Bright Dawn

泉野ジュール

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Chapter Twenty Two

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 なんとか大階段を駆け下り、大広間の入り口にさしかかると、ネルはいいようのない不安に息が苦しくなってきていた。
 嫌な予感がする。
 どうか、どうか、ただの思い過ごしでありますように。

「ああ……マダム! どうしたんだい? 誰か、早くエドの旦那を呼んできておくれ!」

 マギーの声のする方向へ、ネルは慎重に進んだ。
 大広間の奥、食堂に入る手前の暖炉のそばから声が聞こえた気がする。ネルが近づくと、マギーははっと息を飲んで黙りこくった。もしかしたら、ネルはきちんと彼女の方を向いていないのかもしれない。
「どうしたの、マギー。オリヴィアになにかあったの?」

 ネルの声は震えた。こんな単純な質問で混乱しているマギーを煩わせるのは心苦しかった……しかし、もし目の前でオリヴィアが血まみれで倒れていたとしても、ネルには見えないのだ。

「急に倒れちまったんだよ……! 顔は真っ青だし、ひどく痙攣してる。息も上がっていておかしい……」

 すっかり平静さを失ったマギーがしどろもどろに説明していると、突然イザベラの泣き声が彼女の腕の中から上がった。助けを求めるような、痛切で激しい嗚咽。きっとイザベラは、愛する母になにか異変が起こったことを幼いなりに嗅ぎ取ったのだ。

「イザベラはわたしに渡してちょうだい。マギー、あなたはオリヴィアを助けて、ノースウッド伯爵を呼んで」

 ネルは、イザベラを受け取るために泣き声のする方へ両手を伸ばした。
 マギーはほんのすこし躊躇したのかもしれないが、ネルがもうすでに何度もイザベラを抱いていることをすぐに思い出したようだ。甘い母乳の香りのするふっくらとした赤ん坊が、ネルの腕に渡される。
 ネルは幼子を守るようにぎゅっと抱きかかえた。

「イザベラ……」
 ネルの足元からすこし離れた床から、オリヴィアのかすれた声が聞こえてきた。
 イザベラを抱いたまま、ネルはすぐさま床に膝を折って上半身を屈めた。
「オリヴィア、どうしたの? イザベラならここよ、大丈夫よ」

 ──ああ、オリヴィアにはきちんと赤ん坊が見えているだろうか?

 マギーは彼女が痙攣していると言った。視界が朦朧としてきちんと目が見えないこともあり得る。
 そしてネルは、愛しい者を見ることができない不安と苦しみを、誰よりもよく理解している。
「イザベラはわたしの腕の中にいるわ。きちんとしがみついていて、元気よ。泣いているけど、びっくりしているだけなのよ」
 するとオリヴィアは、ええ、と切ない安堵の声を、切れ切れの呼吸の合間に漏らした。
「その子を……守って……ね」
「もちろんよ! すぐにノースウッド伯爵がいらっしゃるわ。なにも心配しなくていいのよ。だからお願い、頑張って」

 すでに周囲に人が集まってくる声と物音がしてきた。
 特に、まるで地鳴りのような激しい足音がものすごい速さでこちらに向かってくるのが分かり、ネルは思わずその人物のために横にのいて道を開けた。

「オリヴィア」
 ノースウッド伯爵エドモンド・バレット卿の声を聞いた時、ネルはそれだけで、心臓に爪を立てられたような痛みを感じずにはいられなかった。
 エドモンドはすぐにオリヴィアの前にひざまずき、彼女を抱き上げたようだった。

 ドレスの布ずれの音。
 荒く乱れたオリヴィアの呼吸。
 エドモンドの痛切なささやき。

「許さない、オリヴィア、わたしを置いていくなど……。絶対に許さない」
 普段は男らしい成熟した低い声が、恐怖に震えて弱々しく響く。ネルは赤ん坊を抱く手にさらに熱を込めた。エドモンドの慟哭から察するに、オリヴィアの容態はかなりひどいものであるらしい。
 今朝はあんなに元気だったのに。
 ロチェスターを懲らしめてやると言って、この明るくて可愛らしい伯爵夫人は溌剌としていた。

