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本編

夏はよる // ある夏の夜、すべてを失うことで始まる彼の物語

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 夏はよる。
 月の頃はさらなり── 『枕草子』 清少納言





 これは私の手記であり、ある救いの記録であり、一人の馬鹿な男がいくつかの真実を学んでいく過程の物語である。
 私の名前はウィリアム・エドワード・ボストン二世。
 誰もがその名から想像するような容姿と、性格と、雰囲気と、財産を持っている男だった。
 すなわち、流れるダークブロンドの髪に飾られた逞しい長身、彫りの深い端正な顔に浮かぶ氷のような濃青の瞳──ミケランジェロの彫刻がいつのまにか息を吹き返し、高級ブランドのスーツを着崩しながら、アメリカ東部でフェラーリを乗り回している様を想像するといい。
 それが私だった。そう、私はアメリカ人でもある。

 私には全てがあった。
 貪欲な人間が手に入れたいと思う全てのものが、私にはあった。
 両親が残した膨大な財産、恵まれた容姿、若さ、誰もがうらやむ名声、群がる女たち。そのどれもが今の私にはなく、また、取り返したいとも思わない。
 今の私にあるのは、もっと平凡なもので、そう珍しくはないはずだ。

 これは、私がその「平凡なもの」を手に入れる物語である。それで宜しければ読み進んでいただこう。
 そう、始める前にもう一つ……。
 これは何よりも、私と彼女のラブストーリーであることを記しておこうか。





 あれはウィンブルドンの直後だった。
 当時の私の一年は、春夏秋冬ではなく、四つのグランドスラム・トーナメントによって区切られていたから、こういう覚え方をしている。ウィンブルドンは六月の終わりから七月の初めに英国で行われるテニスの世界四大大会の一つであり、私はプレイヤーだったのだ。
 私のキャリア最高の時だ──二十三歳にして世界ランキング30入りを果たしており、前途洋洋という言葉の代表者として、世界の舞台に立っている時でもあった。
 テニス界の貴公子。
 そんな通り名を持つ、愚かな若者だった。

「せっかく遠征から帰ってきたばかりなのに、ウィル、全然家にいないのね」
 派手なシャツで着飾り、夜の街へ繰り出そうとしていた私の背中に、エリーが話しかけてきた。
 エリー……重い黒縁めがねをかけた、小枝のように細い、まだ高校在学中の私の義妹だ。私は舌打ちをしながら答えた。
「家にいる理由がないのだから、当然だろう」
「でも、」
 エリーは寂しげに肩を落とした。
 その仕草が、ガリガリで女性らしさに欠けた彼女のシルエットを余計に際立たせる。ヴィクトリア王朝風の、何ヘクタールだったかも思い出せない豪邸の入り口に立つ義妹は、まったくその場に不釣合いで、間違えて薔薇園に咲いてしまったダンデライオン(たんぽぽ)を思わせた。
 私はこの義妹を軽蔑していた。
 ──ほかの全ての人間を軽蔑しているのと、同じように。
「勝手にするさ。私はお前のように地味で湿った人間ではないんだ」
 あの頃の私は、人の心を痛めつける台詞を好んで使っていた、といえる。
 この時もそうだ。
 傷付いた表情を浮かべる父の再婚相手の娘を見て、私はどこか優越感を覚えていた。エリーはブルネットで、緩くカールした長い髪をいつも後ろで一つに束ねている、地味なタイプだった。こんな彼女は特に、私の毒舌の標的となりやすい。
 去り際、私はエリーに向かって更に暴言を吐いた。
「お前も、鬱陶しく家に篭ってばかりいないで、死んだ母親を見習ったらどうだ? 着飾って派手な化粧をして億万長者にすり寄ればいい。そうしてさっさと出て行くがいいさ。今のお前は、私の慈悲でここに住んでいるだけなんだ」
 そうして玄関を出て行く私に、エリーは何も言い返してこなかったし、私も彼女を振り返らなかった。


 私の父──ウィリアム・E・ボストンは、私がかつてそうだったような、大阿呆だった。
 息子に二世を名乗らせるほどの阿呆だというだけで、大概は理解出来るだろう。傲慢で自己中心的で、取り柄といえば金儲けの才だけの男だった。
 何をどう勘違いしたのか、己をカサノバだとでも思い込んでいたのだろう、私の母という妻がいながら、古今東西、上は熟女から下は学生まで実に幅広いバラエティーの女性たちを、妾や愛人として囲っていた。そんなだったから当然、私の母はずいぶんと早くに夭折し、続いて再婚したのが、愛人たちの中で最も美しかったエリーの母だったという訳だ。おまけにその数年後、別荘地へ向かう自家用小型ジェット機を運転中、雪山に衝突して新妻と共に事故死だ。
 実にお粗末な人生の終焉だった。
 後に残ったのは、私と、新妻の連れ子だったエリーと、莫大な遺産だ。

