桜並木の、その下で

汐の音

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寒明けの章

7 急転直下

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 りつと二人、連れだって店を出て、雪でしなる松の枝を避けて駐車場へと向かう。そこに喜恵きえの姿はなかった。

「え……あれ? 律君。おばあ様は?」

 客用の四台分のスペースはもぬけのから。律はうーん、と唸っている。

「置いてかれたっぽい」

「……っぽい、て。そんな。じゃあ」

 申し訳なさが天井知らずに上がってゆく。コートのポケットから車のキーを取り出したみなとは、もうすぐ大学生になる男子高校生の顔を見上げた。

「えぇと。送りましょうか。迎えに来てくれて……ありがとう」

「どういたしまして」

 ふ、と微笑んだ顔がいつも通り。いつものやり取りで、つられて湊も口許がほころぶ。
 そこでようやく、ずっと頬がこわばっていたのだと知った。



   *   *



 “み”の従業員用駐車場は店の裏手にあり、経営者である加納かのう家の庭にある。
 家と店舗が庭を挟んで本宅と離れの様相をなしており、規模はどちらも同じくらい。外観も似ている。

 家屋に隣接する簡易ガレージに停まっているのは早苗の車。空いているのは勤務中の早苗の夫用のスペース。
 雪に埋もれてけなげに花を付けた山茶花の生け垣の内側。庭の隅に、湊の白い車がある。

 冬の夕暮れはすでにそこまで迫り、辺りはいっそう冷え始めていた。

「どうぞ」

「うん」

 声かけは最少に。動作も最小で両者、すみやかにドアを開けて乗り込む。
 エンジンをかけて、温風を出せるようになるまでは少々時間がかかる。
 頭のなかで律の家までの地図を描きながら、はぁ、と手に息をかけて助手席に視線を流した。

「ごめんね。寒いけどちょっと待って」

「……」

 律はじっと前を向いて固まり、答えない。
 聞こえなかったのかと、再度声をかける。

「律君?」

「! あ、いや、うん。ちょっと考えごとを…………あー……でもいいか。すみません、やっぱり無理。ちょっといい? 湊さん」

「は、はい??」

 パチン、とシートベルトを外した律は、身体ごと運転席に向いた。ゆるく握った左手はカーナビのあたりに置いている。

 湊の自動車は運転席と助手席が繋がっているシートタイプのため、そうするとかなり距離が近くなる。

 音漏れがしそうで、カーラジオもかけていない。外の雪が白く浮かび上がりそうなほの暗さのなか、エンジン音だけが響く車内に、世界中で二人きりになってしまったような錯覚すら覚える。――急に、密室なのだと意識してしまった。

 さりとて、あからさまに身構えることもできず、両手は膝の上。縫い止められたようにぴくりとも動けない。

 律は、逃れようのない真摯さを込めて囁いた。


「あのひと。湊さんの?」
「……っ……」


 ――――隠そうかな、と。

 一瞬でも考えた自分の狡さと往生際の悪さを自嘲して、湊は口角をあげた。苦笑のたぐいだ。さらに観念して目を瞑る。

「前の、主人です。見つかっちゃった……みたい、……で……」

「! 湊さん」

「あ、や。ごめん。……ごめんね、謝ってばっかりだね、私。律君にはこんなこと、関係ないのに」


 ――――なぜか。
 涙がこぼれてしまい、そのことも。律に見られたことも、聞かれたこともすべて。
 今この瞬間、何もかもが申し訳なくて居たたまれない。

(ごめん。いい大人なのに)

 そう告げようとして、両手で涙を拭おうとしたとき。
 左の手首をやさしく捕らえられた。自由な右手は、そのぶん左右の頬を拭うのに忙しい。目が熱い。

「律く――」
「関係、なくない。いい加減覚えて。俺はあなたが好きだってこと。誰にでも、何度だって言えるのに」

「!!」

 ばくん! と胸が跳ねた。
 比喩ではなく息が止まる。
 しくじった。どうしよう。
 どう言えば、わかってもらえる? このひとに。

(――ふさわしくない。このひとに、私は)

 心に刻んだ言葉が思いのほか痛くて、湊は顔を歪めた。

 あつい。
 熱くてつらい。目も。身体も。拒否したい。受け入れてしまいたい。そのどちらもが真実。
 狂おしくてあふれる。止まらない――!

