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8話~新たなロータリーマシン~
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日曜日。JR武蔵野線に揺られ、目的地へ向かう少年が一人。
「えーっと……最寄り駅は新座だっけか。深央ちゃんも結構遠いところから学校来てるんだな」
時刻は朝七時半頃。午後からの部活に間に合わせるため、彼は弘也にお願いして早めの時間にしてもらったのだ。
(どんなクルマに乗せてもらえるんだか……分からないから楽しみだ)
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「……南口はこっちか」
無事新座駅に着いた俺は、改札を抜けて南口のロータリーへ。先程弘也さんに連絡はしてあるので、時間的にもそろそろ迎えに来てくれるはずだが……。
と、スポーツサウンドが風に乗って聞こえてきた。この音は……VTECか?
ロータリーに入ってきた黄色のマシンを見て、俺は予想が的中したことを知る。その車は俺の目の前に止まり、そして助手席の窓が開いた。そこから、運転席の弘也さんが俺に声を掛けてくる。
「やあ、聖夜君。待ったかな?」
「いえ、ドンピシャですよ。……今日はインプじゃないんですね」
「インプは次のレースの為にちょっといじってるんだ。だから、今日は母さんのクルマを借りてきたんだよ」
「あ、これ沙羅さんのクルマなんですか……なんか凄いっすね」
俺は改めて目の前のクルマ……EK9シビックを見る。黄色いボディに無限とスプーン製のエアロ、黒いカーボンフード……そして白いRAYSのホイールを履いたこのクルマは、どう見ても明らかに手が込んでいる。当然中身もライトチューン程度で済んでいるわけ無いだろうし、女の人がこういうのに乗っているというのはちょっと想像が……。
……いや、そういえばうちの担任とかハチロク姉妹とかそうだったわ。別に女性の走り屋だって居ないわけじゃない。昔に比べるとかなり減ったとは思うけど。
「そんじゃ、お邪魔します」
俺は助手席のドアを開ける。すると、後席から深央ちゃんがひょっこり顔を出してきた。
「昨日ぶりですね、先輩」
「お、深央ちゃんも来てたんだな。おはよう」
「はい、おはようございます。荷物後ろで預かりますか?」
「いや、ウエストポーチだから平気だよ。ありがとな」
俺が彼女と挨拶しているうちに、シビックRは走り出す。
……そこで、ふと気付いた。
「あれ、これB16Bじゃないのか……?」
「おや、よく気付いたね」
走り出しのフィーリングに違和感を持った俺に、ご名答とでも言いたげに笑いながら弘也さんは言った。
「エンジンは換えてあるんだ。今このクルマに載っかってるのは、K20A……DC5インテRのエンジンだよ」
「ああ、2リッターのVTECですか」
それなら納得である。やはり、テンロクと2リッターでは低回転時のトルクが違うのだ。
「でも過給器は付いてないですよね、このクルマ。どのくらいパワー出てるんですか?」
「うーん……多分、300以上は出てるかな」
「メカチューンでそれだけ出るのか……恐るべしホンダのエンジン」
ホンダ車に乗る機会こそあまり無いが、VTECの凄さはとうに知っている。それでもなお、やはり恐ろしい。
「NAのフィーリングも、ターボとはまた違って良いですねー……深央ちゃんもそう思う?」
「はい。ターボは鋭い加速が魅力ですけど、NAはNAで高回転の伸びが気持ち良いですもんね」
「分かってるじゃーん」
そんな楽しそうな会話をしながら、俺らは奏城モータースへと向かうのだった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「うわー、いっぱいクルマありますね……これじゃ忙しいでしょう?」
「まあそうだね。この時期は心機一転してクルマを持つ人も多いから、こればっかりは仕方ないんだけど」
外に置いてあったクルマは七台程。それにプラスして、奏城モータースのデモカーであるZ33、そしてスープラが置いてある。
「今回乗ってもらうのはここにあるクルマじゃないよ。中に置いてあるんだ」
「あ、そうなんですか。……というか、そろそろ教えて下さいよ」
「まあまあ、それは家の中で話そう」
入りなよ、と弘也さんが開けてけれた玄関の扉を通り、俺は奏城家へ。ちなみに、ここは作業場と家が同じ敷地内にある。よって敷地はかなりデカい。
「お邪魔します」
「お母さん、ただいまー」
深央ちゃんが奥にそう声を掛ける。すると、ひとりのロングヘアーの女性が歩いてきた。
「おかえりなさい。聖夜君もお久し振りね」
「ご無沙汰してます、沙羅さん」
この人は奏城沙羅さん、深央ちゃんの母親だ。母娘揃ってかなりの美人である。
「リビングへどうぞ。飲み物は何が良い?」
「えっと、じゃあブラックコーヒーを」
「私はカルピス欲しいなー」
「はいはい、深央のも用意するわよ」
深央ちゃんに促されるまま、俺は席に着く。深央ちゃんがその隣に座り、遅れてやって来た弘也さんは向かいに座った。
俺と弘也さんの前にコーヒーが置かれ、俺はカップを手に取って一口。そして、軽く笑いながら問う。
「……それで、今日は一体どのようなご用事なのでしょうか?」
「そうだね……」
弘也さんは考える素振りをして、同じくコーヒーを飲む。そしてカップをテーブルに置くと、俺の方へと向き直った。
「まあ、単刀直入に言おうか。……聖夜君、もう一台クルマを持つ気はあるかい?」
「えっ、もう一台……?」
あまりにも唐突なその言葉。弘也さんの真意を図りかねていると、彼は続けて言う。
「実は、君に貰って欲しいクルマがあってね。もちろんお金はいらないよ。……といっても、持ったら維持費とかはかかるけど」
「無料で……確かに凄いありがたいですけど、頂くかどうかはクルマにもよりますよ。弘也さんが下手なクルマを寄越すわけない、とは分かっていますけど」
「ははっ、それはもちろん実車を確認してもらってからだよ」
それにしても驚いた。まさかこんな事になるとは……無料でということ自体にまず驚きだが、そもそも一体何故なのだろうか。
「それじゃあ、見に行くかい?」
「そう……ですね。お願いします」
「分かった。車種は見てからのお楽しみってことで」
弘也さんが立ち上がり、俺もその後に続く。深央ちゃんはどうするのかと思ったが、どうやら彼女も付いて来るようだ。
俺らは、家のすぐ隣にあるガレージへ。例によってここもかなり大きい。
「ここにあるんですか?」
「うん。……すぐ分かると思うよ」
「すぐ分かる……」
俺はガレージ内を見渡す。銀のランエボ、白のNBロードスター、青のS15、そして赤のRX-8……。
「……ん?」
途端、強い既視感に襲われた。思わず、俺はもう一度そのクルマを見つめる。
待て、まさかあのRX-8は……!
