Bright Dawn

泉野ジュール

文字の大きさ
上 下
20 / 27

Chapter Twenty

しおりを挟む

 盲目となったネルの聴覚は、失われた視力を補おうとするかのように冴えていたから、真夜中の訪問者がたてる騒音を容易に聞きつけることができた。

 馬車が玄関に着く音。
 続いて玄関の扉が開き、来訪者の足音が響く。

 ネルの心臓は跳ね上がった。
 もしかしたら、ローナンかもしれない。真冬の真夜中に馬車を走らせるような馬鹿はしないと手紙にはあったが、もしかしたら、なにか奇跡のようなものが起きて、駆け戻ってきてくれたのかもしれない……。
 希望は膨れ上がり、ネルはベッドから上半身を起こしてさらに耳を澄ました。
 もしローナンなら、きっとすぐにネルの部屋にきてくれる。凍りつくほど冷たくなった外套もそのままに、髪を振り乱して、ほおを紅潮させて、ネルの元まで素早く駆け上がってきてくれる。

 きっと二人は強く抱き合い、熱い口づけを交わして、どれだけ寂しかったかを互いに途切れもなく伝え合う。
 きっと……。

 しかし、いくら待ってみても、その時は訪れなかった。
 ネルは相変わらずベッドの上で一人で、はやる鼓動を持て余しながら、息を潜めてたたずんでいる。気がつくと、冷え切った部屋の寒さにぶるりと背筋が震えた。
(下に……降りてみるべきなのかしら)
 オリヴィアが言っていた、ロチェスターがここに向かっているという話が、早駆けをする馬の蹄の音のように重く脳裏に鳴り響いた。
 もしかして、ロチェスターが。
 あの狡猾な蛇のような男が、ネルを捕らえにやって来たのだとしたら。

 ネルはさらに悪寒を感じて身を震わせたが、黙ってベッドの上で一人あれこれと怯えているのは、もう限界だった。
 ロチェスターがたどり着いたのなら、ネルは彼と対峙しなければならない。
 ここまで良くしてくれたバレット家の人達に、これ以上の迷惑を掛けるわけにはいかなかった。ネルは盲目であるが、それを理由に人としての義務を放棄するのだけは嫌だ。

 行かなくては。戦わなくては。
 ローナンのために。



 そして、慎重に階段を降りたネルの耳に飛び込んできたのは、当然のように……ローナンの声ではなく、興奮に声を荒げたロチェスターの叫びと、それに反論するノースウッド伯爵の苛ついた語気だった。

「ロチェスター……」
 ネルは思わずつぶやいていた。
 見えなくても、ロチェスターとノースウッド伯爵がネルを振り返り、注目しているのが、ひしひしと感じられる。ネルは身体を硬くし、両手をぎゅっと握りしめて、なんと言うべきか必死に考えを巡らせたが、答えはなかなか出てこなかった。
 そして、おもむろに一歩前に出ようとしたとき、パタパタという小股な足音がネルのもとに近づいてきた。
 顔を上げようとすると、その瞬間、肌を叩く乾いた音が夜の静けさに沈んでいた屋敷に、痛烈に響いた。

「この役立たずのあばずれが! 僕に恥をかかせやがって!」

 ジンジンとほおが痛むのを感じて、ネルはやっと叩かれたのだということを自覚していった。しかし、痛かったのは叩かれた肌ではなく、ロチェスターの残忍な罵り言葉の方だ。
「まともに旅もできないくせに、男を誘惑することだけはできるんだな? はっ! 叔父さんも叔母さんも天国でさぞ悔やんでいるだろう。それとも、わずらわしい娘とはもう関わり合わずにすむと、肩をなで下ろしているかな?」

 子供の頃から、ロチェスターは嫌な声をしていた。
 しかも、その声でつむがれるのは嫌味ばかりで、辛辣で、家族同士の集まりでどうしても顔を合わせなくてはいけないとき、ネルはいつも必死で彼を避けていた。
 あの頃のように彼を無視できたらどんなにいいだろう……。しかし、今ネルは、この意地の悪い従兄弟からバレット家を守らなければならない。負けているわけにはいかなかった。
 ネルはつんと鼻をそびやかし、服従はありえないのだということを示して見せた。

「いくら毒づいても、あなたはなにも得られないわ、ロチェスター」
 真っ赤になって、耳から蒸気を噴き出さんばかりに興奮したロチェスターの顔が、嫌でも想像できる。
「わたしとローナン……伯爵の弟君とは、もう結ばれたの。わたし達は結婚するわ。あなたにできることはなにもないのよ」
「な……っ」
「お願いだから帰ってちょうだい。これ以上、この家の人達に迷惑をかけないで」

