翠の子

汐の音

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5章 二つの魔術

56 「ただいま」と「おかえり」

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“おいで天馬ペガサスの長レギオン。白き風の子、全き幻獣”

 黒々と、丈高く繁る森の木々。足元は腐葉土。かさり、と落ち葉を踏みしめて目を閉じ、歌うようにスイは失われし言語ルーンを織り上げる。

 するとーー正面のひらけた場所に、頭上から一陣の風が吹き込んだ。
 さあぁぁぁ……と乾いた音をたて、朽ち葉が円心状に広がってゆく。そこに、立派な体躯の天馬が一頭、地に足をつけると同時に姿をあらわした。

 天馬は滅多にいななかない。
 心なし、かれの周囲だけが仄かに明るい。鬱蒼と繁る森のなか、そこだけ、夢幻に属するもののようだった。

 「さすがだね」

 遠巻きに、樹の幹にもたれた黒真珠が腕を組みつつ、面白そうに眺めている。

 「どうも」

 スイは軽く応じた。恐れることなく天馬に近づき、滑らかな、絹のような背の毛並みを撫でている。
 折り畳まれた真っ白な翼は、側に立つととても大きく感じる。見上げるほどだ。

 が、触れれば他の馬とそう変わらない。ただ、大層うつくしく物静かで――賢い。
 レギオンは、ぶるぶるっ……とたてがみを震わせると、おもむろに口をひらいた。

“久しぶりだ、貴石の魔術師。我の力が要りようなのは……、か?”

 白い、長い睫毛に彩られた青灰色の瞳が黒真珠の傍らに停めてある、盛りだくさんな荷車へと向けられる。ここまで運んでから、荷トカゲは門の詰め所へと返却してきた。
 魔術を施してある旧商工ギルド所有のトカゲは、王都から一定距離をとると死んでしまう。
 ゆえに、盗難は稀だ。
 たまに知らずに移動して、ぱたりと動かなくなったトカゲに頭をかかえ込み、立ち往生する困った輩もいるらしいが―――それは、また別の話。


“そう。頼むよレギオン。都市の、私の家まで。……だめ?”

 スイはにっこり笑ったあと、ほんの少し申し訳なさそうな顔になった。天馬――レギオンから発せられる光で、薄暗がりのなか、星の川から流れ落ちる滝のように輝いている。
 レギオンはいぶかしそうに目を細めた。

“それは構わんが。そなたが姿を偽るのを我は好まん。――? その、嬉しそうにそなたの髪にまとわり付いておる、光の子そやつらを”

「あぁ」

 そう言えば……と、己の肩にかかる銀髪を一房、指に絡める。不服そうな光の子らの波長がぼんやりと伝わった。
 スイはその一房に向けて、にこ、と微笑む。

“ありがとう光の子。でも、もう大丈夫。……戻して?”

 真っ白な、やわらかい光がひとたび、チカッと瞬き、ほどける。
 徐々に色を変えゆく銀の髪。粒子の立ちのぼる毛先から現れたのはいつもと同じ、つややかな黒髪だった。
 ―――検問の騎士の目を欺くため、光の屈折率をいじってもらったのだ。色は、特に銀でなくとも構わなかった。
 (かれらの好みだったのかな)

 去っていった白い光の粒子は、いったん集まるとレギオンの鼻先に漂い、小花火のようにパンッと音をたて、弾けて消えた。
 レギオンは全く動じない。“フンッ! 小物が”と偉そうに鼻を鳴らしている。

 勝ち誇ったような眼差しで、天馬は再びスイを見た。

“うむ。やはりそなたは、偽らぬほうがずっと良い。人の世とは不自由なものだな……どれ、さっさと運ぼう。黒いの、我をそいつに繋げ。スイ、門を喚べ”

“はいはい”

“了解。ありがと天馬の長レギオン

 しっかり者らしい風と光の高位精霊に、おっとりとした二人はにこにこと応じる。


 その昔、ケネフェルの人の子と地の司アーシィが契約を交わしたとされる、いにしえの王都。
 堅牢なる城壁を囲う「黒森」の一角から、魔術師の一行が姿を消したのは、そのすぐあとのことだった。



   *   *   *



「うっそ! 天馬?! やだ本物。綺麗、かわいいぃっ!!」
「レギオンだよ、エメルダ。しばらく、移動の際はお世話になると思うから仲良くね」
「うん!」
「エメルダ、目上のひとには『はい』だよ。――お帰りなさい、お師匠さま」

 折り目正しい一番弟子は、慣れた手つきでスイが脱いだ外套を受け取った。「ありがとうキリク」と、黒髪の美女が小首を傾げ、笑みほころぶ。

 その、うつくしくも妙に食えない笑顔に安堵を覚えつつ――……キリクは、背後を振り向いた。

「セディオさん。レギオンはエメルダに任せて荷物を片付けちゃいましょう。
 お師匠さま。とりあえずこれ、居間の端に寄せといていいですか?」
「あ、うん。そうしてもらえると助かる」
「何で、お前が仕切るんだ……?」

 鷹揚に頷く魔術師に、怪訝そうな小豆色の髪の細工師。
 金茶の髪の少年は、おや、と目をみひらいた。

「お師匠さまは、細かいところは割と、すごく、本当に適当なんです。自分で言うのもなんですが適材適所ですよ。――あ、黒真珠さんも! お疲れさまです。入ってお茶でもいかがです?」
「ふふ。じゃあ、お呼ばれしようかな」
「……しょうがねぇなぁ……」

 うなじに手を当て、コキッと首を鳴らすセディオ。ぶつぶつとぼやきそうになったが、ふと視線に気づき、スイと瞳を合わせた。
 嬉しそうな紫の色あいに、思わずにやりと頬を緩める。

「よぉ。お帰り家主どの」
「ただいま、留守を預かってくれた細工師どの」

 ―――穏やかな、ただいまとお帰りの応酬。

 何だか主人マスターが居たころみたいだな、と。
 スイは、照れたように笑みを深めた。
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