俺は無意識にその赤いクルマへ近付く。パっと見で分かるマツダスピード製のフロント、リアバンパーとサイドフェンダー、そしてGTウイングにカーボンフード……。
やはりこのクルマは……。
「まさか、父さんの……?」
「ああ。君のお父さん……純さんのRX-8だ」
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
しばらく無言だった。弘也は真っ直ぐRX-8に視線を向け、深央は聖夜の方を心配そうに見つめている。
ようやく、聖夜が口を開いた。
「どうして、ここに?」
「……あの日、このクルマはここで整備中だったんだ。次のレースの為のギア比、及びサスストロークの変更で」
「……そうか。そういえば、あの時家には母さんのクルマしか無かった」
「……それで純さんは、日頃から『このクルマは息子にあげるつもりだ』と言っていた。だから私は、聖夜君に貰って欲しい、と。まあ、そういうことなんだ」
重々しい口調で二人は話す。そこでふと、聖夜は疑問に思うことがあった。
「……政府には何て言ったんですか? 普通なら強制的にでも持っていかれるのに……」
「……純さんの遺言書だ。そこにも、車を含めた全財産を聖夜君に譲ると書かれてあった」
「遺言書……そんなものが」
彼には初耳であった。
(……いや、でもおかしい。四十代の人間が、死ぬことを見越して遺言書?……まさか、殺されることが分かっていたというのか?)
彼の思考はさらに深くなっていく。……しかし。
「……聖夜先輩?」
「っ、ああごめん。何かな?」
「いえ、すごく険しい顔をしていたので……」
深央の一言で聖夜は我に返る。彼は慌てて笑みを作り、彼女に笑いかけた。
「ああ、何でもないんだ。別に気にしないで……」
「……あの、先輩」
だが、深央はそれを無視して聖夜を見つめる。その眼差しは真剣だ。
「……その、実は私、先輩があの月影家の人だってこと知っているんです。このクルマの事を聞いたときに、それも一緒に聞きました」
「……そう、なのか」
「はい。……でも、私はそんな事情は気にしませんから。私にとっての先輩は変わりません」
そんな深央の言葉に、はっと気付いたような顔になる聖夜。そして彼が思い出したのは、昨日の鈴嶋家での自身の発言。
『……そんな色眼鏡で見られたくないんです』
(……もしかして俺は、友人に離れて欲しくなかったからあの事件を隠していたのか? 俺が隠していたのは、ただ自分が思い出したくなかったからじゃなかったのか?)
しばらくして、彼は呟く。俺はなんて馬鹿なんだ、と。他人である深央が気付いているのに、自分で自分の感情に気付かないなんて、と。
(もう少し強くなったと思ってたんだけどな……やっぱり、どこかにそういう気持ちが残ってたんだ)
孤独は嫌だ、という気持ち。これは、聖夜や瀬那が人以上に経験している感情だ。そして、聖夜はそれを乗り越えたと思っていた。
しかし、現実はそうではなかったようだ。それだけではなく、こうして他人に気を遣わせてしまってもいる。
聖夜は、無意識に深央の頭へと手を伸ばしていた。
「……ありがとな。そう言ってくれると本当に助かるよ」
「当たり前じゃないですか。どんな過去があったんだとしても、先輩は先輩なんです。今更その見方を変えるつもりなんてありません」
まるで聖夜の悩みをも分かっているかのように言う深央。しかし、聖夜はこれに救われる。
「……それに、先輩は悩んでいる場合じゃありませんよ? このクルマをどうするか決めないと!」
「……ああ、そうだな」
明るく言った深央に、聖夜もようやく自然な笑みを浮かべた。そうだ、今悩むべきは過去の事ではない。
「……弘也さん」
「……聖夜君、決めたのかい?」
「はい。……俺、このクルマ欲しいです」
「そうか、よく言ってくれた。……それじゃ、少し書類を書いてもらおうかな」
その言葉に聖夜は頷き、もう一度RX-8を見た。傷一つなく、しかも磨かれたその赤いボディ。弘也がずっと手入れをしてきたのだ。聖夜は心で、そのことに感謝する。
「それじゃ、戻ろうか」
「……はい」
そして、聖夜は思うのだ。
(これからよろしくな、RX-8。……父さんと叔父さんのクルマで、俺は亡きあの人達に追いついてみせる)
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「……はい。これでオッケーだよ」
「ありがとうございます。……でも、これだけで大丈夫なんですか?」
「これは相続品じゃなくて、中古車の扱いだからね。聖夜君も、面倒なことにはしたくないだろう?」
「確かにそうですね。……とりあえず、これで終わりですか」
再びリビングに戻り、俺は差し出された書類に書き込んだ。中古車を買うときに書く書類である。
「ああ。……そうだ。まだ時間もあるし、少しこの辺りを走ってみる?」
「あ、シェイクダウンしていいんですか?」
「もちろん。少しずついじっているから、聖夜君が知っている純さんのRX-8とはまたちょっと違うだろうし」
これは嬉しい。午後の部活はRX-8で行こうとさっき決めたが、とにかく早く乗ってみたくて仕方無いのだ。
「ありがとうございます。えっと、今すぐにでも行きたいんですが……」
「はい、鍵はこれだよ。あと、私も乗っていいかな?」
「もちろんですよ」
