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出会いのようなもの

魔王、腹をみたす。

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 遠く東インドから輸入されたというそのお茶は、メノウのような濃い赤茶色の輝きを放ちながら、白地に青で絵づけの施されたティーカップの中で揺れていた。
「それはつまり……」
 カチャンと音を立て、カップがひとつ、アンの前に置かれる。
「あなたは……魔界の王、つまり……魔王であったと、そうおっしゃるのですね?」
 ガチャンと音を立てて、もうひとつのカップが男の前に置かれた。トレイを持った執事・サットンの瞳が、老眼鏡越しにきらりと光るのをアンは横目に確認した。

 屋敷の居間には、現在、この奇妙な珍客を迎えて落ち着かない雰囲気に包まれていた。
 煙突から落ちてきた黒づくめの男は、狂気じみた叫びを上げたあと、アンの寝室兼仕事部屋にある全身鏡に駆け寄り、おのれの姿を見ると……二度目の絶叫を響かせた。

 いわく、これは彼の本来の姿ではない、と。
 いわく、彼の頭には二本の角が生えていたはずで。
 いわく、彼の肌は黒光りする竜の鱗のようなものに覆われていたはずで。
 いわく、彼の瞳は黄金色で、赤や青に変色することもできたはずで。

 いわく……すべては覚えきれなかったが、とにかくもっと仰々しい、恐ろしいものであって、こんな普通の人間の姿ではなかったのだ、と。

 彼の外見を『普通の人間』にカテゴライズしていいのかどうかについては、議論の余地があると、アンは考えている。
 しかし、男にとっての要点はそこではないらしい。

「いかにも。すべての悪魔がわたしの前にひれ伏し、わたしを崇め、恐れたものだ。わたしには巨大な宮殿があり、千を超えるしもべがわたしのために日夜働いていた」

 こんなセリフをさらっと言っても、この男にはなぜか違和感がない。常識離れした美貌のせいだろうか。
 アンはとりあえず紅茶をひと口すすり、気分を落ち着かせることに努めた。
「でも、あなたはさっき突然煙突から落ちてきて、さえないオールドミスの屋敷で紅茶を飲んでいます。給仕するのはわたしの執事だけで……」
「まったく遺憾なことだ」
「そこは否定していただきたいところですわ。いいですか、サットンはなにも聞こえないふりをしていますけど、実はとても敏感なんです。嫌いな客の紅茶に下剤を入れるクセもありますから、口には気をつけたほうがいいですわよ」
 男はわずかに唇の端を上げて、微笑みに似た表情を作った。
「悪くない下僕を持っているな。素質がある」
「あ、悪魔の素質ですか?」
「他になにがある」
「…………」

 この男とあまり長く会話をしていると、常識というものを忘れてしまいそうだ。話題を帰ることにして、アンはごほんと嘘の咳払いをした。

「お名前をうかがってもいいかしら、ミスター・デビル?」
「わたしは魔王である。名などない」

 アンはほんの少し、自分も他の淑女のようにコロッと気絶してしまえれば楽なのに、と思った。しかしそれはアンの性分ではない。
 アンは……。

「では、さっさと、その魔界とやらにお帰りになったらいかがですか? 千のしもべにかしずかれて、名無しのままでいればいいんだわ!」

 いつもひと言多いと、社交界ではひんしゅくを買ったものだ。
 しかし、こうして田舎に引っ込み、女だてらに屋敷を切り盛りし、小説家という職業を持った今は、それに助けられていた。アンの鋭い切り口は彼女の小説の売りでもあったし、ひとりで生きていくための処世術でさえあった。
 まさか魔王に口答えすることになるとは、アン本人でさえ思ってもみなかったけれど。

「できない」
 魔王は答えた。
「なぜです?」
 アンは唇をとがらせた。
「第一に、別に戻りたいとは思わない。第二に、わたしを王座から蹴り落とそうとした阿呆がいるのだ。戻って、奴の首を落としてやることもできないことはない……しかし……」
「しかし……?」
「面倒くさい」
「は?」
「面倒くさい。どこにいようとわたしはわたしだ。わざわざそんな面倒なことをする必要もあるまい。ここも悪くなさそうだ」
「『ここ』? で、でも……でも……」
 アンはどうにかしてこの男を追い立てる方法を考えた。「ここに千のしもべはおりませんわよ。いるのはサットンと、病気がちな料理人だけです。贅沢な暮らしがしたいでしょう?」
「お前がいるではないか」
「は?」
「耳が悪いのか? お前がいるではないか」
「なんですって?」

