鬼景色

泉野ジュール

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『思慕』

04

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 その乳母とやらは、表通りを少し入った寂れた小さい脇道の入り手にある、多くの貧しい町人が共同で暮らしている家にいた。襖だけで仕切られた部屋と部屋に、床は畳もなく、すり切れた茣蓙ござが敷かれているだけだ。

 何日も風呂に入っていない人間の匂いがそこここからした。

 しかし、その乳母本人は小綺麗にしていて、清潔な着物によく櫛の通った白髪を品良く結い上げている。名を千代といい、少女のことを『姫』と呼んだ。少女が、暴漢に襲われそうになり、鬼に助けられたのだという説明をすると、千代は顔を真っ青にした。

「姫さま、それはあの悪女の仕業かもしれませんよ。どうか、どうかお気を付けくださいな」
「お義母さまがそこまでされるかしら……。ただの偶然ということもあります。裕福そうな人間を狙っただけかも」
「いいえ、千代には分かります。あの女が仕掛けたんだわ。あの人の皮を被った化け物ですよ!」

 そして、千代はなんどもなんども口を酸っぱくして「気を付けてください」と繰り返した。
 さらに鬼に向かっては何回も礼を言い、無事に『姫』を屋敷まで送ってくれと懇願した。鬼は黙ってうなづいた。まさか自分が『姫』を殺すために差し向けられた暗殺者だとは、露ほどにも思っていないだろう。


 ふたたび大通りに戻ったふたりは、今度こそ少女の屋敷に向かって歩きはじめた。
「姫」
 と、鬼は少女に問うた。
 少女はほんの少し頬を赤らめ、はにかんだ微笑みを見せた。

「千代が勝手にそう呼ぶだけです。うちは武家ではありませんし、本来ならそう呼ばれるべきではありません。ただ、千代の呼び方がいつのまにか広まって、今でもそう呼んでくる人がいます」

 鬼は少女を見下ろしながら、わずかにうなづいた。

「わたしの名前は景です。それで、景姫、と時々呼ばれます。町人たちは特にそうです」
 そして、少女は問い返すように鬼を見上げた。自分が名乗ったことで、相手も同じように名を教えてくれるだろうと期待しているのが、嫌でも分かる。普通に考えれば、当然そうするべきなのだ。

「俺は、鬼と呼ばれている」
 鬼が平淡な声でそう告げると、景は瞳をまたたいた。
「オニ、ですか」
「ああ。俺を拾った女がそう名付けた」

 景は少し考え込むように、歩きながら下を向いた。鬼には景の考えていることが手に取るように分かった。誰でも同じだ。なんという汚い名を付けられたのかと同情し、同時に、そんな名前を与えられた鬼に軽蔑を向ける。景だって同じだろう。
「なぜ、鬼、ですか?」
「なぜ? さあ。俺のような汚いガキを呼ぶのにちょうどよかったからだろう」
 またはザクロは、少年だった鬼が、ほんものの『鬼』となることを期待したのだ。心のない残忍な殺人鬼。そしてそれは現実となった。

 景はまだなにかを考えているようで、足下を見ながら無言で歩いている。
 彼女がうつむいたときにのぞく、うなじの白さに、鬼は言いようの無い喉の渇きを感じた。白く、柔らかそうな肌には、薄く血管が浮かんでいる。

 殺すのは簡単だった。
 この細い首は、それこそ血など流させなくても、鬼の力であっけなく折ってしまうことができる。できる、はずだ。今、この瞬間にでも。
 鬼がきつく手を握り、無意識に拳を作った……そのとき。

「鬼とは、必ずしも悪いものを指すだけではないのだと思います」
 ふいに景がそう言った。
 鬼の心臓はなぜか飛ぶように強く肋骨を打った。なぜか、理由のない緊張が鬼を包む。しかし、それを知らない景は、足下から顔を上げて無邪気に鬼を見上げた。
「悪鬼という言葉があります。悪い鬼、です。つまり、悪くない鬼もいるという意味ではありませんか」
 鬼は無言で唾をごくりと飲んだ。
 景は続ける。

「猛々しい者や勇猛である者にも、鬼という言葉を使いませんか。鬼将軍などと呼ばれる人がいるのを知っています。あまり親しみの湧く呼び名ではありませんが、畏怖と尊敬を意味しているのだと思います」

 景は優しく鬼を見つめ、ほがらかに微笑んでいた。
 その瞳は、無理をしてお世辞を言おうとしている者のそれではなく、本当にそう思っているからそう言っただけという無邪気さがあった。
 いつのまにか、鬼の足はぴたりと止まっていた。それに気付いた景も、合わせて立ち止まる。

「どうしました?」
 鬼は答えなかった。答えが、なかったからだ。

 いまさらながら、鬼はじっと景の姿形を見下ろした。『たいした別嬪さんなんだ』とザクロは言った。別嬪という言葉がこの少女を表すのに適しているのかどうかは分からない。そう呼ぶにはまだ少し幼い、咲き誇る前の花のつぼみのような時期。まだ、誰かが守ってやらなければならない小娘。

「お前の父親はなにをしている」
 出し抜けに、鬼はうなっていた。
 なぜか鬼は、急激に深い怒りのようなものを感じていた。一体どこの誰が、なんの理由でこの少女の命を奪おうとしているのだ、と。鬼はそれこそ、その依頼人の首をひねってやりたい気分だった。

 鬼は暗殺者だった。その身も、魂も、すべて、完全に。

 人を殺すことに躊躇したことはなかった。いつだって一切の心を挟まずに相手を一撃した。それはそもそも鬼が心を持たなかったからだが、もしたとえ鬼に心があったとしても、ザクロが選んでくる標的はほとんど同情の余地のない連中ばかりだった。

 それが、今度はなんだ。

 依頼自体が鬼と剣の両方に振り分けられるという例外に加え、景はザクロが殺しを受け持ちたがるような悪人ではない。たとえどれだけ金を積まれても、ザクロは道義を踏み外さなかった。今までは。
 それはつまりザクロが心を変えたか、そうでなければ鬼の目が狂っていて、本来の景は鬼の与える残酷な死に値する悪人だということだ。そんなことがありえるだろうか?

 だからこそ、ザクロは鬼にも剣にも依頼を渡したのだろうか?

 なぜかその考えは、鬼の心臓のあたりのどこか深いところを、ぐっと鷲掴みにして痛みを与えた……この少女には近づかない方がいいのかもしれない。このままひと思いに殺してしまうべきなのかもしれない。

 景は、鬼の沈黙をなにかの批判ととったのか、緊張した顔を見せた。
「父は家具の商人をしています。忙しい人で……ごめんなさい、本来なら、あなたを煩わせるべきではありませんね」
 家具。
 ケイ。
 鬼はさらに低いうなり声を漏らしたが、今度は景には聞こえなかったようだ。

「屋敷についたら、あなたにお礼金をお渡しします。父なら出してくれるはずです。その後は、もし必要なら、警護の者を雇ってくれるでしょう。これ以上あなたにご迷惑はおかけしませんから、今だけお許しください」

 今だけ。
 どれだけ自身の言葉が的を射ているか、景は気付いていないだろう。そう、景にはもう今だけしかない。その今さえも、鬼の気まぐれによって存在するだけなのだ。

 鬼はこれからこの少女を殺す。
 なぜか、剣にその役を渡すわけにはいかないと、鬼は決心していた。そして来るべきそのときは、できるだけ静かに、痛みのないようにしてやるべきだと、鬼は誓った。

「今だけだ」
 鬼は呟いていた。
 そして安心したように景がうなづくのを見て、鬼は無意識に強く拳を握っていた。

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