 居間の入り口はまだ寒々としていて、ネルは震えないようにするのに、気を強く持たなければならなかった。ロチェスターが次にどんな言葉の暴力を振るってくるのか、身構えなくてはならない。
 ──売春婦。ふしだらな女。尻軽。盲目の役立たず。
 しかし、ロチェスターは一瞬だけぐっと息を呑んだと思うと、ひどく冷たく冷静な声で、ゆっくりと告げた。

「迷惑をかけているという自覚は、あるんだな……」

 その台詞は、ぐさりと音を立ててネルの心に突き刺さった。
「あなたには……関係ないわ」
 と、反論はしたが、臆病にも声が震えて、威厳を保てていたとはいいがたい。
 いつだってネルが心の奥底で恐れているのは、彼女のような「お荷物」と結婚したら、ローナンには一生迷惑をかけ続けてしまうかもしれないということだった。
 今は愛があっても、いつか、厳しい現実の前にそれは薄らいでいってしまうかもしれない。そうしたら、ローナンに待っているのは落胆と、厄介者の妻だけだ。
「帰って」
 ネルはつぶやいたが、ロチェスターはおろか、自分自身にさえよく聞こえないような弱々しい声音だった。

 しかし、
「見過ごせないな、クレイモア伯爵」
 すぐに、エドモンドのまがまがしい声が、重い足音とともに近づいてきた。
「──わたしの屋敷の客人に手を上げるとは、許しがたき屈辱。今すぐ彼女から離れるんだ。次はない」
 続いて、ロチェスターの「痛い痛い痛い!!」という悲鳴と、ゴキっというあってはならないような嫌な音が聞こえてくる。ネルはハッと息を飲んで背を反らせた。
 ロチェスターは泣きながら、やれ乱暴者だとか、野蛮人だとか、そんなののしり言葉を必死になって吐き続けている。

 ネルがバレット家の屋敷に着いてからこのかた、ノースウッド伯爵エドモンドはいつだって冷静で、どちらかといえば物静かで、暴力とは無縁の存在に思えていた。
 ──思えていた、だけだったのだろうか。

「このまま外に放り出してしまいたいところだが……」
 エドモンドは情け容赦ない口調で、ロチェスターの泣き言を無視した。
「お前が未来の義理の妹の血縁であることは変えがたい。部屋は用意するが、あまりねんごろな待遇は期待しないでいただこう。そして、次に彼女に手を上げてみろ。お前のその大事な首が、胴体にくっついている保証はもうない」

 これには、さすがのロチェスターもついに黙り込み、なにかモゴモゴと聞き取れない文句をつぶやいていた。
 見えないけれど、恨めしげに睨まれているのは容易に想像できる。
 最初の決心はしぼみ始め、ネルは泣き出したいような気分になってきた。こんなふうで、一体どうやって、ローナンが帰ってくるまで心を強く持ち続けることができるのだろう。
 一体どうやって……。

「よく言った、エドモンド! 客人には手加減をしないというのが、バレット家の家訓じゃ。さぁ坊主、さっさと腐ったその尻を上げて、部屋へ行くがいい!」

 ピートのしわがれた怒声に、ネルはびっくりして辺りを見回した。
 すっかり気を落としていて、周囲の雑音に耳を傾けるのを忘れていた。いつのまにか、何人かの人に囲まれている物音がする。その中には、「なーぅ」というような、赤ん坊の甘い声まで含まれていた。
 イザベラ。

「まあ、なんてことなの! ひどいわ!」
 オリヴィアが早足でネルのそばに駆け寄ってきた。
 ロチェスターにひっぱたかれた頬に、オリヴィアの柔らかくてひんやりとした手が重なる。同時にイザベラの甘やかな匂いが、ふわりとネルの鼻腔を包んだ。
「打たれたのね? 赤くなってるわ……早く薬を塗りましょう。ああ、湿布をしたほうがいいかしら?」
 いいのよ、オリヴィア、とネルは言おうとしたが、言葉が喉に詰まって出てきてくれなかった。
 慌てふためきながらネルの頬を世話しようとするオリヴィアを横目に、あうあう、というようなイザベラの声が、無邪気にネルをなぐさめようとしている。

 今の今までなんとか我慢できていた涙が、はらりと細く、ネルの頬を伝って落ちていった。

「これで本当にはっきりしたわね。たとえローナンのことがなくても、あの腐ったほうれん草の葉のような男に、あなたを渡すことはできないわ。見て、大丈夫よ、今にうちの男たちが、彼をけちょんけちょんに料理してしまうから!」
 オリヴィアが頼もしげに言った。