 そこに、いったんさがっていたサットンが、軽食の乗った純銀のトレイを持って居間に現れた。いささか焦げついたトーストと、卵料理、そして肉の詰め物がポーセリンの皿に盛りつけられている。いい香りがした。
「失礼ですが、わたしは、あなたの世話をするつもりはありませんわよ。それどころか、あなたを我が家に招待した覚えもないんです。あなたが勝手に煙突から落ちてきただけで……」
「おい、この匂いはなんだ」
「ちょっと、あなた、お聞きになっています?」
「この匂いを嗅いでいると、妙な気分になる……。腹のあたりが締まるような……なんだこの感覚は……」

 魔王は首を伸ばしてサットンの持つトレイを覗き込んでいた。
 その美しい顔が、恍惚と欲望をのぞかせている。人がこんな表情をする理由に思い当たるのに、洞察深い小説家である必要はなかった。
 呆れて、アンはぐるりと目を回した。
「お腹が空いていらっしゃるだけでしょう。悪魔というのはトーストを食べない生き物なのかしら? そもそも、魔界ではなにを召し上がっていたんです?」

 アンが言い終わるか終わらないかといううちに、魔王は応接椅子を蹴り飛ばして立ち上がり、サットンの前にぐんぐんと進んだ。
 年老いた執事の前に立ちはだかると、魔王はなんの挨拶も断りもせずに、皿ごと持ち上げてそこに乗っている料理をすべて口の中に流し込んだ。数回咀嚼しただけで、あっさりと全部を飲み下す。
 二枚目の皿……つまりアンの分……も同じ運命を辿った。
 あんぐりとその光景を見守っていたアンとサットンに向かって、魔王は口を手の甲でぬぐいながら命令した。
「もっと持ってくるのだ。今すぐ」

 アンはカッと苛立ちに燃えた。
「あなたは本当にひとの話を聞いていないのですね! わたしたちはあなたのしもべではないのですよ! ま、魔王だろうとなんだろうと、招かれざる客に過ぎないんです! いったい自分を何者だと思っていらっしゃるんです!?」
「わたしは魔王だ」
「だった、のでしょう。もしあなたの言っていることが本当なら、あなたはすでに追放された身で、姿形さえも変わってしまったそうじゃないですか」
「おい、今と同じものを持ってこいと言っている。聞こえなかったのか」

 ひゅっと短く息を吸ったアンは、怒りのあまり甲高い叫びをあげてしまうのをなんとか我慢した。もし目の前のこの男の見栄えが違って、これほど魅力に溢れていなければ……。
 でも、実際は……。
 ああ、もう!

「……サットン、こちらのミスター・デビルにもう少しトーストを出して差し上げてくれる?」

 アンは敗北を認めた。
 サットンはなにも答えずにくるりと向きを変えると、トレイを持った同じ姿勢のまま、居間から出ていった。
 なにを言われたわけではないが、経験からして、サットンはしばらく戻ってこないだろう。

 アンは深いため息をつかずにはいられなかった。
 なんてこと!

 いきなり煙突から落ちてきた男は、そこに存在するだけでこの世の女性をすべて虜にしてしまうような美形で、黒づくめで、ひとの話をいっさい聞かず、腹を空かせていて、勝手にアンを彼の下僕だと思いはじめている。
 ああ、彼が元・魔王であるらしいということも、忘れてはいけない。

「……仕方ありませんわね」
 実際的で、現実主義なのはアンの長所だった。
 アンはいつだって目の前の問題にまっすぐ取り組んだし、涙を流して悲劇のヒロインを気取っても時間の無駄だと、人生の早い段階ですでに気がついていた。
 だから、腹を空かせた元・魔王に不当な扱いを受けても、泣くような真似はしなかった。本当のことを言えば、ちょっと泣きたかったけれど。

「まずは、お風呂に入ってはいかがですか? 家中を灰だらけにされたらかなわないわ」

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