21 / 27
Chapter Twenty One
しおりを挟むバレット家の人々は有言実行だった。
当初、ロチェスターに対し「けちょんけちょん」にしてしまうだの、「客人には容赦しない」だのと言っていたのは、ネルを安心させるための大袈裟な表現だと思っていたのだ。それが、これといった誇張ではなかったことを理解するのに、大した時間はかからなかった。
ロチェスターが現れた翌日の朝、バレット家の食卓はこれから戰におもむく中世の騎士の城のように、爛々と熱気づいていた。
「あのろくでなしは、まだ降りてこんのか」
珍しく早起きして食堂に出てきたピートが、そう文句を言いながら席に着いた。ネルには見えないけれど、いかにも鼻をひくつかせながら指をわさわさと動かし、罠にはまってくる獲物を待っている肉食獣の顔をしているのが想像できる。
「ああいう貧弱な男はどうにも好かん。横っ面を張り倒してやったら、どんな顔をしおるかな。さぞかし見ものだろう」
「わたしだったらネズミを服の中に忍ばせてやるわ。きっと悲鳴をあげて慌てふためくはずよ」
普段はピートと喧嘩腰の多いオリヴィアも、今朝は一切反論しないで、彼に加勢していた。
女中頭のマギーが、なにか強烈な匂いのする鍋をどんと勢いよく食卓の上に置いた。
「さあ、ご注文のスープだよ! いったい、誰が朝からこれを食べるんだい?」
答える代わりにオリヴィアはくすくすと笑い声を漏らし、隣の席に座るネルに、そっと耳打ちをした。
「あれはマギー特製の滋養スープなの。わたしが初めてノースウッドに嫁入りしてきた時、何も知らずに食べさせられたわ。あまりに酷くて、口の中に入れただけで星を見たんだから」
「そんなものを、ど、どうするつもりなの?」
「もちろんお客様に出すのよ!」
オリヴィアの声は嬉々としていた。
普段ならこんな時、ローナンが持ち前のウェットと冷静さでなにか気の利いたことを言って、すっかり好戦的になっている皆を落ち着かせたりするのだろう。しかし彼は不在で、だからこそロチェスターは招かれざる客なのだ。
とはいえ、ロチェスターはいつまでたっても起きてこなかったので、その凄まじい匂いのするスープはいつまでも食卓の真ん中を陣取ったまま鎮座していた。
バレット家の朝は早い。
使用人達だけでなく、主人であるノースウッド伯爵に伯爵夫人であるオリヴィア、そして通常はローナンも、早くから起きてきてあれこれと仕事を始める。
普通の貴族なら小作人や従僕に任せるような仕事も、彼らは率先して行っていた。厩舎にいる馬や、家庭菜園の世話、そしてもちろんイザベラの面倒……。
ネルもそんな彼らを手伝いたくて、ローナンに頼んで何度か一緒に厩舎に連れて行ってもらったりした。そして、それを心から楽しんでいた。
もちろん、ネルは昔から、贅沢ばかりしている貴族ではなかった。一家は堅実ではあったが特に裕福というわけではなく、従者であるジョージと料理人が一人いるだけで、ネルだってたびたび料理や掃除の家事を手伝ったものだ。
だから、バレット家の人々の働きぶりは、憧れや好意を抱きさえすれ、わずらわしく思ったことなど一切ない。ただ、ネルに目が見えたなら、もっと協力することができたのにと悔しく思うだけだ。
ロチェスターは違う。
この蒼白でちっぽけな伯爵は、労働と名のつくものには絶対に手を染めなかった。実際、ネルは、もし食料庫にたっぷりの食材が置いてあっても、それを調理して銀のカトラリーの出揃った食卓で給仕してくれる使用人がいなければ、ロチェスターは飢え死にするのではないかと踏んでいる。
彼が自分でできるのは酒瓶の蓋をあけることくらいだ。
ほんの二週間前まで、ネルはそのロチェスターの名ばかりの妻……そして彼の哀れな慰め者になるであろう絶望の中にいたのだ。
それが、今はこうして、ローナンの帰りを待っている。
