上 下
11 / 11
新生活のようなもの

魔王、決める。

しおりを挟む
 魔王に名前らしいものがないのを、アンは確かに不自由に感じていた。
 そのまま『魔王』と呼ぶのは気が引けるし、まるで彼の自己申告身分を認めているみたいだ。だからずっとミスター・デビルと呼んでいて、それはそれで少々気に入っていた。
 でも……。
 でも!

「ミスター・デビル……あなた……!」
「いつまでもそんな呼び方をしていないで、わたしのことはエドワードと呼べばいい。アン・ヴァレリア・グレイスウッド」
「いつのまにわたしのミドル・ネームをご存知なの? ……じゃなくて!」

 エドワード。
 アンが空想の中の完璧な男性につけた名前。それを魔王が勝手に名乗っている。もちろんアンが専売特許を持っているわけではないけれど。比較的よくある名前だけれど。でも。でも……!
 ミスター・ビングリーに至っては完全に信じてしまったのか、まるで世紀の発見を目にしたようにアンとミスター・デビル……もといエドワードを凝視している。

「なんてことだ、アン。僕は……君のことを誤解していたようだ。ひとまず帰らせていただく」
 ミスター・ビングリーは被ってきたシルクハットの帽子に手を伸ばし、帰り支度をはじめた。原稿を持たずに!
 アンは蒼白になり、ミスター・デビル──いや、もうこの際エドワードと呼んでしまおう!──の腕から火事場のナントカで離れた。
 もしかしたらエドワードがあえて力を緩めたのかもしれない。

「待ってください、ミスター・ビングリー! せめて……せめてこの原稿を読み終えてからにしてください!」
「いや、僕は求めているのは小説であって、ルポルタージュなんかじゃない。君とこの……ミスター・エドワード・デビルの私生活を覗く気分ではないんだ」
「ルポルタージュ! そんなはずないでしょう! まずヒロインはわたしとは似ても似つきませんわ。ただ、少し彼の容姿を参考にしただけで……」
「参考?」
 ミスター・ビングリーは疑わしげに顔を歪めた。「同じ名前をつけておいて?」

 ──確かにその通り!
 じゃ、なくて!

「そ、それは……」
 アンはしどろもどろになった。
 魔王ことエドワード(仮名)がミスター・ビングリーの前に現れたおかげで、妄想癖がひどすぎる孤独なオールド・ミスの汚名は晴らすことができたけれど、今度はロンドン中にふしだらな女と吹聴されてしまうかもしれない。
 ミスター・ビングリーはアンの答えを待っているようだった。なんらかの期待を持って。

「と……とにかく、これは素晴らしい作品ですのよ。きっと売れます」
 苦し紛れではあるが、アンはそう断言した。出版編集者であるビングリーにとって、結局、一番大切なのはそこなのだから。
「たとえそうだとしても、作者が男主人公そのものの人物と不埒な関係であることがバレれば、ひどいスキャンダルになるだろう」
「う」
 それは……確かに。
 そうかもしれない。アンは社交界にあまり現れないミステリアスで古風な女作家として売り出されていた。そんなアンがあえて書く官能小説だからこそ、やっと文字の読める労働階級の女性から貴族の奥方まで、幅広い層に信頼されているのだ。

「で、では、この原稿は……」
 アンが哀れっぽくささやくと、ミスター・ビングリーは少しだけ威勢……というか、機嫌を取り直した。
「君がどうしてもと言うなら、持ってかえってやらなくもないが……。出版できるかどうかは、最後まで目を通してから決めよう」
「それなら──」
 どうぞ持って帰ってください、と原稿を差し出そうとしたとき、アンの背後から大きな手がサッと伸びてきた。

「お前にこの原稿を受け取る資格はない。その気取ったくだらない帽子を持って、さっさとここから去るがいい」

 900ページにのぼる原稿の束。アンもミスター・ビングリーも両手で抱えないと持ちきれなかったのに、エドワード(と、呼んでしまう)は軽々と片手で掴み、持ち上げてしまった。

「なにをするの!」
「なにをするんだ!」
 アンとミスター・ビングリーはまたも同時に叫んだ。こういうところはちょっと気が合うのだ、彼とアンは。だからこそ一緒に仕事をしてきた。

「この原稿を世に出すのに必要なのは、必ずしもお前ではない。優秀な編集者など他にいくらでもいる。国中の出版社がアンとわたしの物語を欲しがるだろう。お前はくだらない嫉妬で、アンのために働ける栄誉を自ら捨てたのだ」
「なんだと……っ」

