいけないことが多くて、景はいつのまにか自分で自分の世話をするようになっていた。さすがに飯炊きまで自分ですることはなかったが、景はたいていのことはひとりでこなした。
着物を着て髪を結うと、景は部屋の襖を明けて外を見た。
明るみに目を細めると、鬼が庭の先にひとりで立っているのがすぐ視界に入ってきて、景はその場に立ち尽くしたまま息を呑んだ。
鬼は雑草の生えている辺りに立ち、景のほうを静かに見つめている。それが夢の中の鬼と重なって、「鬼」、まるでその名が示す通り、彼はこの世のものならざらぬ存在であるように感じられた。
景は憑かれたように動けなくなり、彼の強烈な眼差しに圧倒されていた。と、同時に、激しく惹かれてもいた。
ああ、これこそまさに、取り憑かれるということなのでは……。
突然現れた妖しい鬼に、心をもぎ取られたのだ。まるで夏の夜に語られる怪談の一編のように、恐れながらも聞き入っては、気が付くと一語一語が耳から離れなくなって、忘れられなくなっていく。まさにそれだ。
鬼は微笑んだりしなかったが、かといって邪険な顔をするわけでもなく、じっと研ぎすまされた視線で景の一挙一動を見つめている。
なぜ、と景の胸は高鳴った。
なぜ、このひとの瞳に心が震えるの。なぜ、このひとはこんなふうにわたしを見つめるの。
なぜ……。
「お、おはようございます、鬼殿」
景はなんとか声を絞り出した。
いったい、鬼は昨夜眠れたのだろうか。眠れたとしたら、どこで、どのように寝たのだろうという疑問はあったが、それを鬼のような男に一々聞くのもまた、不毛に思えた。多分、彼は説明してくれないだろう。
「眠れたのか」
鬼は挨拶を返さなかったが、彼の言葉少なさはあまり不遜な感じがしない。景は微笑んでこくりとうなづいた。
「はい。朝方、少しだけですが、なんとか」
「それでいい」
「朝餉あさげなのですが、台所まで取りにいかなければなりません。ここで少しお待ちいただけますか」
景が断りを入れると、鬼はピクリと眉を動かした……ような気がした。
「下女はいないのか」
「もちろんおります。でも、ここまで毎朝来るわけではないのです。呼ぶのも面倒ですし、いつも自分で取りにいって、ここで食べます」
昔、家族と一緒に朝食をとっていた茶の間は、今はおきくに陣取られている。
行っても延々と嫌味を聞かされるだけなので、景はいつしか、ひとりで部屋で食事を取ることがほとんどになっていた。今ではもう不満にさえ思わなくなっていたが、鬼を前にして、景は少しばつの悪い思いをした。
探るような鬼の視線が、景の全身を這う。
不快に思っても不思議はないくらいの執拗な目なのに、なぜかこのままからめとられ続けていたいような、夢心地に陥った。ああ、景はいよいよ憑かれたのかもしれない。
この美しい鬼に。
「俺はお前を守るためにここにいる」
鬼は静かに宣言した。「朝飯を用意させるためではない。行くのなら、俺も行こう」
「で、でも……お武家さんにそんなことはさせられません」
「ほとんどの武士はお前の家などよりずっと貧しい暮らしをしている。自分の膳くらい、自分で運ぶさ」
でも、と再び開きかけた口を、景は結局つぐむことにした。
鬼は誇り高い人ではあるが、虚栄心というものはほとんどないようである。下士と言っていたし、それほど位の高い家の出ではないのかもしれない。着ている着物は上質のものに思えるし、携帯している刀は間違いなく名人の手によるものであるが……。
どういう人なんだろう。
もっと知りたい。
もちろん、知ったからといって、景の抱くほのかな想いが叶うはずはない。それは分かっている。でも。
「来い」
と、鬼は短く景をうながした。
景に、断れるはずもない。鬼は縁側に上り、景はその横につき、ふたりは静々と廊下を並んで歩いた。
その朝に出された質素な粥の膳を、ふたりは景の部屋で向き合って食べた。
食事中に鬼が喋るということはなく、景もその邪魔をする気にはなれず、部屋はずっと静かなままだった。しかし、居心地の悪さはまったくなく、景にとってこれは初めて男性とふたりきりで顔を突き合わせてする食事であるにも関わらず、違和感はない。
まるで……。
(まるで、夫婦みたい……)
そんな想像に浸ってしまうほど、なぜかしっくりくるものだった。
鬼は不思議なほど音を立てずに粥をかきあげ、食べ終わるとじっと景の様子をうかがっていた。景は、その視線に気付かないふりをしながら、なんとか最後まで食べきった。
椀を膳に戻すと、景は控えめに顔を上げて、鬼の視線を正面から受け止めた。
まるで、鬼はその瞳だけで景を守ってくれているようでさえあった。瞳だけで……これほど景の心臓は逸るのに、鬼のしっとりとした漆黒の髪が、衿からのぞく逞しい首元が、まっすぐに伸びた背筋が、さらに景の体温を熱くした。
「き、今日は……外に出る予定もないので、わたしはほとんどこの部屋にいると思います」
そう言いながら、声が震えているのを悟られないで欲しいと景は願った。
多分、無理であろうけれど。
「ですから、鬼殿はしばらくここを離れていても大丈夫だと思います。正面の庭では、警護のものたちが稽古をしたりしているので、そちらに顔を出されるのも」
そこまで言いかけた景を、鬼は首を振って制した。
「お前がここにいるなら、俺はここにいる。迷惑だろうが、我慢するんだな」
「めっ、迷惑だなんて、滅相もありません。ただ、こんな奥こまった部屋に一日中、鬼殿には退屈だろうと……」
「退屈?」
鬼は景の台詞をさらにもう一度、繰り返した。「退屈」
景は肩を狭めた。「え、ええ……」
「あり得ない」
そう断言した鬼は、おもむろに立ち上がって、開け放たれた部屋の襖の側まで歩くとそこで立ち止まった。日はもう昇っている。鳥の鳴き声がして、青々とした木々が光を浴びて芳香を放ち、庭には蝶が舞っている。
景は鬼の背中に魅入った。
こんなふうに、かき乱された心を抱えながら始まる一日を、景は知らなかった。
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