俺は弘也さんから鍵を受け取る。そこに付いているキーホルダーは、父親が付けていたものと同じだ。思わず、俺はそれを握り締める。
「あの、先輩」
すると、申し訳なさそうに深央ちゃんが声を掛けてきた。俺は慌てて笑みを作る。
「ん、どうした?」
「えっと、私も連れて行ってもらえないでしょうか」
「まあ、別に良いけど……連れて行くったって、そこらへんを回るだけだよ?」
「それでも行きたいんです。後学の為に、というのもありますし」
そうか、深央ちゃんにはそういう考えがあったのか。
「それなら断る理由も無いな。じゃあ、深央ちゃんもおいで」
「はい、ありがとうございます!」
こうして深央ちゃんも加わることになり、俺らは再びRX-8の元へと向かった。
「深央ちゃん、後ろで良いか?」
「はい。あれ、ドアどうやって開けるんだろ……」
「深央、RX-8のドアは観音開きだよ」
「あっ、忘れてた……」
「ははっ、よくあることだって。俺も初めて乗った時には同じ反応したわ」
恥ずかしそうにしている深央ちゃんに、俺はそう言って微笑む。実際、一回だけでなく何回かやらかしたことがある。
とまあそんな事はさておき、俺も運転席へと乗り込む。バケットシートもインパネ周りも、俺の知っているままだ。
エンジンをかけると、FDとは異なるロータリーサウンドが耳を震わせた。
「FDと比べるとステアリング重いですね……あとミッションが6速だから、慣れるまで少し時間かかりそうです」
そんな俺の呟きに頷く弘也さん。そして、俺はクラッチを繋ぎRX-8のシェイクダウンに出る。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
それから数分後、俺は奏城モータース周辺をRX-8で走り回っていた。
「このクルマって、確かスーパーチャージャー付いてましたよね?」
「うん、そうだよ。純さんが途中で付けたんだ」
「ですよね。何馬力出てますか、これ?」
「そうだね……400、といったところかな」
400か……と呟く。FDより100馬力ほど低いが、しかしスーチャーのおかげで低速トルクが強く、それほど差は感じられない。
すると、深央ちゃんが唐突に話しかけてきた。
「ねえねえ先輩」
「なんだ?」
「先輩って、やっぱりロータリーエンジンが好きなんですか?」
その問いに、俺は少し驚いた。そんなこと考えたことも無かったな……。
とはいえ、好きでなければ乗ってなどいない。街乗りじゃただの大食いなだけだし。
「……まあ、好きだよ。シャープなフケ上がりもそうだし、エンジン自体が軽いっていうのも魅力だからね」
「ふむふむ……勉強になります」
「おっと、今のは俺の個人的意見だよ? まあ多分、ロータリー乗りはみんな同じ事言うと思うけど」
それにしても、と。
「さっきこのクルマに乗りたいって言ってた時もそうだったけど、勉強熱心だな。やっぱり将来はメカニック志望か?」
「そうですね。今のところは」
そう答えた彼女に迷いは見られない。今のところは、なんて言っているが、実際ほとんど決まっているのだろう。
「先輩はどうなんですか? 進路とか」
「俺か? 一応、いくつかあるけど……」
聞き返され、俺は正直に答えようとする。……が、寸前で気付いた。
音楽系に進む可能性もあることは言っちゃマズいな。なんでそうなるのか聞かれた時に、上手く答えられる気がしない。『Luna』のことがバレたら元も子もないし。
「……まず一つ目は、プロドライバーになること。ま、これは相当厳しいだろうけどな」
「先輩ならいけると思いますけど……一つ目ってことは、まだあるんですか?」
「ああ。もう一つは……看護師、かな」
「看護師……ですか?」
「ああ。女性のイメージが強いとは思うけど、男性の看護師だって増えてきてるしな」
ちなみに、これはまだ他人にはほとんど言っていないことである。
「へえー……でも、なんで看護師なんですか?」
「人をコミュニケーションを通して手助けしたいんだ。看護師は心のケアをする人……って、うちの母親も言ってたし」
理由がすらすらと出てきて、自分でも結構驚いた。……しかし、これが俺の本心なのだろう。
あとは音楽の道、な。これはあまり可能性の無いものだが。
「先輩も結構決まってるんですねー……先輩がレーサーになったら、私そのメカニックしたいなあ」
「もしそうなったら、むしろこっちからお願いしたいくらいだよ」
「えへへ……」
バックミラー越しに可愛らしく微笑む深央ちゃん。そんな後輩女子の頭を手を後ろにやって撫でようかと、割と本気で悩んでいると。
「おっと……!」
ギアを4速に入れるはずの左手が何故か一番左下へと移動し、急にエンジンが吹け上がる。……間違って3速から2速に入れてしまった。幸い回転はそれほど上げていなかったので特に問題は起こらず、俺は慌てて4速へと入れ直す。
弘也さんが笑いながら言った。
「5速車に慣れてるとよくやることだよ」
「いやー、お恥ずかしい。なんていうか、こう……3速でもシフトノブが左に傾いてるから、2速の方にするっと入っちゃいました」
すると、深央ちゃんも冗談めかして言う。
「せんぱーい、ここがサーキットなら大惨事でしたよー?」
「うっ、まあ確かにエンジンブローしてたかもしれないしな……」
「ですです。これからは気を付けてくださいね?」
「了解。……って、年下の子にこう言われちゃ立つ瀬がないや」
