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『思慕』
06
しおりを挟むあなたこそ、どこかお怪我はありませんでしたか──
そう言って景は鬼の心を覗き込んだ。ありもしない、鬼の心を。
その日の夕方、紫とも橙ともつかない優雅な色の空を背後に、鬼は屋敷の庭園の一角を歩き回っていた。
景の部屋のある一角だ。
広い屋敷の中の奥込まった場所で、ここまでは庭の手入れも行き届いていないらしく、あちこちに雑草が生い茂っている。鬼は静かに周囲を観察していた。
刺客としての鬼は、この立地を歓迎すべきだろう。
なるほど、見つけるのは容易ではないかもしれないが、一度見つけてしまえばこれほど襲いやすい在処はあまりない。
そして、景を警護するべき者としては、鬼はこの立地を呪うと当時に、安心もしていた。
人目に付きにくい分、心置きなく戦うことができる。これは、あくまでも鬼ほどの強さを持った者だけが感じることのできる感覚かもしれなかった。弱い武士は他者が側にいることに安心を見いだす。──鬼は、そうではない。
まだ夏は先だが、コオロギの鳴き声が草影から響いた。
同時に、景の部屋の襖がカタカタと動いて、彼女がそっと顔を出す。鬼はじっとその動作を見守った。
「ここにいらしたのですね、鬼殿」
景の声は柔らかく、もし音に触れることができるとしたら、彼女の声は鳥の羽根のように滑らかなのだろうと想像させられるほどだった。なぜそんなことを思いつくのか、鬼には不可解だったが。
景は部屋から出てくると、雨戸の開いている縁側まで進んで微笑んだ。
「ご一緒してもよろしいですか?」
鬼は答えなかった。
つまり、断りはしなかったのだ。景は赤い下駄を履くと庭へ出てきて、鬼の側まで歩いた。
「ここは暗くて湿っぽい場所なのですけど、この時間だけは少し夕日が当たるので、いつも外に出ることにしているんです。特に晩秋はとても美しいのですよ」
景の言葉を聞いて、鬼は静かにうなづいた。
景の瞳が夕日を映し、その白い肌が橙に照らし出され、秋の終わりの香り高い風に髪をなびかせている姿を想像した。次の晩秋、景はまだ生きているだろうか。
いいや、多分、彼女はもう生きていないだろう。
それが鬼に命を狙われるということだ。
そんなことを思いながら、鬼は無意識に息を潜めていた。景はふと視線を落とし、そしてふたたび夕日に向けて顔を上げた。日に当たる景の頬が赤らんでいるように見えたのは、鬼の思い違いではないだろう。
二人は並んで立ち、そろって夕日を見つめた。
──この日が落ちれば、すぐに夜がくる。
血の匂いがほとばしるようだった。夜、鬼たちは獲物を狩る。鬼は丑三つ時を少し過ぎたころを使うことが多かったが、剣が真夜中を好むのはよく分かっている。
つまり、早ければ今夜、景の命に決着がつく。
どういうわけだろう、鬼は剣と戦うつもりでいた。その前に景を殺めてしまえばいいのに、鬼はまだ待っている。
そして二人で夕日を眺めている。
「父の申し出を引き受けてくださって、ありがとうございました」
夕日を見ながら呟いた景は、なんどか眩しそうに瞳をまたたいていた。
鬼はまたなにも答えずにうなづくだけうなづいた。
景は続ける。
「あと数日なにもなければ、きっと父もあなたのお役を解くと思います。もともとそれほど外には出られませんから、大丈夫でしょう」
しばらくふたりは静かに夕映えの雲を眺めていた。
白が陰りをおび、紫だった影が闇に溶け込むように消えていく。斜陽。今まさに沈もうとしている太陽。
凛とした景の瞳は落日によく映えた。
たしかに景の父は鬼に彼女の警護を頼んだ。そして鬼はそれを受け入れた。しかし、それが気休めであることは誰の目にも明らかだ。この先、本当に景が殺められた場合、少なくとも警護の者を付けていたのだと──景を守ろうと努力はしたのだと──世間に訴えるためだけの。
そして、景はそれを静かに受け入れたのだ。
理由は分からない。あるいは、暴漢が玄人だという話を信じていないのかもしれないが。
「なぜ」
鬼の口は勝手に動いていた。
「なぜ、お前はあの女を憎まない」
「あの女?」
弾かれるように夕日から目を離し、景は鬼を見上げた。
「おきくと言ったか。お前の父にすり寄り、奴を意のままに操ろうとし、お前を屋敷の奥へ追いやった上に、ろくな警護も付けずに刺客の前に転がしておくつもりの女だ」
景は鬼の言葉に驚いた顔を見せたが、しばらくすると意外にも、わずかな笑い声を漏らしながら微笑んだ。
「そういう見方もできるのですね」
「事実だ」
「そうかもしれません。でも、わたしになにが出来るというんでしょう」
切ない微笑みだった。諦めと覚悟の両方が、細められた瞳から伝わってくるような。景のような年の少女には似つかわしくないほど、大人びた表情だった。
景はほんの少し首を傾げて、鬼を見つめる。
まるで鬼を信じきった瞳で、まるで鬼が尊敬に値する一人の男であるような眼差しで、鬼に答えを求めているようだった。鬼の喉が渇く。息をするのが億劫なくらいだった。
こんなふうに見つめられるのは本当に久しぶりで、鬼は身体を固くした。
鬼がまだ人の心を持ったただの少年だったころ。もう、記憶にすらないほど遠い過去の昔、こうした瞳を見ることがあった。相手は近所の少女だったり、母だったりした。
母。
──おケイ、おケイ、おケイ。
「もしあなたがわたしの立場なら、彼女を憎みますか?」
景の穏やかな声に、鬼は記憶の白昼夢から呼び戻され、彼女をもう一度凝視した。景。景姫。その名をどう呼ぼうとも、彼女の瞳には優しさと高貴さが宿っているように見えた。
答えは考えるまでもない。
「俺はだれも憎まない。俺には心がないのだ」
「心が、ない?」
驚いたふうに、景は小さく口を開けて鬼の台詞を反芻する。鬼はうなずきもせずに続けた。
「だれも恨まない。なにも欲しない。だれも愛さない。それが俺だ」
どうして年端もいかない少女にこんな告白をしているのか、鬼には謎だった。そもそも、どうして彼女の横に立って、洛陽を浴びながら言葉を交わしているのかさえ、確かではない。
辺りには誰もいない。
鬼の腰にある刀は、今この瞬間にでも景を切り刻むことができる。そのために鬼はここにいる。
しかし、鬼の手は動かなかった。
そして、もう少し景の声を聞いていたいと思った。
「あなたの心は、きっと、どこか静かな所で眠っているのですね」
景はそれだけ言うと落日に目を移した。しかし、太陽そのものはもう沈みきり、薄紫の余韻が空に低く広がっているだけだ。
夜が来る。
夜が、来ようとしている。
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