 しかし私は、父のことを笑えない。
 父以上に「お粗末な人生の終焉」 を、迎えるところだったのだ。──いや、半分は迎えていた、といえるだろう。詳しくは以下の通りである。


 その夜──流行のクラブに滑り込むと、早速、キャリーという女が豊かな肉体を存分に誇示しながら、私の腕に絡んできた。
「こんばんわ、ウィル。私、この二週間、ずっと貴方のことを見ていたわ」
 キャリー……何、だったか。ラストネームは覚えていない。長身ブロンドに甘い百万ドルスマイルの、典型的なドールズ・フェイスだったことだけは記憶にある。
 けたたましい音楽が鳴り響くホール。
 闇の中で踊り狂う男女、アルコールの香り。
 当時、私は夜な夜な、特に遠征の前後、こういった場所で時間を潰し、適当な女性を見つけては欲望を解放してきていたのだ。
 キャリーは、すっ、と妖艶な仕草でもって、赤いマニキュアに飾られた指を私の胸にはわせた。
「素敵だったわ、ラケットを握り汗を流す貴方……。でもね、いつ、向こうの女に貴方をとられるんじゃないかとヒヤヒヤしてたの」
 這い上がってくる色気と、欲望。豊満な肢体。
 ──そうだ、女はこうでなくちゃならない。違うか? 私は胸の上をなぞるキャリーの手を強く握り、彼女の耳元にささやいた。
「じゃあ、今夜はその鬱憤を晴らしてみるかい?」
「予定は空いているの? ハンサムなテニスプレイヤーさん」
 物欲しげに咽を鳴らしながら、聞いてくるキャリー。
「空けるさ、君の為なら」
 私は答えた。

 ここで勘違いしないで頂きたい。
 キャリー某は、私の恋人ではなかった。私は特定の恋人というものを持たなかったし、決まった一人の異性に対して特別な感情を長く持つことを、あまりしなかった。もちろん同性に対しても然りである。
 当時の私の異性交遊関係は、父のそれより更に酷かった。
 少なくとも父は、関係を持った女性にそれ相当の金品やステータスを与えて寵愛していたが、私は彼女らを使い捨てのトイレットペーパー同様に扱っていたのだ。

 私は傲慢で自己中心的で、取り柄といえば、母から受け継いだ高貴な容姿と、ラケットを振り回す才能だけの男だった。

 さて、私とキャリー某は、クラブの隅の小さなボックス席を陣取り、お互いの身体を絡ませながら下らない会話を続けていた。
 テニス界の貴公子が、ブロンド美女と前戯よろしくくねり合っていれば、薄暗いホールでも自然と目立とうというものだ。キャリーの座を狙う女は一人や二人ではなく、好奇の目はそこここから降り注がれていた。多分、キャリーはそういった羨望の視線を受けるのを楽しむ種類の女でもあったのだろう。注目されればされるほど、彼女は執拗に私の身体にまとわりついた。
「ねえ」
 キャリーが囁く。
「あそこにいる、ショートボブの、黒いトップを来た女が見えるかしら」
 示された方に顔を向けると、確かにそんな女がいた。
「ああ、それが?」
「ずっと私達の方を見てるの……物欲しそうなメスの顔をしてね。きっと貴方に気があるのよ!」
 そんな、誰が見ても一目で分かりそうなことを、キャリーはまるで世紀の発見をしたかのように得意げに言った。
 そのショートボブの女はといえば、一人でカウンターに寄りかかっていて、私たちの座る席を凝視している。全体像を見ればそれほど美人というわけではなかったが、瞳は大きく輝いていて、それだけが妙に目を惹く女だった。
 私は、彼女の正体を知っていた。
 前回の遠征の前に何度か、関係を持った女性だ。
 つまり、少し前に使ったトイレットペーパーというわけだ。

 私たちの視線を受けたショートボブの女は、決心したように顔を引き締め、つかつかと歩み寄ってくると、私たちの目の前に立ち塞がり、こう言った。
「少し、ウィリアムをお借りしてもいいかしら、お嬢ちゃん」
「それは私ではなくて、ウィルが決める事よ」
 キャリーが鼻を鳴らす。
 確かに、誰の目から見てもキャリーの方がずっと魅力的であったが。
「じゃあウィリアム、貴方に聞くわ。少し時間をもらえるかしら? 話したいことがあるの」
「生憎、私には話すことなどないが」
「きっと忘れているだけよ……少しだけでいいわ、私と一緒に外へ出て」

 ──あの時、女の言葉を無視していれば、私の人生は違ったものになっていただろうか。
 それとも、遅かれ早かれ、似たようなことになっていただろうか。
 あの恐ろしく空虚な四年間を思えば、この時の己の軽率な行動を後悔する。しかし、『もし何もなかったら』と思うと、それはそれでまた恐ろしいのだ。