そして彼と結婚するのだ……。優しくて、働き者で、賢くて、最高の夫となるであろうひじょうに魅力的な、緑の瞳の偉丈夫。ネルを心から愛してくれて、まるでネルが彼の女王であるかのように振舞ってくれる、得難き人。
おまけに、彼の家族はネルのためにロチェスターと戦おうとしてくれている。
彼らにとって、利点など何一つないはずなのに。
だからネルは、なにがあってもローナンと、彼の家族を守ることを心に誓った。ロチェスターはどうにかして彼らに対抗しようとするかもしれない……しかし、絶対にさせてはならない。
彼らがネルを守ってくれているように、ネルも彼らを守らなくては。
そして時は経ち、ネルはジョージに連れられて、自室へ戻っていた。
実際には、ジョージはまだ片足を石膏で固められたままで、杖をついて歩いているので、どちらかといえばネルがジョージを助けながら歩いているような格好だったけれど。
とにかく、オリヴィアの取り計らいで、ネルはロチェスターに顔を合わせる必要がないように遠ざけられているらしかった。ロチェスターが食事を求めて降りてくる頃合を見計らって、なんだかんだと厄介払いさせられてしまったのだ。
「ネリーお嬢さんは優しいから」
ネルをベッドの端まで案内して座らせると、ジョージは自らもそのすぐ隣にどっかりと腰を下ろした。
「いくらろくでなしとはいえ、親族であるロチェスター坊ちゃんがいじめられるところを見るのは、気が進まないでしょう」
ネルは肩をすくめた。
「わたしには見えないのよ、ジョージ」
「おっと、失礼しました。つまりね、その場に居合わせればなにが起こってるかは分かっちまうでしょう、という意味でね」
「いいのよ。分かってるわ」
ネルはほんの少しうつむき、いつもそうしているように、全身を耳にして周囲の音に聞き入った。
外は雪嵐なのだろうか……。
窓枠がカタカタと寒さに抵抗するように揺れている。鳥のさえずりや馬のいななきはまったく聞こえない。つまり、生き物が外を動き回れるような天候ではないのだ。それはそのまま、ローナンも身動きが取れないでいるだろうということになる。
ジョージも同じことを考えているらしかった。
「この天気では、ローナンの旦那もなかなか帰ってこられないかもしれませんね」
「ええ……」
「ネリーお嬢さん、負けちゃいけませんぜ。旦那の帰りを待つと約束したんでしょう。ここまで自らやって来るくらいですから、ロチェスター坊ちゃんはなにかを企んでいるのかもしれやせんが、心配するこたぁねえんです」
ネルがロチェスターの本性を知っているように、長年マクファーレン家に仕えてきたジョージだって、ロチェスターをよく分かっている。
あの男は狡猾で、卑怯者だ。
いつだってそうだった。いまさらそれが変わることもないだろう。
ネルはまっすぐ前に向き直り、ローナンの優しい声と、見たこともない彼の美しい姿を想像して、ジョージの言葉にうなづいた。
ネルはそのまま一人で、自室で裁縫をして過ごしていた。
昼になると、しばらく席を外していたジョージが戻ってきて、今のうちに食堂で昼食を取ろうと迎えに来た。
「ロチェスターの坊ちゃんは、ノースウッド伯爵に連れられて屋敷の離れを見学中で、いませんから」
ジョージの声は、まるで笑いを必死で抑えようとしているかのように震えていた。裁縫道具をきちんと決まった場所に戻したネルは、ため息をつきながら首を振った。
「バレット家の人たちは、ずいぶんとロチェスターを歓迎しているのね」
「そうですとも!」
ネルの皮肉に、ジョージは拍手喝采でもしそうな勢いで、答えた。
「ノースウッド伯爵のような迫力のある大の男に、ロチェスター坊ちゃんが敵うはずないじゃないですか。それに、あの嫌味な老ぼれ執事も、人を怒らせるのだけは上手いですからね。坊ちゃんは今にも頭から煙を吹きそうになっていますよ」
くっくっという従者の含み笑いに、思わずネルも顔をほころばせてしまった。
