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出会いのようなもの

魔王、脱ぐ。

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 それから魔王は、18枚のトーストと、アンの1週間分の肉の詰め物をペロリとたいらげたあと、美しい顔を満足げに崩して「では、風呂を用意しろ」とのたまった。
 どうやら悪魔でも風呂に入る習慣はあるらしい。

 そんなわけで、居間の長椅子でふんぞり返っている食後の魔王を尻目に、アンは料理人兼お手伝いのマリアと一緒に入浴の準備をはじめた。さいわい、アンの屋敷には客専用の入浴部屋があって、そこそこの大きさのバスタブもある。
 真鍮製のバスタブにお湯を張りながら、アンは淑女らしからぬ妄想に思いを馳せた。

 これから、あの男が、このバスタブに入るのだ。
 もちろん全裸で。
 ぜ、ぜんぶ入るのかしら?
 つまり、その、あの巨体が? 体が大きいとアソコも大きいのかしら?

(は、はしたない! でも、小説家としては、ぜひ知っておきたいところ……)

 特に、男女の『つながり』を売りとする官能ロマンス小説家としては、かなり知っておきたい大事なところだ。だから。だから気になるのだ。あの自称魔王の裸を見たいと思っているわけでは……ない。はずだ。
 多分。
 もしかしたら。
 も、もし、『湯浴みを手伝え』なんて言われたら、どうしよう?
「きゃ! あ、熱っ!」
 バスタブに注いでいた熱湯をスカートにこぼしてしまい、アンは慌てて立ち上がった。ぐっしょりと濡れたスカート生地を持ち上げながら、いまさらながらおのれの置かれた理不尽な立場に腹立ちを覚えた。

 部屋は灰だらけだし。
 原稿は真っ黒になってしまったし。まぁ、よく見てみれば完全に真っ黒になってしまったのは最期の十数枚だけで、他はところどころインクの染みはあるものの、なんとか読める状態だったけれど。
 でも、書き直しというのは、結構な屈辱なのだ。特によくできていた部分は。
 数日分の食料も一瞬にして食べられてしまったし。

 はじめての口づけも、奪われてしまったし。

「大丈夫ですか、アンお嬢さま? ゲホッ、あの旦那さまは、ちょっと変わった方ですね……よく食べるし……ゲホッ……びっくりするくらい綺麗ですけど。あんまり近寄ったら、あたしなんか、気絶しちゃいそうで……ゲホッ」
「まあ、マリア、無理をさせてごめんなさい」

 追加の熱いお湯で満たされたピッチャーを持って入浴部屋に入ってきたマリアを助けるように、アンは駆け寄った。
 マリアはアンの料理人だ。
 料理をしていない時は女中の仕事もしてくれる。
「いいんですよ。あたしを雇ってくださったご恩は忘れませんから。さあ、ゲホッ、どうぞ」
 ピッチャーを渡されたアンは、口を引き結んでバスタブにお湯を張る作業に戻った。
 そうだ。
 泣き言を言っている場合ではない。

 アンはどうしてもマリアとサットンの給金を稼がなければならないし、屋敷を切り盛りするのは楽な仕事ではない。サットンもマリアも、他の屋敷で「使いものにならない」と解雇されるところだったのが可哀想で、見ていられなくて、アンがかわりに雇い入れたのだった。
 だから正直、あんまり役には立っていない。
 でも、彼らはアンにとって大切な家族だった。
 アンが……失ったはずのもの。

「さあ、これで準備はいいわね。マリア、あの魔王……いえ、ミスター・デビルを呼んでくださる?」
「わ、わかりました……けど、あたし、入浴の手伝いとかはちょっと……」
「わかってるわ。あなたは湯気が苦手だものね。もし手伝いが必要ならわたしがやりますから、心配しなくていいわ。彼が自分ひとりで入浴してくれることを願うけど……」

 我ながらお粗末な希望的観測だと思いながら、アンはマリアが出て行くのを見守った。
 ほんの少し前まで千のしもべにかしずかれてきた悪魔の王さまが、ひとりで身体を洗ったりする図はちょっと想像しづらい。どちらかといえば、アンが爪とぎまでやらされる方に一作分の原稿料を賭けたいくらいだ。
 アンはお湯の張られたバスタブを不安げに見つめた。

 ありえるのだろうか……?
 つまり、あの男が本当に魔界の王だったなどということが?

 アンは空想を形にする職業についているが、夢見がちなわけではない。でも……あの男に限っていえば、普通の人間だと告げられるより、魔王だったと言われた方がなんとなくしっくりくるのも事実だ。
 ああ、もう。これからどうするべきだろう……。

「おい、女」
「きゃ!」
 いきなり背後から声をかけられて、アンは飛び跳ねた。驚きで前のめりになり、その勢いで均衡が崩れて、あわやバスタブに頭から突っ込んでしまいそうになる。
 しかし。
「おっと、それはわたしのための湯だろう。お前も一緒に入りたいならやぶさかではないが、服はいらない。裸になってからだ」
 アンの腰は魔王の片手にからめ取られて、しっかり支えられていた。彼の腕にぶら下がるような格好になっていて、アンは慌てて半回転し、魔王と向き合った。
「ま、まあ! あなた……!」
 魔王はすでに全裸だった。
 裸体の魔王が、アンをぐっと抱き寄せていた。
 そんな! 服を着た普通の男性に抱きしめられたことさえほとんどないのに、いったい今日のアン・グレイスウッドになにが起こったというのだろう?