 ミスター・ビングリーの顔はちょっと可笑しいくらい真っ赤になった。
 エドワードはもちろん涼しい顔だ。このひとは怒ったり照れたり悲しんだり、人間的な感情を持つことがあるのだろうか?
 いや、そもそも人間なのだろうか?──という疑問があるのだけれど。

「嫉妬?」
 アンは眼鏡の奥の目をまたたいた。
 ミスター・ビングリーがこの原稿に否定的になって帰ろうとしたのは、アンが登場人物の参考人物と親しくしているのが問題だからでは? どこかに嫉妬が入る余地があるの?
「お前はわからなくていい、アン」
 アンの疑問に答えるように、エドワードは静かに言った。

 ミスター・ビングリーは、原稿を持ったエドワードとその側にいるアンを交互に見ながら、癇癪を起こした子供のように顔を歪めた。
 その気持ちはわからなくもない。
 それなりに美丈夫だと自負しているミスター・ビングリーが、エドワードのような規格外に対峙することになりプライドを傷つけられているのだ。ちょっと同情してしまう。ちょっと、だけど。

「こ……後悔するぞ、アン!」
 ──もうしてますわ、と縋りたい気持ちになったものの、アンは呆然としたまま黙っていた。
 そのくらい、魔王がアンの新作に自信を持ってくれたのが嬉しかったのだ。作家なんてそんなものだ。いくつか聞き捨てならない台詞もあったけれど。

 ミスター・ビングリーは最後に哀しげにアンをじっと見つめていたものの、エドワードが低いうなり声のようなものを漏らすと、負け犬が尻尾を巻いて逃げるように屋敷から出ていってしまった。


 * * * *


「ああ……どうしましょう……」

 すでに三作をそれなりのヒットに仕上げてくれた編集者に去られて、アンはうなだれた。手元にはまだ原稿があるし、ミスター・ビングリー以外にも出版社や編集者がいるのは事実だ。
 でも、また最初から売り込みをするのは骨が折れる。
 結構切実に、お金も必要だし。

「わたしがなんとかするさ」
 エドワードがさも簡単そうに宣った。まったくもう。

「いつ? どうやって? あなたが毎日山のように食べているトーストも、タダではないんですよ。誰かが買わなければならないんです」
「お前の目には、わたしがトースト代さえ手に入れることのできない男に映っているのか?」
「いいえ……。どちらかといえば、どこかの大富豪や王様の方が似合ってますけど、それはなんの助けにもなりませんわ。現実問題として、あなたは今うちでジゴロをやっているのでしょう」
「ジゴロをやっているのは気分がいいからだ。ジゴロしかできないわけじゃない」

 わお。
 そうでしょうとも。

 でも、彼が言うとなぜか納得してしまう。美しすぎる容姿のせいだろうか。大きすぎる態度のせいだろうか。アンが欲求不満なせいだろうか。
 ああ……もう!

「それに……あなたの名前ですけれど」
「ああ」
「エドワード……。本当ですか?」
 エドワードはフンと短く鼻を鳴らした。そんなわけないだろう、という意味であるとアンは察した。

「確かにずっと……あなたに名前がないのは不便だと思っていたんです。これからは……エドワードとお呼びしてもいいかしら? それとも他に本当の名前があるの? わたしが知らないだけかしら?」

 エドワードは珍しく、ちょっとなにかを考えているような表情を浮かべた。
 アンを見つめながら、手にしていた原稿の束をそっと机に戻す。
 そして微笑んだ。
 ──ああ、その笑みの美しさときたら! まさに悪魔。まさに魔王……!

「お前にとって、わたしはエドワードだ。それでいい」

 後日、アンは思った。このとき気絶せずにいられたのは、奇跡であると。

しおりを挟む

この作品の感想を投稿する

みんなの感想(2件)

maro.tan
2022.09.10 maro.tan

日本人の作家さんが書いたハーレクインのよう、続きは、どちらに?

解除
とと
2019.04.14 とと

タイトルを見て予想した内容とはちがったけど、
思っていた内容より全然面白いと思います。
(大変申し訳ないのですが、実はタイトルだけみたときはあまりそそられませんでした。。。)
全体的な雰囲気をつかみやすいし、主人公の興味あるけど「きゃっ」ってする感じがとても好きです。
応援しています。