 そう思い出した時、ネルは背筋を雷に打たれたような衝撃に襲われた。
 ──まさか。

 エドモンドは妻を抱きかかえ、柔らかいベッドと暖かい暖炉のある二階へと嵐のような勢いで消えていってしまった。
 集まってきた使用人たちも、慌てながら伯爵夫妻の後に続き、散り散りになっていった。ネルはまだぐずっているイザベラとともにその場に取り残され、呆然と立ち尽くすことになった。
 ──まさか。

 そばでは暖炉で炎がはぜっていて、ぱちぱちと不規則に弾けては大広場の一角をなんとか温めていた。しかし、ネルの背筋は冷たくなっていった。
 混乱が去ったためか、イザベラは次第に落ち着きを取り戻し、腕の中でネルのドレスの襟を引っ張って遊ぼうとしている。ネルは身体を揺らし、赤ん坊をあやしていたが、胸の中でざわつく嵐を静めることはできなかった。

「だう、だーう」
 というようなイザベラの声が、ネルを呼んで自分に関心を向けようと頑張っている。ネルはなんとか微笑んで見せた。
「大丈夫よ、お姫様。あなたのお母様が元気になるまでの間、しばらく叔母さんと遊んでいましょうね」

 もう少し温もりが欲しくて、ネルは暖炉があるはずの方向へ数歩、足を運んだ。すると靴の先端が柔らかくて厚みのあるなにかに触れた。
 イザベラを床に寝かす時、オリヴィアがよく使っている綿を詰めた敷物だ。もしかしたらオリヴィアは倒れる前、ここでイザベラをあやしていたのかもしれない。
 ネルは片手で周囲を探り、障害物がないのを確認すると床に座って、イザベラを敷物の上にゆっくりと寝かせた。
 イザベラはこの敷物の上で足をばたつかせたりして遊ぶのが好きだとオリヴィアはよく言っていたし、ネルも実際に、そんなイザベラと戯れたことが何度かある。幸い、イザベラはまだ這うことができないので、目の見えないネルでも相手がしやすいのだ。
 いつもどおりのお気に入りの敷物の上に置かれて、イザベラは機嫌よく手足を動かしているようだった。

「いい子ね、イザベラ」
「だー、だだー」
 まるで礼を言っているような赤子の返答に、ネルはいつの間にか顔をほころばせた。

 一体なにがオリヴィアの身に起こったのだろう。
 もしネルに目が見えたら、もっとよくその症状を確認することができたのに。しかしネルに分かったのは、マギーの言っていた「真っ青で、ひどく痙攣している」ことと、苦しげな荒い息遣いのことだけだ。

(でも、似てるわ……)
 その昔、一度、ネルもまったく同じような症状に襲われたことがある。
 ひどい動悸がして、息をするのが痛いくらい心臓が脈打ち、呼吸が難しくなる……目の前が真っ白になったり真っ青になったりして、立っていられなくなる。そのすべてが突然起こったのだ。
 原因は……。

 カタン、と何かの家具に人がぶつかる音と、ヒタヒタという陰鬱な足音が近づいてきて、ネルは背筋を伸ばした。悪寒がして、身体中に鳥肌が立った。
 振り返って確認する必要はない。
 ネルには見えないし、今度ばかりは見る必要もなかった。心の底から憎悪が湧き上がってきて、怒りに肩が震える。
「ロチェスター……あなたね」
 ネルは手探りでイザベラの位置を確認しながら、彼に背を向けたままそう呟いた。
 ロチェスターの足音が、ネル達からそう遠くない場所まで来てから、ぴたりと止まる。

「お前は頭がおかしくなったんじゃないのか。この屋敷は狂人の集まりだ。みんなしてこの僕を馬鹿にしやがって……僕を誰だと思っている。僕はクレイモア伯爵──」
「クレイモア伯爵ロチェスター・マクファーレン卿。もう耳が痛くなるほど聞かされたわ。でも、だからなんだっていうの? 気が狂っているのはあなたよ、ロチェスター」
 ネルの反抗に、ロチェスターはふんと鼻を鳴らして答えた。
「なんて野蛮な連中なんだ。こんな家に嫁いでみろ、今に連中に食い物にされるぞ。毎日朝から晩まで働かされ、爵位もない男の慰め者にされる」
 眉を吊り上げ、ネルはれっきとして憎むべき男を振り返った。

「爵位のある男の慰め者になるのと、一体何が違うというの? それに、ローナンはわたしを愛してくれているわ。彼は高潔で、賢くて優しくて……爵位以外になにもないあなたとは大違いなのよ」

 ロチェスターが深く息を吸うのがわかった。
 きっと顔を真っ赤にして、怒り心頭に発し、か弱げな青白い拳をわなわなと震わせていることだろう。そういう時の彼は本当に醜い。見えなくてよかったと思えるほどだ。
 しばらく、ロチェスターは黙りこくった。
 ネルの胸にふつふつと怒りが湧いてくる。バレット家の人達を悪く言われるのは我慢ならなかった。

「オリヴィアが……ノースウッド伯爵夫人が倒れたわ」
 ネルが抑えた声でそう言っても、ロチェスターは黙っていた。

「急に痙攣を起こして、真っ青になって息苦しくなったそうよ。わたしも同じ症状に襲われたことがあるわ、ロチェスター。そして、あれが誰のせいだったか、よく覚えているのよ」

 ネルは颯爽と立ち上がり、ロチェスターに対峙すると彼をにらみつけた。もしくは、少なくとも、ロチェスターが立っていると思える方向をにらんだ。
 人を馬鹿にしたような短い鼻息が聞こえてくる。

「だとしても、お前みたいな盲目に、なにが証明できるっていうんだ? ええ?」
「やっぱりあなたなのね!」
 ネルは抑えた声を上げ、憎悪のあまり硬く握った両手を小刻みに震わせた。

 ネルがまだ社交界に初めて顔を出し始めた頃、両親に連れられてクレイモアの屋敷に連れてこられたことがあった……。
 知らなかった外の世界を覚え始め、どんどん美しくなり、すでに求愛者さえ現れだしていたネルに、田舎屋敷に引っ込んだまま出てくる勇気のないロチェスターは激しく嫉妬したのだ。ネルも、まだ若くて、ロチェスターには軽蔑さえ感じていたから、滞在中ずっと彼を冷たくあしらっていた。
 すると、帰ろうとする日の朝、ロチェスターはネルの紅茶に毒を混ぜたのだ。

「あの時はお母様がすぐに気が付いて、あなたから解毒剤を奪い取ったわ」

 正確には、毒ではなく、心臓の弱い人が強心剤として使用する薬草の一種だった。しかし健康な人間が口にすれば、激しい動悸に襲われ、長く放っておけば最悪の場合……死に至ることもある。
 結局、ロチェスターは小心者で、ネルを殺すだけの勇気は持ち合わせていなかったから、叔母に問い沙汰されるとあっけなく解毒剤を手渡した。ただ少しネルを懲らしめ、彼女が苦しむ様を見てみたかっただけなのだ。
 ロチェスターはそういう男だ。

「なぜオリヴィアなの? 苦しめたければ、わたしにすればいいんだわ! さあ、今すぐ解毒剤を出して!」

 ネルは片手を前に突き出した。
 しかし、もちろん、ロチェスターはそう簡単にはネルの思い通りにはならなかった。

「声を上げない方がいいぞ、ネル。もし僕が解毒剤を渡さなかったら、あのうるさい女はそのうち死ぬんだからな……この天気じゃ、他に薬草なんて探しに行けないだろう?」

 ロチェスターの足音が近づいてきた。
 ネルは、思わず後ずさりそうになる臆病な足を、必死で叱咤してその場に踏みとどまった。必要なら、見えない目で彼に飛びかかり、身体中引っ掻いて血まみれにしてやる覚悟でさえいた。
 ロチェスターはネルの目の前で足を止めた。

「できればお前に盛ってやりたかったさ。でも、あの野蛮な連中はなかなかお前に近づかせてくれなかったんで、この案を思いついたのさ」

 くくく、という、耳がぞわりとするような含み笑いが聞こえる。

「実際、うまくいっただろう? 愚かなことに、ノースウッド伯爵は奥方に心底惚れているようだから、今お前が騒ぎ立てても気にも留めないはずだ。他の使用人も大混乱で、次男坊の盲目の愛人のことなど、綺麗に忘れている」

 ロチェスターは、ネルを怯えさせようとしているだけだ。それは分かっていても、この男の言葉には少なくない真実が含まれているのも、また事実だった。
 今、ネルが助けを求めて、来てくれる人がいるだろうか?
 それに、ロチェスター以外から解毒剤を手に入れるのが困難なのも本当だ。もしこの男を怒らせて、解毒剤を燃やされでもしたら、オリヴィアの命が危ない。
 でも。