それにしても「ですです」って……今の深央ちゃんはあざとさ全開だった。……つーか、今の言葉遣いは素じゃないはずだ。
「ふふっ、私も車を持つようになったら気を付けないとですねー」
「これ以上傷を抉るのやめない? ってか、やっぱり持つならMT車?」
「当たり前ですよ。MTじゃなきゃ楽しくないですもん」
「まあ、そうだな。俺も同意見だわ」
あざとさ云々は一旦頭の片隅へ追いやり、俺は会話を続ける。
「欲しいクルマとかはあるのか?」
「娘の特権としてうちのデモカーもらいます。やっぱりスープラかなあ……」
「おいおい……いいんですか、弘也さん?」
「……まあ、それくらいならね。元々最初の車は買ってあげるつもりだったし」
太っ腹ですね、と俺は笑いながら言った。すげえな、娘の為にデモカーあげちゃうのか……中々の親バカっぷりである。
「でも、本当は先輩と同じFD3Sが欲しいんです。うちには無いから諦めてますけど……」
「機会が無いものでね……中古車でも結構高いから、RX-7を買おうとは思わないんだよ」
残念そうに言う深央ちゃんと、困った様子の弘也さん。確かにFDは中古車市場でもかなり高い方だ。しかしそれなら……。
「FDか……なら、伝手を使って安く買うことは出来ますよ。それを弘也さんがデモカーにすれば、いずれ深央ちゃんも乗れますよね?」
「……それって、結局深央の為のクルマってことになるんじゃないかな」
「まあ、そうですね。だから、クルマの代金くらいは俺が払いますよ。将来有望なメカニックに対しての先行投資として」
「それはデモカーとは言わないが……そういうことなら、確かにやってみたくはあるね。聖夜君達のおかげでセブンの自作パーツも増えてきたし」
おっと弘也さん、乗り気ですね。恐らくメカニックとしての興味と、父親としての娘への愛があるからだろう。
「なら決まりですね。状態の良いやつを見繕って、八月くらいには納車してもらえるようにしておきます」
「深央が乗るクルマにしては、それは納車が早すぎないかい? この子が免許を取れるのは約二年後だよ」
「改造の時間もそうですし、深央ちゃんが乗る前に何回かテストしておいた方が良いじゃないですか。俺、テスターになりますよ?」
「ああ、なるほど。聖夜君がテスターなら安心だね」
そう言って頂けるとはありがたい。ってか、帰ったら早速探しておこう。
すると、深央ちゃんが驚いたように言う。
「えっ、先輩にクルマ買っていただけるんですか? しかも、先輩が私のクルマをシェイクダウンしてくれるんですか?」
「気が早いよ。まあ、その通りなんだけども」
苦笑しながらそう言うと、深央ちゃんは満面の笑みを浮かべた。
「やったあ!」
「こら、耳元で騒がない」
とか言ってみるが、とりあえず可愛いなおい。
……やばい。後輩女子に『可愛い』という言葉しか出てこないのは、かなり末期な気がする。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
なんだかんだで奏城モータースに戻って来た俺は、弘也さん達との談話もそこそこに帰る支度を始めた。
とは言っても特に荷物があるわけでも無いのですぐ終わり、俺は今ガレージにいる。奏城家の三人も一緒だ。
「先輩、部活頑張ってくださいね」
「おうよ。……そういや、深央ちゃんは入る部活は決めた?」
言うと、彼女は微笑を浮かべて答えた。
「剣道部……って答えて欲しいですか?」
「いやいや、そんな意図は無いよ。正直に答えてくださいな」
「そうですねえ……バスケ部かバドミントン部、かな?」
「ほー……まあ、部活見学で決めるといいよ。どちらも楽しいってクラスメートが言ってたからさ」
「はいっ」
そんな深央ちゃんに軽く微笑んでから、俺はRX-8に乗り込んだ。そして、窓を開けて弘也さん達に挨拶をする。
「それじゃ、お邪魔しました。またいずれ来ます」
「ええ。また来てね」
「こちらこそ来てもらってありがとう。……ああそうだ」
弘也さんが屈んで、空いた窓に顔を寄せてきた。
「聖夜君、このクルマで何か変えたいパーツとかはあるかい?」
「あー、そうですね……」
言われてこのクルマの外観を思い出し、変えたいところがあるかを考えてみる。
……あ、一つだけあった。
「このマツダスピードのホイールも良いですけど、俺はRAYSのも欲しいです。TE37の……黒で」
「了解。Sタイヤと一緒に仕入れておくよ」
「ありがとうございます。代金はまた今度来た時で」
そして今度こそ別れの挨拶を済ませ、俺は部活をしに学校へと向かうのだった。
ちなみに、学校の駐車場付近で凛音を含む剣道部員に鉢合わせし、あれこれ質問攻めにされたのはまた別の話。
「えーっと……最寄り駅は新座だっけか。深央ちゃんも結構遠いところから学校来てるんだな」
時刻は朝七時半頃。午後からの部活に間に合わせるため、彼は弘也にお願いして早めの時間にしてもらったのだ。
(どんなクルマに乗せてもらえるんだか……分からないから楽しみだ)
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「……南口はこっちか」
無事新座駅に着いた俺は、改札を抜けて南口のロータリーへ。先程弘也さんに連絡はしてあるので、時間的にもそろそろ迎えに来てくれるはずだが……。
と、スポーツサウンドが風に乗って聞こえてきた。この音は……VTECか?