 とにかく私はこの時、愚かにも、ショートボブの女について外に出た。
 何故と問われると明確な答えはないが……もしかしたら、あの大きな瞳に一瞬、欲望を突き動かされたのかもしれない。
 クラブから外へ出ると、私たちは建物の奥の薄暗い細路地へ向かった。
 壁越しにクラブ内の雑音が漏れてくる他は、比較的静かな落ち着いた場所で、荷物搬入用の扉から時々従業員の行き来はあるものの、ほぼプライベートな空間だ。
 女はすぐに私に縋ってきた。
「私たち、とても情熱的な夜を過ごしたわ……ねぇ、そうでしょう……?」
 陽気なキャリーとは違う、小悪魔のような声で。
 私は女を見下ろし、女は私を見上げていた。愚かな女。――そう思いながら冷めた瞳を向ける私に、さらに同情を求めるような台詞を続ける女だ。
「あの夜、私たちは確かに愛し合ったわ……そうでしょう? ずっと、貴方が帰ってくるのを待っていたわ。夫とは別れる。もう話はしてあるの。私は貴方のものよ。だから、もう、変なお遊びはやめて……」
 私の冷酷な視線──アイスブルーの瞳に見下ろされてもなお、女は真実に気付かないでいた。
 いや、震える声から察するに、薄々気付いてはいるのだろう。
 しかし引き返せないところまで来てしまったのか。夫と話はしてある? 私は、この女が既婚者だったことさえ知らなかったし、気にならなかったし、そもそも名前さえうろ覚えだ。
 私は静かに切り出した。
「何を勘違いしているのか知らないが──私に、誰かを愛した覚えはない」
 私の十八番だ。
 冷酷に、人を、傷、つける。
「一度や二度の情事で、つけあがるのはやめて貰おう。私のものになるのは結構だが、私は誰のものにもならない」
「ウィル……」
「なにかお楽しみでもあるのかと思って来てみたが……そんなつまらない話しかないなら、戻らせてもらう。キャリーがいたくご立腹だったからね」
「ウィル!」
 女は蒼白になっていた。
 そして、踵を返そうとした私の胸へ無理に飛び込んできて、「嘘よ、嘘よ……」と繰り返しながら、泣きじゃくり始める。
「嘘でしょう……? あの夜、私たちは確かに……」
「嘘ではない。私はこんな男だ……さっさと夫とやらの所へ戻るんだ」
「嫌っ!」
 女は金切り声を上げた。
 私はといえば、そんな女を哀れむでもなく、愛しく思うでもなく、鬱陶しく思うでもなく……どこか他人事のように、遠くから眺めているだけのような感覚で、ぼんやりと見下ろしていた。
 ──どうすれば。
 一体、どうすれば、こんな風に無様に泣きながら人に縋れるほど、人を想うことが出来るというのだろう?
 私には到底理解のしようがなかった。私にとって人とは、自分自身も含め、涙一粒にも値しない無価値なものでしかなかったのだ。
「私は戻るよ。君は、好きにするといい」
 そう言って、女の腕を振り解こうとした時だった。
 急に、男の不気味な叫びが背後から聞こえたのは。同時に、わき腹に、焼印を押されたような衝撃が走ったのは。

 女は悲鳴を上げた。
 私を背後から襲った男は、狂ったように私に対する呪いの言葉を叫び続けながら、ナイフを振り下ろし続けた。
「畜生! この屑が! 俺の妻を!」
 私は背後から刺されていた。
 相手は女の夫で、彼女を尾行して来ていたのだろう。海老のように背を反らしながら悶絶する私を、男はさらに罵倒し続け、そして私の背を文字通り滅多刺しにしたのだ。
「どうして……っ、どうしてこんな屑に……俺の妻が……!」
 どうして?
 そんな事は私が知りたい。私のような人間の欠陥品に、どうして神は、これほどの物々を与えたもうていたのか。
 どうしてあれほどの女たちが私に群がっていたのか。
 どうして?
 私は確かに疑問に思っていた。
 ただし、己が死のうとしていることに対しての疑問は、ただの一度も浮かんでこなかった。私はまぎれのない阿呆であったが、刺し殺されても文句は言えない屑男だと、その程度の理解はあったのだ。ただ、刺されるという肉体的な痛みだけが苦しく──それでいて、生に対する未練は微塵も浮かばない。
 楽になる時がきたとさえ……思っていた。
 女は悲鳴を上げ続けていたが、私を庇おうとはしなかった。つまり、しょせん私は、その程度の男だったというわけだ。

 地面に倒れたとき、見えたのは、建物の隙間からのぞく細い夜空の断片だった。
 月が見えた。
 私は血だらけで、虫の息で、ぼろきれのようにだらしなく、コンクリートの上に投げ出されていた。
 しかし月が見えた。
 夏の夜、月が、輝いていた。

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