たとえロチェスターでなくても、バレット兄弟に敵うような男は少ないだろう。そして老ピートの毒舌と尊大な態度は、田舎の屋敷でぬくぬくと甘やかされて育ったロチェスターには、まったく免疫がないもののはずだ。
なにもかもが思い通りにいかなくて、すっかり憤怒しているロチェスターの図を想像するのは、少し胸がスッとした。
それと同時に、わずかな不安を感じもしたけれど……。
ネルは立ち上がり、ジョージについて食堂での昼食に向かった。
そして、裁縫以外にできることがほとんどないまま時が過ぎ、夕方頃になるとネルは心に重い靄がかかっているような苛立ちを感じ始めていた。
いつまで経ってもこうして一人隔離されている状況からして、彼らは上手くロチェスターを手玉に取っているのだろう。それはそれでありがたい……けれど、このままローナンが帰ってくるまでこうしてロチェスターをネルから遠ざけておいて、それでどうなるのだろう。
彼らはロチェスターを、傲慢で我儘だがひ弱な小男だとしか思っていない。
それ自体は間違いでもなんでもないのだが、ロチェスターにはもっと残忍な一面がある……。彼は、欲しいものがあれば、どんな卑怯な手段もいとわない毒蛇のような男なのだ。
ジョージは遅めの昼寝を取るために自室に引っ込んでしまったので、ネルはここに一人で、今の正確な時刻は分からない。でも、部屋がわずかに冷え込んできて、そろそろ夜が近づいているのではないかと予想できた。
(私が、きちんと言うべきなんだわ)
針が刺さったままの布を膝に置き、ネルは口を引き結びながら前を向いた。
(私がロチェスターを追い出さなくちゃ……彼が、なにか、恐ろしいことを考えつく前に)
心が決まると、ネルは慎重に裁縫道具を決まった場所に戻し、すっと立ち上がった。
そして部屋を後にして、下階のサロンに向かおうと廊下に足を踏み出したとき、遠くからマギーの悲鳴が屋敷中に響いた。
「マダム! マダム! ああ、一体どうしちまったんだい!?」
女中頭は興奮しながら何度もオリヴィアを呼んでいた。
ネルは蒼白になった。
なにが起こったのか分からない……でも、きっととても良くないことが起こったのだということだけは分かった。震える足と混乱する頭で、なんとか必死に歩数を数えながら、ネルは暗闇の中をよたよたと駆けていった。
10
お気に入りに追加
60
あなたにおすすめの小説
一宿一飯の恩義で竜伯爵様に抱かれたら、なぜか監禁されちゃいました!
当麻月菜
恋愛
宮坂 朱音(みやさか あかね)は、電車に跳ねられる寸前に異世界転移した。そして異世界人を保護する役目を担う竜伯爵の元でお世話になることになった。
しかしある日の晩、竜伯爵当主であり、朱音の保護者であり、ひそかに恋心を抱いているデュアロスが瀕死の状態で屋敷に戻ってきた。
彼は強い媚薬を盛られて苦しんでいたのだ。
このまま一晩ナニをしなければ、死んでしまうと知って、朱音は一宿一飯の恩義と、淡い恋心からデュアロスにその身を捧げた。
しかしそこから、なぜだかわからないけれど監禁生活が始まってしまい……。
好きだからこそ身を捧げた異世界女性と、強い覚悟を持って異世界女性を抱いた男が異世界婚をするまでの、しょーもないアレコレですれ違う二人の恋のおはなし。
※いつもコメントありがとうございます!現在、返信が遅れて申し訳ありません(o*。_。)oペコッ 甘口も辛口もどれもありがたく読ませていただいてます(*´ω`*)
※他のサイトにも重複投稿しています。
後宮の棘
香月みまり
キャラ文芸
蔑ろにされ婚期をのがした25歳皇女がついに輿入り!相手は敵国の禁軍将軍。冷めた姫vs堅物男のチグハグな夫婦は帝国内の騒乱に巻き込まれていく。
☆完結しました☆
スピンオフ「孤児が皇后陛下と呼ばれるまで」の進捗と合わせて番外編を不定期に公開していきます。
第13回ファンタジー大賞特別賞受賞!
