桜並木の、その下で

汐の音

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めぐる春の章

9 左門邸

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 花冷えの宵の口。着々と車が乗り付けられるなか、正門横に設けられた駐車スペースは、どんどん埋まっていった。

 招かれるのは当家の女主人・喜恵きえの友人や近しい親族であり、名目上は、さほどしゃちほこばったものではない。

 とはいえ、皆、車を降りて庭を横切り玄関に向かうさまは和装が主。もてなす側の好みもあろうが、場の空気がそうさせているのかもしれなかった。

 ひらかれた門前では、あかあかと篝火が燃やされている。そこをくぐると闇に浮かぶソメイヨシノや新芽の青紅葉がぼんぼりに照らされた幻想的な庭園。下は風流に花びらに彩られた御影石だろうか。均整のとれた敷石が一本の道をかたどっている。


 左門さもん邸は、少なくとも外観は完全なる和風家屋だった。
 横長にうつくしく白い漆喰の棟が建ち並び、黒い瓦が映えてきっぱりとしたコントラストを描いている。重厚感を湛える様相は、きっと季節や時間帯に応じて違うを見せてくれるのだろう。

 桜や青葉。舞い散る紅葉に粉雪。青やにび色。
 暁闇ぎょうあん紫雲しうんの空とともに。


「わぁ……」

「これは見事だね。観光地みたいだ」

たかむらさん」

 パタン。
 門前でタクシーを降りた篁裕一ゆういちは、颯爽とスーツ姿で後ろから声を掛けた。

 対するみなとはすっかり呉服屋“み”仕立て。訪問着を借り受けている。
 正絹、ごく薄い青磁の肌色に似た秘色ひそくの丹後ちりめんには裾から伸びやかに一筋、二筋と花唐草文が刺繍で描かれている。

 良質な絹をふんだんに用いた生地は灯りを受けて多様な陰影を見せ、どこか実在性のない装飾的な花弁の柄をふっくらと浮き上がらせていた。

 立体的でありつつ優しげ。品よく楚々としていながら、この上なく華やか。

 ――これならば、と頷き、プロの着付け師まで手配してくれた早苗さなえの笑顔は伊達じゃない。自信満々だった。
 髪はシンプルにうなじのやや上で纏めている。こちらはなんと実苑みそのの力作。

(結婚前は美容師だったなんて……。実苑さん、引き出しが多すぎるわ)

 ちら、と黄色と白、緑の水引のように組まれた帯留めに視線を落とす。架空の花の模様。
 これと帯、長襦袢や小物類だけは自前の品で対応した。
 夜桜を愛でるのに、満開の桜を身に付けるのはいかがなものか。そう、細かくチェックされた上での支度は万全のはず。
 あらためて、黙ったままの篁を見上げる。

「どうしました? 篁さん」
 
 湊は首を傾げた。
 チャリ、とかんざしのちいさな歩揺ほようが鳴る。

「いや、見とれてて」

「それはどうも」

 にっこりと笑み、車中では膝あてに使っていた白いショールを広げて肩に羽織る。

 ――美辞麗句。挨拶代わりの社交辞令。その場しのぎの褒めそやし。そんな諸々には前職のおかげで耐性がある。盛装であればこそ、いつも以上に楽に聞き流せるので。

 さっと裾を直し、和服を着なれたもの特有の足運びで庭を進む。途中からは先着の人びとが挨拶を交わす声も聞こえた。もうすぐ玄関だ。

 湊は歩みを緩めて振り返った。

「気合いを入れましょう、篁さん。ほまれにも、左門の大奥様主催の花見会に、わざわざお招きいただいたんですから」

「オレは、ほかのご婦人がたより、夢みたいに綺麗な瀬尾せのおさんだけ独占したいんだけどなぁ……」

 湊は取り合わず、ふふっと口許をほころばせた。いつもより、紅はしっかりと乗せている。

「残念。花はいつかは枯れてしまいます。私の『咲き時』も。もう、散りめですよ」

 謙遜でも何でもない。実感だった。
 少なくとも、これから花ひらくようなたぐいの人間ではない。自分は。
 篁には、変なものを見るような顔をされてしまったが。

 視線を逸らし、背中を意識する。
 帯は夜の濃藍こいあい。散る花びらが銀糸の川面にたゆたう図案は儚く、一瞬の美を切り取ったようで、それでいて花そのものを描いたわけでもない。
 枝や、咲き誇る花房の描写はないのだ。
 その奥ゆかしさが粋だわ、と早苗達から好評だった。