ロータリーに入ってきた黄色のマシンを見て、俺は予想が的中したことを知る。その車は俺の目の前に止まり、そして助手席の窓が開いた。そこから、運転席の弘也さんが俺に声を掛けてくる。
「やあ、聖夜君。待ったかな?」
「いえ、ドンピシャですよ。……今日はインプじゃないんですね」
「インプは次のレースの為にちょっといじってるんだ。だから、今日は母さんのクルマを借りてきたんだよ」
「あ、これ沙羅さんのクルマなんですか……なんか凄いっすね」
俺は改めて目の前のクルマ……EK9シビックを見る。黄色いボディに無限とスプーン製のエアロ、黒いカーボンフード……そして白いRAYSのホイールを履いたこのクルマは、どう見ても明らかに手が込んでいる。当然中身もライトチューン程度で済んでいるわけ無いだろうし、女の人がこういうのに乗っているというのはちょっと想像が……。
……いや、そういえばうちの担任とかハチロク姉妹とかそうだったわ。別に女性の走り屋だって居ないわけじゃない。昔に比べるとかなり減ったとは思うけど。
「そんじゃ、お邪魔します」
俺は助手席のドアを開ける。すると、後席から深央ちゃんがひょっこり顔を出してきた。
「昨日ぶりですね、先輩」
「お、深央ちゃんも来てたんだな。おはよう」
「はい、おはようございます。荷物後ろで預かりますか?」
「いや、ウエストポーチだから平気だよ。ありがとな」
俺が彼女と挨拶しているうちに、シビックRは走り出す。
……そこで、ふと気付いた。
「あれ、これB16Bじゃないのか……?」
「おや、よく気付いたね」
走り出しのフィーリングに違和感を持った俺に、ご名答とでも言いたげに笑いながら弘也さんは言った。
「エンジンは換えてあるんだ。今このクルマに載っかってるのは、K20A……DC5インテRのエンジンだよ」
「ああ、2リッターのVTECですか」
それなら納得である。やはり、テンロクと2リッターでは低回転時のトルクが違うのだ。
「でも過給器は付いてないですよね、このクルマ。どのくらいパワー出てるんですか?」
「うーん……多分、300以上は出てるかな」
「メカチューンでそれだけ出るのか……恐るべしホンダのエンジン」
ホンダ車に乗る機会こそあまり無いが、VTECの凄さはとうに知っている。それでもなお、やはり恐ろしい。
「NAのフィーリングも、ターボとはまた違って良いですねー……深央ちゃんもそう思う?」
「はい。ターボは鋭い加速が魅力ですけど、NAはNAで高回転の伸びが気持ち良いですもんね」
「分かってるじゃーん」
そんな楽しそうな会話をしながら、俺らは奏城モータースへと向かうのだった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「うわー、いっぱいクルマありますね……これじゃ忙しいでしょう?」
「まあそうだね。この時期は心機一転してクルマを持つ人も多いから、こればっかりは仕方ないんだけど」
外に置いてあったクルマは七台程。それにプラスして、奏城モータースのデモカーであるZ33、そしてスープラが置いてある。
「今回乗ってもらうのはここにあるクルマじゃないよ。中に置いてあるんだ」
「あ、そうなんですか。……というか、そろそろ教えて下さいよ」
「まあまあ、それは家の中で話そう」
入りなよ、と弘也さんが開けてけれた玄関の扉を通り、俺は奏城家へ。ちなみに、ここは作業場と家が同じ敷地内にある。よって敷地はかなりデカい。
「お邪魔します」
「お母さん、ただいまー」
深央ちゃんが奥にそう声を掛ける。すると、ひとりのロングヘアーの女性が歩いてきた。
「おかえりなさい。聖夜君もお久し振りね」
「ご無沙汰してます、沙羅さん」
この人は奏城沙羅さん、深央ちゃんの母親だ。母娘揃ってかなりの美人である。
「リビングへどうぞ。飲み物は何が良い?」
「えっと、じゃあブラックコーヒーを」
「私はカルピス欲しいなー」
「はいはい、深央のも用意するわよ」
深央ちゃんに促されるまま、俺は席に着く。深央ちゃんがその隣に座り、遅れてやって来た弘也さんは向かいに座った。
俺と弘也さんの前にコーヒーが置かれ、俺はカップを手に取って一口。そして、軽く笑いながら問う。
「……それで、今日は一体どのようなご用事なのでしょうか?」
「そうだね……」
弘也さんは考える素振りをして、同じくコーヒーを飲む。そしてカップをテーブルに置くと、俺の方へと向き直った。
「まあ、単刀直入に言おうか。……聖夜君、もう一台クルマを持つ気はあるかい?」
「えっ、もう一台……?」
あまりにも唐突なその言葉。弘也さんの真意を図りかねていると、彼は続けて言う。
「実は、君に貰って欲しいクルマがあってね。もちろんお金はいらないよ。……といっても、持ったら維持費とかはかかるけど」
「無料で……確かに凄いありがたいですけど、頂くかどうかはクルマにもよりますよ。弘也さんが下手なクルマを寄越すわけない、とは分かっていますけど」
「ははっ、それはもちろん実車を確認してもらってからだよ」
それにしても驚いた。まさかこんな事になるとは……無料でということ自体にまず驚きだが、そもそも一体何故なのだろうか。
「それじゃあ、見に行くかい?」
「そう……ですね。お願いします」
「分かった。車種は見てからのお楽しみってことで」
弘也さんが立ち上がり、俺もその後に続く。深央ちゃんはどうするのかと思ったが、どうやら彼女も付いて来るようだ。
俺らは、家のすぐ隣にあるガレージへ。例によってここもかなり大きい。
「ここにあるんですか?」
「うん。……すぐ分かると思うよ」
「すぐ分かる……」
俺はガレージ内を見渡す。銀のランエボ、白のNBロードスター、青のS15、そして赤のRX-8……。
「……ん?」
途端、強い既視感に襲われた。思わず、俺はもう一度そのクルマを見つめる。
待て、まさかあのRX-8は……!