ありがとうございました!!
溺愛ダーリンと逆シークレットベビー
葉月とに
恋愛
同棲している婚約者のモラハラに悩む優月は、ある日、通院している病院で大学時代の同級生の頼久と再会する。
立派な社会人となっていた彼に見惚れる優月だったが、彼は一児の父になっていた。しかも優月との子どもを一人で育てるシングルファザー。
優月はモラハラから抜け出すことができるのか、そして子どもっていったいどういうことなのか!?
5年も苦しんだのだから、もうスッキリ幸せになってもいいですよね?
gacchi
恋愛
13歳の学園入学時から5年、第一王子と婚約しているミレーヌは王子妃教育に疲れていた。好きでもない王子のために苦労する意味ってあるんでしょうか。
そんなミレーヌに王子は新しい恋人を連れて
「婚約解消してくれる?優しいミレーヌなら許してくれるよね?」
もう私、こんな婚約者忘れてスッキリ幸せになってもいいですよね?
3/5 1章完結しました。おまけの後、2章になります。
4/4 完結しました。奨励賞受賞ありがとうございました。
1章が書籍になりました。
最愛の側妃だけを愛する旦那様、あなたの愛は要りません
abang
恋愛
私の旦那様は七人の側妃を持つ、巷でも噂の好色王。
後宮はいつでも女の戦いが絶えない。
安心して眠ることもできない後宮に、他の妃の所にばかり通う皇帝である夫。
「どうして、この人を愛していたのかしら?」
ずっと静観していた皇后の心は冷めてしまいう。
それなのに皇帝は急に皇后に興味を向けて……!?
「あの人に興味はありません。勝手になさい!」
【完結】神から貰ったスキルが強すぎなので、異世界で楽しく生活します!
桜もふ
恋愛
神の『ある行動』のせいで死んだらしい。私の人生を奪った神様に便利なスキルを貰い、転生した異世界で使えるチートの魔法が強すぎて楽しくて便利なの。でもね、ここは異世界。地球のように安全で自由な世界ではない、魔物やモンスターが襲って来る危険な世界……。
「生きたければ魔物やモンスターを倒せ!!」倒さなければ自分が死ぬ世界だからだ。
異世界で過ごす中で仲間ができ、時には可愛がられながら魔物を倒し、食料確保をし、この世界での生活を楽しく生き抜いて行こうと思います。
初めはファンタジー要素が多いが、中盤あたりから恋愛に入ります!!
嫁ぎ先の旦那様に溺愛されています。
なつめ猫
恋愛
宮内(みやうち)莉緒(りお)は、3年生の始業式まであと一か月という所で、夜逃げをした父親の莫大な負債を背負ってしまい、婚約者と語る高槻総司という男の元で働く事になってしまう。
借金返済の為に、神社での住み込みの仕事として巫女をやらされることになるが、それは神社の神主である高槻(たかつき)総司(そうじ)の表向きの婚約者としての立場も含まれていたのであった。
神殺しのご令嬢、殺した神に取り憑かれる。
山法師
恋愛
十二歳の時に悪魔に呪いをかけられた少女、シェリー。その呪いは『誰からも愛されない呪い』であり、呪いを解くには『神殺し』をしなければならないと、呪いをかけた悪魔自らに告げられる。
呪いを解く決意をしたシェリーは七年後、神と接触し、その心臓に剣を突き刺すことに成功した。けれど。
「なんで! 呪いが解けるどころか! 私に取り憑くとかそういうことになるワケ?!」
「しょうがないだろう、なってしまったものは」
呪いを解くのに失敗した上に、殺したその神と一定以上離れられない。加えて、中途半端に殺されたせいで、神としての本来の力が出せないと、殺した神に言われてしまう。
「どうにかならないの?!」
「俺だってこのような状況は望んでいない。が、どうしようもない。受け入れろ」
そしてシェリーは、殺した神に取り憑かれたまま、生活を送ることになった。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる