桜並木の、その下で

汐の音

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初暁の章

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 好きだよ、と言われて。
 私もですよ、とは。

 ――状況が状況なので、なかなか言えない。

 後悔というのも少し違う。言えば良かったのか、言わずに済んで良かったのか。どちらとも言いがたいこの気持ちが。

 人生の表舞台を去った人間に、はたして相応ふさわしいものだろうか? と。
 みなとは、繰り返し考える。



   *   *



「呆れた。まだ答えてないの」

「うっ」

 りつに庭掃除を手伝ってもらった翌日、月曜日。
 粛々と進む職業訓練の休憩は十分間。

 湊は、以前までは女性受講者のグループに混じっていたが、最近はなぜかたかむらと一対一で過ごすことが増えていた。
 仲間外れ…………、ではないと思う。

(勘弁してください)
 内心複雑ではあったが、篁のほうから「瀬尾せのおさん、さっきのとこ、わかった?」などと名指しで爽やかに近づかれては、を察した周囲の大人女子が、さぁぁ……と引けてゆくのも分からなくはない。

 例えるならば磁石のSとS。
 そんな、並み居るS極女子を余裕で蹴散らかすS極男子・篁裕一ゆういちは、艶のある声を低めてさらに「意気地無し」と追い込む。

 ――立つ瀬がない。
 というより、今日は移動教室がないので窓際の席に座ったままだ。篁は窓の下に設置してある箱状の暖房機の端に腰かけ、悠然と腕を組んでいる。
 湊は、ぼそぼそと反論した。

「だって、答えようがありません。……かれも、踏み込んでは来なくなりました。意思表示はされますが」

「意思。あぁ、『好きです』とかは言われてんだね」

「!」

 図星過ぎて、ぎょっとした。何気なさ過ぎて刺さる。
 思わず素直ストレートに息を飲んでしまった湊に、篁がにやにやと悪い表情かおをした。

「ってことは、ちゃんと会ってるんだ。へぇ。辛うじて前進ってことにしておこうか。よしよし。よく頑張りました」

「!! ……え。あのっ??」

 超弩級ちょうどきゅうに驚いた。たいへん良い笑顔の篁に、やさしく頭を撫でられている。
 湊は表情筋も忙しく目を白黒させた。
(いやいや。友人としてもあるまじき接触――ですよね、これ?)
 篁がくすくすと機嫌よく喉を震わせる。

「あの子の気持ちわかるなぁ。瀬尾さん、可愛いから。いじりたくなる」

「篁さん。冗談はそれくらいで」

 ――他の受講者さん達もいます。
 怖くて周りを見渡せないが、みんな意図して距離を置いてくれているようにしか思えない。

 それに、自分は可愛くはない。可愛がられるもない。そこだけは、はっきりさせようと眉間にしわを寄せ、頭上の手を押しやった。

「おっと」

 簡単に退けてくれた手は、一本一本が節の目立つ男のひとっぽい太い指。表面はさらり、と乾いて温かかった。

(! しまった)
 不覚にも、自分から触れてしまったことに思ったより動揺する。
 対する篁はどこ吹く風。いっこうに変化がない。湊の戸惑う気配は受け流し、飄々ひょうひょうと呟いた。

「オレ、瀬尾さんのこと気に入ってるよ。できれば好きな奴とちゃんと幸せになってほしい。そこは全力で応援するけど、『口説かない』とは言ってないから。なびいてくれたら、それはそれで楽しいかなって」

「呆れた。それ、二枚舌って言いません?」

 休憩時間の最初にドヤ顔で掛けられた言葉を、形を変えてそのまま投げ返す。
 篁はやはり、フフッ、と笑って受け流した。

「確かめてみる?」
「勘弁してください」

 先ほどからの心の声も漏れてしまった。

 ――――これ、すごく高度なセクハラなのでは。
 そう思い始めた矢先、換気のためにひらかれたドアが閉まり、次の講義の先生が入室した。







 講義の終了後。
 ひらひらと手を振って帰宅の途につく篁を会釈で見送ったあと。
 手荷物をまとめて、ふぅ、と吐息。重たい鞄を肩に掛けて席を立つと、既婚女性四名が一所ひとところに集まり、和気あいあいと話に興じているのが見えた。手元にはテキストではなく、スマホや手帳が広げられている。

 ドアの手前ということもあり、湊は「お疲れさまでした」と頭を下げて通り過ぎる。
 すると。

「あっ、瀬尾さんも。良かったら、住所交換しない?」

「住所?」

 小首を傾げた湊に、声をかけた女性がにこにこと手のひらサイズの手帳を取り、顔の横で振って見せた。

「せっかく、こうして一緒に勉強し合う仲になったわけだし。けっこう、みんな仲いいから。景気付けに年賀状とか送りたいし、試験が終わったら新年会を兼ねた打ち上げでも企画しようかなって」

「あぁ、なるほど。そういうことでしたら」

 お邪魔します、とやんわり告げて輪に加わった。
 湊は四名分の住所を書き付けたメモをもらい、ご婦人がたは何かと雰囲気が華やかな湊の連絡先を楽しそうに写しとる。
 ご婦人、といっても、声をかけてくれた女性もまだ三十代半ばのはず。
 彼女達が醸し出す、いわゆる女学生風の空気に湊はおっとりと微笑んだ。

(お年賀状……か。送りたいひとはいるけど。さて、どうしよう)

 行き先も告げず、あとにした。
 秘密裏に抜け出すため、見送りさえなかった。そんな気遣いと慌ただしさに紛れて逃げ出すしかなかった、さきの住まいに。

 義母であり、養母でもあった恩人の老女将。あのひとは――……大丈夫だろうか。
 自分が消えて、周囲の耳目は否応なく集まったろう。いくら小さくとも古参の旅館にとって、若女将が消えたとなれば醜聞でしかない。

(送れるかな。せめて無事だけでも。女将ったら、このご時世にスマホも携帯すら持ってないんだもの。…………番頭さん、さすがに勧めてくれたかしら)

 とりとめのない過去へ、少しだけ前向きになった気持ちを抱きつつ。
 湊は今度こそ「失礼します」と、柔和な笑顔で退室した。


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