 笑っていいのか、泣いていいのかよくわからず、ネルはその両方を同時にしていた……と思う。遠くでは、確かに、ロチェスターが困惑の悲鳴を上げながらどこかへ担ぎ出されているのが『聞こえ』る。
 ──うらぶれた北の領地、ノースウッド。
 そこに住む人々は、ネルに愛を与え、安全を保障し、未来を約束してくれた。
 ネルは泣きながら「ありがとう」とオリヴィアに伝えた。たとえどんなに破天荒でも、どれだけ無謀な人たちでも、彼らはネルにとってかけがえのない家族だ。
 オリヴィアは再び、いいのよ、と優しくつぶやいた。

「もうすぐローナンも帰ってくるわ……。だから、泣かないで」

 どれだけ、どれだけ、それが真実になったらいいと願っただろう。
 たとえ、失われた視力を返してくれるといわれても、ネルはローナンの安全な帰還と、それを交換することはない。

 ──早く帰ってきて。
 そして、二人でまた朝日を見つめましょう。

しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

5年も苦しんだのだから、もうスッキリ幸せになってもいいですよね?

gacchi
恋愛
13歳の学園入学時から5年、第一王子と婚約しているミレーヌは王子妃教育に疲れていた。好きでもない王子のために苦労する意味ってあるんでしょうか。 そんなミレーヌに王子は新しい恋人を連れて 「婚約解消してくれる?優しいミレーヌなら許してくれるよね?」 もう私、こんな婚約者忘れてスッキリ幸せになってもいいですよね? 3/5 1章完結しました。おまけの後、2章になります。 4/4 完結しました。奨励賞受賞ありがとうございました。 1章が書籍になりました。

幼妻は、白い結婚を解消して国王陛下に溺愛される。

秋月乃衣
恋愛
旧題:幼妻の白い結婚 13歳のエリーゼは、侯爵家嫡男のアランの元へ嫁ぐが、幼いエリーゼに夫は見向きもせずに初夜すら愛人と過ごす。 歩み寄りは一切なく月日が流れ、夫婦仲は冷え切ったまま、相変わらず夫は愛人に夢中だった。 そしてエリーゼは大人へと成長していく。 ※近いうちに婚約期間の様子や、結婚後の事も書く予定です。 小説家になろう様にも掲載しています。

無関係だった私があなたの子どもを生んだ訳

キムラましゅろう
恋愛
わたし、ハノン=ルーセル(22)は術式を基に魔法で薬を 精製する魔法薬剤師。 地方都市ハイレンで西方騎士団の専属薬剤師として勤めている。 そんなわたしには命よりも大切な一人息子のルシアン(3)がいた。 そしてわたしはシングルマザーだ。 ルシアンの父親はたった一夜の思い出にと抱かれた相手、 フェリックス=ワイズ(23)。 彼は何を隠そうわたしの命の恩人だった。侯爵家の次男であり、 栄誉ある近衛騎士でもある彼には2人の婚約者候補がいた。 わたし?わたしはもちろん全くの無関係な部外者。 そんなわたしがなぜ彼の子を密かに生んだのか……それは絶対に 知られてはいけないわたしだけの秘密なのだ。 向こうはわたしの事なんて知らないし、あの夜の事だって覚えているのかもわからない。だからこのまま息子と二人、 穏やかに暮らしていけると思ったのに……!? いつもながらの完全ご都合主義、 完全ノーリアリティーのお話です。 性描写はありませんがそれを匂わすワードは出てきます。 苦手な方はご注意ください。 小説家になろうさんの方でも同時に投稿します。

婚約破棄された検品令嬢ですが、冷酷辺境伯の子を身籠りました。 でも本当はお優しい方で毎日幸せです

青空あかな
恋愛
旧題:「荷物検査など誰でもできる」と婚約破棄された検品令嬢ですが、極悪非道な辺境伯の子を身籠りました。でも本当はお優しい方で毎日心が癒されています チェック男爵家長女のキュリティは、貴重な闇魔法の解呪師として王宮で荷物検査の仕事をしていた。 しかし、ある日突然婚約破棄されてしまう。 婚約者である伯爵家嫡男から、キュリティの義妹が好きになったと言われたのだ。 さらには、婚約者の権力によって検査係の仕事まで義妹に奪われる。 失意の中、キュリティは辺境へ向かうと、極悪非道と噂される辺境伯が魔法実験を行っていた。 目立たず通り過ぎようとしたが、魔法事故が起きて辺境伯の子を身ごもってしまう。 二人は形式上の夫婦となるが、辺境伯は存外優しい人でキュリティは温かい日々に心を癒されていく。 一方、義妹は仕事でミスばかり。 闇魔法を解呪することはおろか見破ることさえできない。 挙句の果てには、闇魔法に呪われた荷物を王宮内に入れてしまう――。 ※おかげさまでHOTランキング1位になりました! ありがとうございます! ※ノベマ!様で短編版を掲載中でございます。

どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします

文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。 夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。 エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。 「ゲルハルトさま、愛しています」 ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。 「エレーヌ、俺はあなたが憎い」 エレーヌは凍り付いた。

旦那様は大変忙しいお方なのです

あねもね
恋愛
レオナルド・サルヴェール侯爵と政略結婚することになった私、リゼット・クレージュ。 しかし、その当人が結婚式に現れません。 侍従長が言うことには「旦那様は大変忙しいお方なのです」 呆気にとられたものの、こらえつつ、いざ侯爵家で生活することになっても、お目にかかれない。 相変わらず侍従長のお言葉は「旦那様は大変忙しいお方なのです」のみ。 我慢の限界が――来ました。 そちらがその気ならこちらにも考えがあります。 さあ。腕が鳴りますよ! ※視点がころころ変わります。 ※※2021年10月1日、HOTランキング1位となりました。お読みいただいている皆様方、誠にありがとうございます。

【完結】ここって天国?いいえBLの世界に転生しました

三園 七詩
恋愛
麻衣子はBL大好きの腐りかけのオタク、ある日道路を渡っていた綺麗な猫が車に引かれそうになっているのを助けるために命を落とした。 助けたその猫はなんと神様で麻衣子を望む異世界へと転生してくれると言う…チートでも溺愛でも悪役令嬢でも望むままに…しかし麻衣子にはどれもピンと来ない…どうせならBLの世界でじっくりと生でそれを拝みたい… 神様はそんな麻衣子の願いを叶えてBLの世界へと転生させてくれた! しかもその世界は生前、麻衣子が買ったばかりのゲームの世界にそっくりだった! 攻略対象の兄と弟を持ち、王子の婚約者のマリーとして生まれ変わった。 ゲームの世界なら王子と兄、弟やヒロイン(男)がイチャイチャするはずなのになんかおかしい… 知らず知らずのうちに攻略対象達を虜にしていくマリーだがこの世界はBLと疑わないマリーはそんな思いは露知らず… 注)BLとありますが、BL展開はほぼありません。

ハズレ嫁は最強の天才公爵様と再婚しました。

光子
恋愛
ーーー両親の愛情は、全て、可愛い妹の物だった。 昔から、私のモノは、妹が欲しがれば、全て妹のモノになった。お菓子も、玩具も、友人も、恋人も、何もかも。 逆らえば、頬を叩かれ、食事を取り上げられ、何日も部屋に閉じ込められる。 でも、私は不幸じゃなかった。 私には、幼馴染である、カインがいたから。同じ伯爵爵位を持つ、私の大好きな幼馴染、《カイン=マルクス》。彼だけは、いつも私の傍にいてくれた。 彼からのプロポーズを受けた時は、本当に嬉しかった。私を、あの家から救い出してくれたと思った。 私は貴方と結婚出来て、本当に幸せだったーーー 例え、私に子供が出来ず、義母からハズレ嫁と罵られようとも、義父から、マルクス伯爵家の事業全般を丸投げされようとも、私は、貴方さえいてくれれば、それで幸せだったのにーーー。 「《ルエル》お姉様、ごめんなさぁい。私、カイン様との子供を授かったんです」 「すまない、ルエル。君の事は愛しているんだ……でも、僕はマルクス伯爵家の跡取りとして、どうしても世継ぎが必要なんだ!だから、君と離婚し、僕の子供を宿してくれた《エレノア》と、再婚する!」 夫と妹から告げられたのは、地獄に叩き落とされるような、残酷な言葉だった。 カインも結局、私を裏切るのね。 エレノアは、結局、私から全てを奪うのね。 それなら、もういいわ。全部、要らない。 絶対に許さないわ。 私が味わった苦しみを、悲しみを、怒りを、全部返さないと気がすまないーー! 覚悟していてね? 私は、絶対に貴方達を許さないから。 「私、貴方と離婚出来て、幸せよ。 私、あんな男の子供を産まなくて、幸せよ。 ざまぁみろ」 不定期更新。 この世界は私の考えた世界の話です。設定ゆるゆるです。よろしくお願いします。

処理中です...