解除

あなたにおすすめの小説

【完結】嫌われ令嬢、部屋着姿を見せてから、王子に溺愛されてます。

airria
恋愛
グロース王国王太子妃、リリアナ。勝ち気そうなライラックの瞳、濡羽色の豪奢な巻き髪、スレンダーな姿形、知性溢れる社交術。見た目も中身も次期王妃として完璧な令嬢であるが、夫である王太子のセイラムからは忌み嫌われていた。 どうやら、セイラムの美しい乳兄妹、フリージアへのリリアナの態度が気に食わないらしい。 2ヶ月前に婚姻を結びはしたが、初夜もなく冷え切った夫婦関係。結婚も仕事の一環としか思えないリリアナは、セイラムと心が通じ合わなくても仕方ないし、必要ないと思い、王妃の仕事に邁進していた。 ある日、リリアナからのいじめを訴えるフリージアに泣きつかれたセイラムは、リリアナの自室を電撃訪問。 あまりの剣幕に仕方なく、部屋着のままで対応すると、なんだかセイラムの様子がおかしくて… あの、私、自分の時間は大好きな部屋着姿でだらけて過ごしたいのですが、なぜそんな時に限って頻繁に私の部屋にいらっしゃるの?

私に告白してきたはずの先輩が、私の友人とキスをしてました。黙って退散して食事をしていたら、ハイスペックなイケメン彼氏ができちゃったのですが。

石河 翠
恋愛
飲み会の最中に席を立った主人公。化粧室に向かった彼女は、自分に告白してきた先輩と自分の友人がキスをしている現場を目撃する。 自分への告白は、何だったのか。あまりの出来事に衝撃を受けた彼女は、そのまま行きつけの喫茶店に退散する。 そこでやけ食いをする予定が、美味しいものに満足してご機嫌に。ちょっとしてネタとして先ほどのできごとを話したところ、ずっと片想いをしていた相手に押し倒されて……。 好きなひとは高嶺の花だからと諦めつつそばにいたい主人公と、アピールし過ぎているせいで冗談だと思われている愛が重たいヒーローの恋物語。 この作品は、小説家になろう及びエブリスタでも投稿しております。 扉絵は、写真ACよりチョコラテさまの作品をお借りしております。

身代わりの公爵家の花嫁は翌日から溺愛される。~初日を挽回し、溺愛させてくれ!~

湯川仁美
恋愛
姉の身代わりに公爵夫人になった。 「貴様と寝食を共にする気はない!俺に呼ばれるまでは、俺の前に姿を見せるな。声を聞かせるな」 夫と初対面の日、家族から男癖の悪い醜悪女と流され。 公爵である夫とから啖呵を切られたが。 翌日には誤解だと気づいた公爵は花嫁に好意を持ち、挽回活動を開始。 地獄の番人こと閻魔大王(善悪を判断する審判)と異名をもつ公爵は、影でプレゼントを贈り。話しかけるが、謝れない。 「愛しの妻。大切な妻。可愛い妻」とは言えない。 一度、言った言葉を撤回するのは難しい。 そして妻は普通の令嬢とは違い、媚びず、ビクビク怯えもせず普通に接してくれる。 徐々に距離を詰めていきましょう。 全力で真摯に接し、謝罪を行い、ラブラブに到着するコメディ。 第二章から口説きまくり。 第四章で完結です。 第五章に番外編を追加しました。

婚約破棄された検品令嬢ですが、冷酷辺境伯の子を身籠りました。 でも本当はお優しい方で毎日幸せです

青空あかな
恋愛
旧題:「荷物検査など誰でもできる」と婚約破棄された検品令嬢ですが、極悪非道な辺境伯の子を身籠りました。でも本当はお優しい方で毎日心が癒されています チェック男爵家長女のキュリティは、貴重な闇魔法の解呪師として王宮で荷物検査の仕事をしていた。 しかし、ある日突然婚約破棄されてしまう。 婚約者である伯爵家嫡男から、キュリティの義妹が好きになったと言われたのだ。 さらには、婚約者の権力によって検査係の仕事まで義妹に奪われる。 失意の中、キュリティは辺境へ向かうと、極悪非道と噂される辺境伯が魔法実験を行っていた。 目立たず通り過ぎようとしたが、魔法事故が起きて辺境伯の子を身ごもってしまう。 二人は形式上の夫婦となるが、辺境伯は存外優しい人でキュリティは温かい日々に心を癒されていく。 一方、義妹は仕事でミスばかり。 闇魔法を解呪することはおろか見破ることさえできない。 挙句の果てには、闇魔法に呪われた荷物を王宮内に入れてしまう――。 ※おかげさまでHOTランキング1位になりました! ありがとうございます! ※ノベマ!様で短編版を掲載中でございます。