「なにが欲しいの、ロチェスター」
 悔し涙が溢れそうになって、ネルは強く拳を握りなおした。「わたしを脅しても無駄よ。この家の人たちを甘く見ないほうがいいわ。すぐに気がついて、あなたを八つ裂きにしてしまうはずよ」

「バレやしないさ。なぜなら、お前は今すぐ僕とともにクレイモアの屋敷へ帰るんだから」
「そんな馬鹿な!」
「そうすれば解毒剤を渡してやろう。お前の大事なこの屋敷の奥方は、それで命を永らえるというわけだ」
 ロチェスターの横暴に我慢ならなくなって、ネルの声は裏返りそうになった。
「大声を出すわ。ノースウッド伯爵が、あなたには想像もつかないような『野蛮な』手段で、解毒剤を奪ってくれるわ」
「それはどうかな」
 逆に、ロチェスターの声は嫌味なほど落ち着いている。

 ネルは悔しさに息苦しくなり、肩で息をしなければ落ち着けなかった。狂人なのはこの男だ。どうして、どうして、こんな男が残された唯一の血縁なんだろう。

「なあ、ネル。お前は目が見えない……。子供を育てることができないんだよ。だから、お前の言っている次男坊とやらは、すぐにお前に落胆するさ」

 いきなり凍りつきかけた水を浴びさせられたように、ネルの全身が冷めていった。
 ネルのもっとも恐れていることを、ロチェスターに指摘されて。
 ネルでは、ローナンを幸せにできないかもしれない。ローナンに愛する家族を授けてあげられないかもしれない。迷惑をかけるだけの存在になってしまうかもしれない……。

「そ……そんなことは、ないわ。彼は……彼とは、助け合って……」
「そうかい。じゃあ、今、お前の足元で起きていることをどう説明するんだ?」
「え……」
 足元?
 ネルは蒼白になっていった。足元。ネルの足元にもイザベラがいるはず。
 イザベラ。

「赤ん坊というのは、昨日できなかったことが、今日できるようになっていたりするもののようだな」

 まさか!
 ネルは素早く屈み込み、イザベラを寝かせていた敷物に手を触れた。いない。温もりこそ残っているものの、あの柔らかくて暖かい肢体を見つけることはできなかった。
「ロチェスター! イザベラはどこにいるの!? 彼女になにをしたの!」
 悲鳴に似た声を上げながら、ネルは顔を上げた。
 そんな。そんな。イザベラ、わたしのお姫様。許さない。彼女を傷つけでもしたら、どんな者でも絶対に許さない。
「僕はなにもしてないさ……」
 ロチェスターの声は笑っていた。
「勝手に自分で転がっているだけさ。でも、すぐ近くでは暖炉が燃えている」
「!」

 暖炉の炎。たとえ火に直接触れることがなくても、周囲は高温になっている。赤ん坊の繊細な肌など、簡単に一生消えないような火傷ができてしまう。
 なんてことだ。
 イザベラを傷つけてしまうのはロチェスターではない。ネルなのだ。ネルが見えないから……。

「イザベラを助けて!」
 相手が誰なのかも忘れて、ネルは懇願していた。
 誰でもいい、イザベラを助けてくれるなら誰でも。なにを犠牲にしても。

「俺とともに今すぐ来ると約束するなら、赤ん坊も助けるし、解毒剤も渡そう。それですべては丸く収まる」
「行くわ! 行くから、お願いだからイザベラを助けてちょうだい!」
 ネルが叫ぶと、ロチェスターは……きっと、残忍な笑いを顔に浮かべていたはずだ。しかし、そんなことはどうでもよかった。

 ロチェスターがネルの前を横切る気配がして、しばらくすると、イザベラが「うー、うー」となにかに抵抗するような唸り声を上げだした。
 きっと、ロチェスターに抱き上げられて、それが嫌で逆らおうとしているのだろう。
 ネルは大粒の涙をこぼした。

 夢が……ローナンが見せてくれた幸せな夢が、終わろうとしているのを感じた。
 ごめんなさい。
 ごめんなさい。
 わたしを許して。そして、どうか忘れて。幸せになって。

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