俺は無意識にその赤いクルマへ近付く。パっと見で分かるマツダスピード製のフロント、リアバンパーとサイドフェンダー、そしてGTウイングにカーボンフード……。
やはりこのクルマは……。
「まさか、父さんの……?」
「ああ。君のお父さん……純さんのRX-8だ」
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
しばらく無言だった。弘也は真っ直ぐRX-8に視線を向け、深央は聖夜の方を心配そうに見つめている。
ようやく、聖夜が口を開いた。
「どうして、ここに?」
「……あの日、このクルマはここで整備中だったんだ。次のレースの為のギア比、及びサスストロークの変更で」
「……そうか。そういえば、あの時家には母さんのクルマしか無かった」
「……それで純さんは、日頃から『このクルマは息子にあげるつもりだ』と言っていた。だから私は、聖夜君に貰って欲しい、と。まあ、そういうことなんだ」
重々しい口調で二人は話す。そこでふと、聖夜は疑問に思うことがあった。
「……政府には何て言ったんですか? 普通なら強制的にでも持っていかれるのに……」
「……純さんの遺言書だ。そこにも、車を含めた全財産を聖夜君に譲ると書かれてあった」
「遺言書……そんなものが」
彼には初耳であった。
(……いや、でもおかしい。四十代の人間が、死ぬことを見越して遺言書?……まさか、殺されることが分かっていたというのか?)
彼の思考はさらに深くなっていく。……しかし。
「……聖夜先輩?」
「っ、ああごめん。何かな?」
「いえ、すごく険しい顔をしていたので……」
深央の一言で聖夜は我に返る。彼は慌てて笑みを作り、彼女に笑いかけた。
「ああ、何でもないんだ。別に気にしないで……」
「……あの、先輩」
だが、深央はそれを無視して聖夜を見つめる。その眼差しは真剣だ。
「……その、実は私、先輩があの月影家の人だってこと知っているんです。このクルマの事を聞いたときに、それも一緒に聞きました」
「……そう、なのか」
「はい。……でも、私はそんな事情は気にしませんから。私にとっての先輩は変わりません」
そんな深央の言葉に、はっと気付いたような顔になる聖夜。そして彼が思い出したのは、昨日の鈴嶋家での自身の発言。
『……そんな色眼鏡で見られたくないんです』
(……もしかして俺は、友人に離れて欲しくなかったからあの事件を隠していたのか? 俺が隠していたのは、ただ自分が思い出したくなかったからじゃなかったのか?)
しばらくして、彼は呟く。俺はなんて馬鹿なんだ、と。他人である深央が気付いているのに、自分で自分の感情に気付かないなんて、と。
(もう少し強くなったと思ってたんだけどな……やっぱり、どこかにそういう気持ちが残ってたんだ)
孤独は嫌だ、という気持ち。これは、聖夜や瀬那が人以上に経験している感情だ。そして、聖夜はそれを乗り越えたと思っていた。
しかし、現実はそうではなかったようだ。それだけではなく、こうして他人に気を遣わせてしまってもいる。
聖夜は、無意識に深央の頭へと手を伸ばしていた。
「……ありがとな。そう言ってくれると本当に助かるよ」
「当たり前じゃないですか。どんな過去があったんだとしても、先輩は先輩なんです。今更その見方を変えるつもりなんてありません」
まるで聖夜の悩みをも分かっているかのように言う深央。しかし、聖夜はこれに救われる。
「……それに、先輩は悩んでいる場合じゃありませんよ? このクルマをどうするか決めないと!」
「……ああ、そうだな」
明るく言った深央に、聖夜もようやく自然な笑みを浮かべた。そうだ、今悩むべきは過去の事ではない。
「……弘也さん」
「……聖夜君、決めたのかい?」
「はい。……俺、このクルマ欲しいです」
「そうか、よく言ってくれた。……それじゃ、少し書類を書いてもらおうかな」
その言葉に聖夜は頷き、もう一度RX-8を見た。傷一つなく、しかも磨かれたその赤いボディ。弘也がずっと手入れをしてきたのだ。聖夜は心で、そのことに感謝する。
「それじゃ、戻ろうか」
「……はい」
そして、聖夜は思うのだ。
(これからよろしくな、RX-8。……父さんと叔父さんのクルマで、俺は亡きあの人達に追いついてみせる)
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「……はい。これでオッケーだよ」
「ありがとうございます。……でも、これだけで大丈夫なんですか?」
「これは相続品じゃなくて、中古車の扱いだからね。聖夜君も、面倒なことにはしたくないだろう?」
「確かにそうですね。……とりあえず、これで終わりですか」
再びリビングに戻り、俺は差し出された書類に書き込んだ。中古車を買うときに書く書類である。
「ああ。……そうだ。まだ時間もあるし、少しこの辺りを走ってみる?」
「あ、シェイクダウンしていいんですか?」
「もちろん。少しずついじっているから、聖夜君が知っている純さんのRX-8とはまたちょっと違うだろうし」
これは嬉しい。午後の部活はRX-8で行こうとさっき決めたが、とにかく早く乗ってみたくて仕方無いのだ。