お嬢様は没落中ですが、根性で這い上がる気満々です。

萌菜加あん
恋愛
大陸の覇者、レイランドの国旗には三本の剣が記されている。 そのうちの一本は建国の祖、アモーゼ・レイランドもので、 そしてもう二本は彼と幾多の戦場をともにした 二人の盟友ハウル・アルドレッドとミュレン・クラウディアのものであると伝えられている。 王家レイランド、その参謀を務めるクラウディア家、そして商業の大家、アルドレッド家。 この伝承により、人々は尊敬の念をこめて三つの家のことを御三家と呼ぶ。 時は流れ今は王歴350年。 ご先祖様の想いもなんのその。 王立アモーゼ学園に君臨する三巨頭、 王太子ジークフリート・レイランドと宰相家の次期当主アルバート・クラウディア、 そして商業の大家アルドレッド家の一人娘シャルロット・アルドレッドはそれぞれに独特の緊張感を孕みながら、 学園生活を送っている。 アルバートはシャルロットが好きで、シャルロットはアルバートのことが好きなのだが、 10年前の些細な行き違いから、お互いに意地を張ってしまう。 そんなとき密かにシャルロットに思いを寄せているジークフリートから、自身のお妃問題の相談を持ち掛けられるシャルロットとアルバート。 驚くシャルロットに、アルバートが自分にも婚約者がいることを告げる。 シャルロットはショックを受けるが、毅然とした態度で16歳の誕生日を迎え、その日に行われる株主総会で自身がアルドレッド商会の後継者なのだと皆に知らしめようとする。 しかし株主総会に現れたのはアルバートで、そこで自身の婚約者が実はシャルロットであることを告げる。 実は10年前にアルドレッド商会は不渡りを出し、倒産のピンチに立たされたのだが、御三家の一つであるアルバートの実家であるクラウディア家が、アルドレッド商会の株を大量購入し、倒産を免れたという経緯がある。その見返りとして、アルドレッド家は一人娘のシャルロットをアルバートの婚約者に差出すという取り決めをしていたのだ。 本人の承諾も得ず、そんなことを勝手に決めるなと、シャルロットは烈火のごとく怒り狂うが、父オーリスは「だったら自分で運命を切り開きなさい」とアルドレッド商会の経営権をアルバートに譲って、新たな商いの旅に出てしまう。 シャルロットは雰囲気で泣き落とし、アルバートに婚約破棄を願い出るが、「だったら婚約の違約金は身体で払ってもらおうか」とシャルロットの額に差し押さえの赤札を貼る。

婚約者が他の女性に興味がある様なので旅に出たら彼が豹変しました

Karamimi
恋愛
9歳の時お互いの両親が仲良しという理由から、幼馴染で同じ年の侯爵令息、オスカーと婚約した伯爵令嬢のアメリア。容姿端麗、強くて優しいオスカーが大好きなアメリアは、この婚約を心から喜んだ。 順風満帆に見えた2人だったが、婚約から5年後、貴族学院に入学してから状況は少しずつ変化する。元々容姿端麗、騎士団でも一目置かれ勉学にも優れたオスカーを他の令嬢たちが放っておく訳もなく、毎日たくさんの令嬢に囲まれるオスカー。 特に最近は、侯爵令嬢のミアと一緒に居る事も多くなった。自分より身分が高く美しいミアと幸せそうに微笑むオスカーの姿を見たアメリアは、ある決意をする。 そんなアメリアに対し、オスカーは… とても残念なヒーローと、行動派だが周りに流されやすいヒロインのお話です。

旦那様は大変忙しいお方なのです

あねもね
恋愛
レオナルド・サルヴェール侯爵と政略結婚することになった私、リゼット・クレージュ。 しかし、その当人が結婚式に現れません。 侍従長が言うことには「旦那様は大変忙しいお方なのです」 呆気にとられたものの、こらえつつ、いざ侯爵家で生活することになっても、お目にかかれない。 相変わらず侍従長のお言葉は「旦那様は大変忙しいお方なのです」のみ。 我慢の限界が――来ました。 そちらがその気ならこちらにも考えがあります。 さあ。腕が鳴りますよ! ※視点がころころ変わります。 ※※2021年10月1日、HOTランキング1位となりました。お読みいただいている皆様方、誠にありがとうございます。

【完結】王宮の飯炊き女ですが、強面の皇帝が私をオカズにしてるって本当ですか?

おのまとぺ
恋愛
オリヴィアはエーデルフィア帝国の王宮で料理人として勤務している。ある日、皇帝ネロが食堂に忘れていた指輪を部屋まで届けた際、オリヴィアは自分の名前を呼びながら自身を慰めるネロの姿を目にしてしまう。 オリヴィアに目撃されたことに気付いたネロは、彼のプライベートな時間を手伝ってほしいと申し出てきて… ◇飯炊き女が皇帝の夜をサポートする話 ◇皇帝はちょっと(かなり)特殊な性癖を持ちます ◇IQを落として読むこと推奨 ◇表紙はAI出力。他サイトにも掲載しています

処理中です...
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。

このユーザをミュートしますか?

※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。