 幸いというべきか、現実の桜も満開から散り時へと移ろっている。風が吹けばたちまち花吹雪。
 写実の景色と帯を重ねられるなら、それは自分を含め、“み穂”の女性達の目論もくろみ通りと言えた。

(大丈夫。平気。それらしく、振る舞える)

 二人は夜の左門邸を訪れた。



   *   *



「まぁ! いらっしゃい、瀬尾さん。篁さんも」

「こんばんは、大奥様。お招きに預かり光栄です」
。さっそく見事なお庭を拝見していました」

 開け放たれた玄関では、偶然にも同じ丹後ちりめんの紫を着こなした喜恵が出迎えてくれた。
 玄っぽい着物用の上掛けをまとっている。しかし、帯に目が止まった。クリーム色の絹地に蔦の紋様。見覚えがある。帯留めは大振りな月長石だった。漆の台座で不思議な存在感がある。蒔絵のようだ。

 大好きな着物や小物に刺激を得て、思わずわくわくと湊の口角が上がる。

「そちらの――嬉しいです。お使いいただけてるんですね? 素敵です」

 あぁ、と、喜恵も溌剌と笑んだ。

「ふふっ。去年の秋だったわね。今は隠れてるけど、後ろはぴったり『アヴェ・マリア』の楽譜よ。あとで見る?」

「ぜひ」


 その後は早苗から預かった菓子折りを渡し、とりあえずの第一関門をクリア。
 やがて親族の誰かだろうか。年配の女性が「こちらへ」と案内を申し出てくれた。
 先導されたのは玄関の脇道。
 どうやら家のなかではなく、直接中庭に向かうようだった。

 ふと、女性が湊に声を掛ける。

「瀬尾様でいらっしゃいますね? いつも律さんがお世話になっています」

「! いいえ、こちらこそ。……あの、貴女は?」

「通いで家政婦をしております。催しごとの際は、このようにお手伝いにも参ります。吉野よしのと申します」

「吉野さん。ご丁寧に、いたみいります」

 雰囲気が家庭的でもの柔らかだ。
 おそらくは五十代ほど。彼女は、働きやすさ重視のためか洋装だった。
 それでも黒を基調とするロングスカートにブラウスとカーディガン、目立ぬよう気を配りながらもシックな装いで、いい具合に邸に溶け込んでいる。さすがだった。

 先ほど『僕』と言葉をあらためた篁も、ここではにやりと片頬を緩める。

「お世話。ふうん。は、彼女をどのように?」
「篁さんっ!」

「どう――そうですね。率直に申し上げて、夢中でいらっしゃるかと」

「やっぱり」
「ああぁ……」

 歩きながらも顔を覆ってしまう。何てこと。
 ――どうしよう。これは、ある意味針のムシロではと覚悟した。けれど。

 吉野の歩みがぴたりと止まる。優しげなまなざしのままで見つめられた。しかも、深々とお辞儀をされる。
(!?)
 湊は慌てふためいた。触れることもできず、中途半端に手を伸ばす。

「よ、吉野さん? なぜ」

「――貴女様のおかげで、律さんはそれはもう、生き生きとなさってくださいましたから」


「わた、し……?」

 一条、光のように閃いた。
 先日、公園で告げられた言葉。

 『湊さんが居てくれたからだよ』と。

 吉野は姿勢を直し、片目を瞑って人差し指を口に当てた。そうすると途端に人懐こく、お茶目に映る。

「要らぬことを申し上げました。律さんにはご内密に」

「は、はい」

 ――……そういえば。
 湊が疑問に思うと同時に、篁のほうが先に吉野に訊ねる。

「ところで律君はどこに? 花見会に合わせて帰省すると聞きましたが」

「あぁ。それこそ内緒だと、かなり念を押されましたから。あちらです」

「えっ、弓場?? まさか自宅に?」

「えぇ」

 ころころと吉野が笑う。

「今年は大旦那様と弓比べをなさるのだと。それは真剣にご両親に掛け合って。急拵きゅうごしらえではありますがあのように」
 
「……急拵え? あれが……?」
「左門家ってすごいな」

 細い脇道の終着点は広々とした夜の中庭だった。
 中央に樹齢百年のしだれ桜がはらはらと花枝を揺らす。幻想的な光景に見るものを誘う。
 見惚れるのも束の間、焦点はその奥へと結ばれた

 今はまだ無人。
 まるで能舞台のように篝火の灯りで照らされた弓場がある。

 ざわざわと、すでに通された人びとも例年とは違う趣に、それぞれ話に花を咲かせているようだった。

 ――――開始まではまだ時間がございます。
 飲食や暖をとられるのでしたら、そちらから控えの間にお入りを、との声を、夢見心地で聞いた。



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