「ありがとうございます。えっと、今すぐにでも行きたいんですが……」
「はい、鍵はこれだよ。あと、私も乗っていいかな?」
「もちろんですよ」
俺は弘也さんから鍵を受け取る。そこに付いているキーホルダーは、父親が付けていたものと同じだ。思わず、俺はそれを握り締める。
「あの、先輩」
すると、申し訳なさそうに深央ちゃんが声を掛けてきた。俺は慌てて笑みを作る。
「ん、どうした?」
「えっと、私も連れて行ってもらえないでしょうか」
「まあ、別に良いけど……連れて行くったって、そこらへんを回るだけだよ?」
「それでも行きたいんです。後学の為に、というのもありますし」
そうか、深央ちゃんにはそういう考えがあったのか。
「それなら断る理由も無いな。じゃあ、深央ちゃんもおいで」
「はい、ありがとうございます!」
こうして深央ちゃんも加わることになり、俺らは再びRX-8の元へと向かった。
「深央ちゃん、後ろで良いか?」
「はい。あれ、ドアどうやって開けるんだろ……」
「深央、RX-8のドアは観音開きだよ」
「あっ、忘れてた……」
「ははっ、よくあることだって。俺も初めて乗った時には同じ反応したわ」
恥ずかしそうにしている深央ちゃんに、俺はそう言って微笑む。実際、一回だけでなく何回かやらかしたことがある。
とまあそんな事はさておき、俺も運転席へと乗り込む。バケットシートもインパネ周りも、俺の知っているままだ。
エンジンをかけると、FDとは異なるロータリーサウンドが耳を震わせた。
「FDと比べるとステアリング重いですね……あとミッションが6速だから、慣れるまで少し時間かかりそうです」
そんな俺の呟きに頷く弘也さん。そして、俺はクラッチを繋ぎRX-8のシェイクダウンに出る。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
それから数分後、俺は奏城モータース周辺をRX-8で走り回っていた。
「このクルマって、確かスーパーチャージャー付いてましたよね?」
「うん、そうだよ。純さんが途中で付けたんだ」
「ですよね。何馬力出てますか、これ?」
「そうだね……400、といったところかな」
400か……と呟く。FDより100馬力ほど低いが、しかしスーチャーのおかげで低速トルクが強く、それほど差は感じられない。
すると、深央ちゃんが唐突に話しかけてきた。
「ねえねえ先輩」
「なんだ?」
「先輩って、やっぱりロータリーエンジンが好きなんですか?」
その問いに、俺は少し驚いた。そんなこと考えたことも無かったな……。
とはいえ、好きでなければ乗ってなどいない。街乗りじゃただの大食いなだけだし。
「……まあ、好きだよ。シャープなフケ上がりもそうだし、エンジン自体が軽いっていうのも魅力だからね」
「ふむふむ……勉強になります」
「おっと、今のは俺の個人的意見だよ? まあ多分、ロータリー乗りはみんな同じ事言うと思うけど」
それにしても、と。
「さっきこのクルマに乗りたいって言ってた時もそうだったけど、勉強熱心だな。やっぱり将来はメカニック志望か?」
「そうですね。今のところは」
そう答えた彼女に迷いは見られない。今のところは、なんて言っているが、実際ほとんど決まっているのだろう。
「先輩はどうなんですか? 進路とか」
「俺か? 一応、いくつかあるけど……」
聞き返され、俺は正直に答えようとする。……が、寸前で気付いた。
音楽系に進む可能性もあることは言っちゃマズいな。なんでそうなるのか聞かれた時に、上手く答えられる気がしない。『Luna』のことがバレたら元も子もないし。
「……まず一つ目は、プロドライバーになること。ま、これは相当厳しいだろうけどな」
「先輩ならいけると思いますけど……一つ目ってことは、まだあるんですか?」
「ああ。もう一つは……看護師、かな」
「看護師……ですか?」
「ああ。女性のイメージが強いとは思うけど、男性の看護師だって増えてきてるしな」
ちなみに、これはまだ他人にはほとんど言っていないことである。
「へえー……でも、なんで看護師なんですか?」
「人をコミュニケーションを通して手助けしたいんだ。看護師は心のケアをする人……って、うちの母親も言ってたし」
理由がすらすらと出てきて、自分でも結構驚いた。……しかし、これが俺の本心なのだろう。
あとは音楽の道、な。これはあまり可能性の無いものだが。
「先輩も結構決まってるんですねー……先輩がレーサーになったら、私そのメカニックしたいなあ」
「もしそうなったら、むしろこっちからお願いしたいくらいだよ」
「えへへ……」
バックミラー越しに可愛らしく微笑む深央ちゃん。そんな後輩女子の頭を手を後ろにやって撫でようかと、割と本気で悩んでいると。
「おっと……!」
ギアを4速に入れるはずの左手が何故か一番左下へと移動し、急にエンジンが吹け上がる。……間違って3速から2速に入れてしまった。幸い回転はそれほど上げていなかったので特に問題は起こらず、俺は慌てて4速へと入れ直す。
弘也さんが笑いながら言った。
「5速車に慣れてるとよくやることだよ」
「いやー、お恥ずかしい。なんていうか、こう……3速でもシフトノブが左に傾いてるから、2速の方にするっと入っちゃいました」