「あなたは……慎みというものをご存知ないの?」
「慎みなどというものは、おのれの欲望に忠実になる勇気のない腰抜けの言い訳にすぎない。わたしは違う」
「…………」
 そうでしょうとも。
 アンは、それこそ慎みを持って、全裸の魔王から目を離すべきだった。べきだった、のに。アンの瞳は気になるあそこへ吸いつくように向かった。だって、目の前に全裸の美形がいるというのに、他にどこを見つめろというの?
 魔王はすぐアンの視線に気がついたようだった。

「前の姿の時は、この五倍はあったがな。人間としては悪くないサイズだろう」
「さ、さ、さ、さい……ず」
 大きかった。
 どのくらい大きいかと問われたら、アンがエドワード用に妄想していたものよりずっと長く、ずっと太く、ずっと硬そうであると……しか、表現できない。
 こんなものが。
 こんなものが。
 こんなものが。
 官能ロマンス小説家としての知識を総動員すれば、この……とがったものが、女性の秘部に侵入するのだ。アンはその行為を表す数十の表現を簡単にあげることができた。

 上品に『愛し合う』。
 読者が好む『男女の契り』、もっと大胆に『まぐわい』、詩的に『花を散らす』。

 でも、そのどれもが、魔王が誇っているこの……この体の一部に、ふさわしい表現には思えなかった。これはもっと激しいものだ。もっと生々しくて、もっと力強いもの。
 小説家として今日まで積み重ねてきた数々の文章が、急に薄っぺらいものに思えてきた。彼のモノを凝視しながら、真っ赤になったり真っ青になったりを繰り返しているアンを見て、
「なかなか興味を持っていると見える」
 くつくつと笑いながら、魔王はくるりと向きを変えてバスタブの中に足を入れた。

 わお。
 魔王はお尻も完璧だった。

 その長身を器用に曲げて、ゆっくりと湯船の中に浸かっていく。
 魔王はすぐにリラックスして、我が物顔で肢体を伸ばした。バスタブの中のお湯までが、魔王の体に触れられることを喜んで上気しているように見える。
 アンの予想に反して、魔王はしばらくなにも言わずに、ひとりで静かにお湯を楽しんでいた。
 時々、軽く鼻歌のようなものまで歌っている。
 アンは呆れと諦めの混じった複雑な気分でため息をついた。

「悪魔の王宮を追放されて、オールドミスの煙突から落ちてきた魔王にしては、ずいぶんと楽しそうですこと」
 嫌味のひとつも言ってみたくなる。
 魔王は鷹揚に顔をあげてアンを見た。採光のために高い位置にある窓から、陽の光がちょうど彼の顔に向かって降り注いでいる。

 わお。
 魔王の瞳は深い灰色だった。黒をほんの少し薄くしたような、青みのない本物のグレイ。ありていに言って、すごく綺麗だった。
 ものすごく。
 ものすごく。
 見つめられると、それだけで動悸がしてしまうくらいに。

「オールドミスというのは、他の人間の女と違い、男の奴隷になるのを拒否した者のことだろう」
 魔王は淡々と言葉を紡いだ。彼の口から声が発せられるたび、周囲の湯気が踊る……それがなんだか妙になまめかしかった。入浴部屋独特の音のこだまにも、なんだか背筋が震える。
「それは素晴らしいことだ。勇気のいることだからな。少なくともお前は臆病者ではない。褒めてつかわそう」

 オールドミスであることを褒められたのは生まれてはじめてで、アンは面食らって、どう反応していいのかわからなくなった。

「あ、ありがとう……ございま、す……?」
「ふん」
「悪魔に結婚という概念はないのかしら?」
「馬鹿かお前は。人間はどこで、どうやって結婚する?」
「えぇっと、教会で……聖なる誓いを……」
 と、まで答えて、アンは自分がどれだけくだらない質問をしてしまったかに気づいた。白石の天使像に囲まれて、貞操や誠実を誓う行為など、悪魔がするはずがない。
「そうですわね。どちらかといえば、結婚を壊すのが悪魔のお仕事でしょうね」
 すると魔王はフンと軽く鼻を鳴らした。
「おとぎ話の中ではそうだろうな。しかし現実は違う。続ける方が悲惨な結婚だっていくらでもあるさ……お前は賢い選択をしている。誇っていいことだ」
「…………」

 そうね。そうでしょうとも。
 アンにも、そんな結婚に心当たりがあった。思い出すだけで胸がチクチクと痛む。

 黙りこくってしまったアンに、魔王は、なにも言わなかった。普通のひとなら雰囲気を察して、なにか慰めの言葉をくれたりするのかもしれない。
 でも、魔王はそんなことしなかった。
 アンの心情などお構いなしに、勝手にひとりで湯船を楽しんでいる。
 なんだかそれが心地よかった。

 ほっとひと息ついていると、魔王はおもむろにドンと組んだ両足を真鍮のバスタブの縁に乗せて、さも当然のように言い放った。
「さあ、女。わたしの体を洗う名誉を与えよう」
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