 湊は、頑是がんぜない子どものように首を横に振った。

「離して」

「いやだ」

「お願い、わかって。律君には、ふさわしいひとがもっとたくさんいるでしょう? 私は、ここに来て、あなたにたくさん助けてもらった。居場所をもらえた。それで充分なの」

「それが本心? ほんとうに?」

「な」

 下を向いていたのに覗き込まれた。
 至近距離で。年下の未成年に何てこと……!?!?

(いやいや。本当に待って。どうして右手も掴みにかかるの)
 顔は涙でぐちゃぐちゃだ。
 ただでさえ、ちっとも大人らしくないのに。
 、必死に顔をそむけた。なのに、なぜ、この子は離れてくれないのか。

 律の溜め息が耳から首筋を掠める。
 びくっとする。

「……湊さん、今、自分がどんな顔してるかわかる?」

 やけに、身体に響く声で問われた。
 湊は眉をひそめ、ばくばくと煩い心臓を放置して自棄やけのように答える。

「みっともない顔」

「不正解。めちゃくちゃ相手に我慢を強いる、可愛い顔です。我慢やめてもいい?」

「――は?」

 理解が及ぶまで時間がかかった。
 今、なんて?

 信じられない。大人をからかうのもいい加減にしてほしい。そう食ってかかりたかったのに。


 ――

 ――……

 ――…………本当、やめてほしい。

 どうしてこの子、また勝手にキスするんだろう。



 荒れ狂う胸の中身なんて考えたくない。抵抗できない。どころか。
 それが、かなり道を踏み外した感のある悦びで、夏に一度だけ触れたときよりも激しく、深いものだったから。


(~~!!!!)

 腹いせに、舌が離れた隙に下唇を甘噛みしたら、余計に吐息を奪われた。



   *   *



 市道を走ること三十分弱。
 右の角を曲がれば左門さもん邸という頃合いで車を寄せる。カチ、カチ、とハザードを点灯させた。

「……どうぞ」


 あのあと、強引に(どっちが?)車を発進させる旨を伝えてシートベルトを着用させた。
 シートベルトが運転者の安全をこうも確保できるものだと初めて知った。
 どんな顔をすればいいのかわからない。それで、そっぽを向いたまま律に下車をうながす。

 が。

「湊さん」
「……なんですか」

 呼ばれたら答えないと。染み付いた習性で応じると、さらりと言われた。

「俺、本気です。大学在学中でもよければプロポーズしたいくらい。最短で稼げるように、在学中から親父の会社で下積みバイトします。卒業後すぐ、即戦力の正社員になれるように」

「――あ、あの」

「キスして、わかりました。湊さん、俺のこと嫌いじゃないでしょう? 結婚を前提に付き合ってください」

「!!!!?!?」

 ぱくぱくと口を開け閉めする湊に、「念押しのためにもう一回します?」と、伺う律。

 結構です、と伝えるのがやっとだった湊は、あざやかな笑顔を残して助手席から降りる律を見つめた。
 なぜか、口許を押さえて。

「り」

「お休みなさい。気をつけて帰ってくださいね。心配だから、無事についたら教えて。俺、元亭主だろうと誰だろうと、負けません」

「………………はい」


 西空はうっすらと茜の気配、東には細く白い三日月。
 街灯の明かりがともり始める。
 住宅地だ。歩行者の影は律以外にない。

 勤務後の木嶋きじまとの再会から急転直下。
 どうしてこんなことに。

「これは……大丈夫なの? 倫理的にだめじゃない?? 絶対、ご家族総員体制で反対なさるんじゃ」

 つい、口からこぼれた独り言に。
 唇に触れたとき、甦った感触に。

(……)
 とにかく、なるべく心を無にして家路につこうと決意した。


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