すると、深央ちゃんも冗談めかして言う。
「せんぱーい、ここがサーキットなら大惨事でしたよー?」
「うっ、まあ確かにエンジンブローしてたかもしれないしな……」
「ですです。これからは気を付けてくださいね?」
「了解。……って、年下の子にこう言われちゃ立つ瀬がないや」
それにしても「ですです」って……今の深央ちゃんはあざとさ全開だった。……つーか、今の言葉遣いは素じゃないはずだ。
「ふふっ、私も車を持つようになったら気を付けないとですねー」
「これ以上傷を抉るのやめない? ってか、やっぱり持つならMT車?」
「当たり前ですよ。MTじゃなきゃ楽しくないですもん」
「まあ、そうだな。俺も同意見だわ」
あざとさ云々は一旦頭の片隅へ追いやり、俺は会話を続ける。
「欲しいクルマとかはあるのか?」
「娘の特権としてうちのデモカーもらいます。やっぱりスープラかなあ……」
「おいおい……いいんですか、弘也さん?」
「……まあ、それくらいならね。元々最初の車は買ってあげるつもりだったし」
太っ腹ですね、と俺は笑いながら言った。すげえな、娘の為にデモカーあげちゃうのか……中々の親バカっぷりである。
「でも、本当は先輩と同じFD3Sが欲しいんです。うちには無いから諦めてますけど……」
「機会が無いものでね……中古車でも結構高いから、RX-7を買おうとは思わないんだよ」
残念そうに言う深央ちゃんと、困った様子の弘也さん。確かにFDは中古車市場でもかなり高い方だ。しかしそれなら……。
「FDか……なら、伝手を使って安く買うことは出来ますよ。それを弘也さんがデモカーにすれば、いずれ深央ちゃんも乗れますよね?」
「……それって、結局深央の為のクルマってことになるんじゃないかな」
「まあ、そうですね。だから、クルマの代金くらいは俺が払いますよ。将来有望なメカニックに対しての先行投資として」
「それはデモカーとは言わないが……そういうことなら、確かにやってみたくはあるね。聖夜君達のおかげでセブンの自作パーツも増えてきたし」
おっと弘也さん、乗り気ですね。恐らくメカニックとしての興味と、父親としての娘への愛があるからだろう。
「なら決まりですね。状態の良いやつを見繕って、八月くらいには納車してもらえるようにしておきます」
「深央が乗るクルマにしては、それは納車が早すぎないかい? この子が免許を取れるのは約二年後だよ」
「改造の時間もそうですし、深央ちゃんが乗る前に何回かテストしておいた方が良いじゃないですか。俺、テスターになりますよ?」
「ああ、なるほど。聖夜君がテスターなら安心だね」
そう言って頂けるとはありがたい。ってか、帰ったら早速探しておこう。
すると、深央ちゃんが驚いたように言う。
「えっ、先輩にクルマ買っていただけるんですか? しかも、先輩が私のクルマをシェイクダウンしてくれるんですか?」
「気が早いよ。まあ、その通りなんだけども」
苦笑しながらそう言うと、深央ちゃんは満面の笑みを浮かべた。
「やったあ!」
「こら、耳元で騒がない」
とか言ってみるが、とりあえず可愛いなおい。
……やばい。後輩女子に『可愛い』という言葉しか出てこないのは、かなり末期な気がする。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
なんだかんだで奏城モータースに戻って来た俺は、弘也さん達との談話もそこそこに帰る支度を始めた。
とは言っても特に荷物があるわけでも無いのですぐ終わり、俺は今ガレージにいる。奏城家の三人も一緒だ。
「先輩、部活頑張ってくださいね」
「おうよ。……そういや、深央ちゃんは入る部活は決めた?」
言うと、彼女は微笑を浮かべて答えた。
「剣道部……って答えて欲しいですか?」
「いやいや、そんな意図は無いよ。正直に答えてくださいな」
「そうですねえ……バスケ部かバドミントン部、かな?」
「ほー……まあ、部活見学で決めるといいよ。どちらも楽しいってクラスメートが言ってたからさ」
「はいっ」
そんな深央ちゃんに軽く微笑んでから、俺はRX-8に乗り込んだ。そして、窓を開けて弘也さん達に挨拶をする。
「それじゃ、お邪魔しました。またいずれ来ます」
「ええ。また来てね」
「こちらこそ来てもらってありがとう。……ああそうだ」
弘也さんが屈んで、空いた窓に顔を寄せてきた。
「聖夜君、このクルマで何か変えたいパーツとかはあるかい?」
「あー、そうですね……」
言われてこのクルマの外観を思い出し、変えたいところがあるかを考えてみる。
……あ、一つだけあった。
「このマツダスピードのホイールも良いですけど、俺はRAYSのも欲しいです。TE37の……黒で」
「了解。Sタイヤと一緒に仕入れておくよ」
「ありがとうございます。代金はまた今度来た時で」
そして今度こそ別れの挨拶を済ませ、俺は部活をしに学校へと向かうのだった。
ちなみに、学校の駐車場付近で凛音を含む剣道部員に鉢合わせし、あれこれ質問攻めにされたのはまた別の話。
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