スクリーム・ノート

藤沢凪

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十頁 兎 壱 『兎咲美穂』

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十頁
 
兎 壱
 
『兎咲美穂』
 
 この世界は、狂っている。

 人いうのは、謀り、心のその奥底を見せる事叶わず生きているんだ。

 僕は、絶望した。この世の中に絶望していたんだ。

 だから、自分の身体を傷付ける事でしか生きている意味を見出せない。

 昨日も、自傷行為を繰り返して、この身体から流れる血を眺める事でやっと、騒ぎ立つ心を鎮める事が出来たんだ。

 僕は、いつまでも迷いの渦中に居る。

 今日も誰とも喋らず、放課後を迎えた。

 腕の傷を眺めながら、夕焼けの鮮やかなオレンジ色が、夜の闇に溶けていく様を見送った。

 いつもは小鳥君か僕かが最後まで残っているのだが、何曜日とは決まっていないようではあるけれど、週に三日程はすぐに教室を出る小鳥君。今日はその日だったようだ。それ以外は僕と小鳥君が最後の二人になる。その時は譲ってあげる様にしている。最後の一人という称号を。

 今日は僕が最後の一人になるのだろう。それでも教室には、僕を除く四人が居座っていた。

 何をしているのか? 早く帰ってくれないと、僕が帰れないじゃないか。

 あっ、三上君と天羽君が帰り支度をし始めた。確か二人は、女神と天使等と呼ばれていたな。

 恥ずかしくは無いのかな? よりによって女神と天使だなんて。でも否定をしないという事は、その呼び名を受け入れているという事になる。

 心の中では、そんな呼ばれ方をされ愉悦に浸っているのだと思うと、嫌悪の様な感情さえ湧いてくる。

 天羽君とは一年の時に同じクラスで、あまり群れない者同士よく会話を交わした記憶がある。

 その時は、天使などというあだ名も本人に向けられる事は無かったのではっきりとは言えないが、きっと彼女は変わってしまった。

 我の強そうな三上君とつるむ様になり、まるで自分が強くなったかの様に勘違いしてしまっているのだろう。全く、恥ずかしい女だ。

 きっと僕と交わした会話もとうに忘れてしまって、それどころか、僕の様な孤立している奴と友達だった事を見破られない様に過ごしているのだろう。

 友達だった事をって……あの子にとっては友達ですら無かったのだろう。それは、僕のあの子に対する未練を表していた。もうあの子にとって僕は関わり合いたくなど無い存在であって——

「あっ、み、みほちゃんさよなら」

 えっ? ぼ、僕? ち、違うよね。他にみほって奴がいるに違いない。

 僕は何も言えずに、三上君と共に教室を後にする天羽君を見送った。

 か、完全に僕を見つめている。そして、寂しそうな顔をして視界から消えていった。あ、あ、あ、アァァァァァァァァア!

 天羽君は、何も変わってなどいなかった。こ、こんな僕に別れの挨拶までしてくれたのに、僕は、あらぬ疑いを掛けてシカトしてしまった。

 愚かだ。この心は醜くて仕様がない。

 僕は、この世界が嫌いだと思っていたのだけれど、本当は、自分に自信が持てない僕自身が大嫌いだったんだ。

 こんな夜は、一人になりたい。独りで、自分自身と向き合っていたいんだ。

 だから、後の二人には早く帰ってもらいたいものだ。

 確かあの二人は、猫宮君と犬養君と言ったかな? 別にクラス全員の名前を覚えている訳じゃない。ただ、このクラスにはやたらと動物の入る名前が多かったので、僕もその一人なので覚えてしまっていた。

 二人は、僕が見えていないのか? 大声で揉め始めた。

「何で言った通りの事が出来ないの!」

 お母さんか。

「うぅぅぅ、ごめんなさい」

 子供か。

「ただ三上さんって言うだけの事がなんで出来ないの!」

 何で三上さんって言わせたいの?

「そ、それが出来たら猫だって苦労しないんだよぉ」

 何で三上さんって言えないの?

「ほら今言ってみなよ、三上さんって、ほら! 三上さんは!」

 もう猫宮君泣いてるんだから許してあげなよ……

「わんちゃんの分からず屋! 鬼! わんちゃんなんか死んじゃえ!」

 子供か。本当に死んだら悲しいくせに。

「もう知らない! 一人で勝手にやってりゃいいじゃん」

 あっ、突き放した。

「うえぇぇぇぇぇん。うぅぅぅ、うえぇぇぇぇぇん」

 だから子供かって。

「せっかく楽しみにしてたのに」

 楽しみにしてたって何? 犬養君はバッグを持って一人で出て行ってしまった。

 ちょっと! こんな子一人残して帰んないでよ! こんなに泣いてるし可哀想だな。話し掛けた方が、いいのかな? いや、やめておこう。

 今日は、猫宮君がクラスに残った最後の一人だよ。

 バッグを持って、いまだ机に突っ伏して泣いている猫宮君の後ろを通り帰ろうとした。

 すると、こちらの動向を把握していたのか? 身体の芯から凍てつく様な声色で語りかけてきた。

「見てた?」

 僕は、一瞬で身動きが取れなくなってしまい、猫宮君の方を向いた。めっちゃこっちを見てた。

「あー、声は聞こえたけど、よく分かんなかったな」

 僕というのは、謀り、その心の奥底を見せる事叶わず逃げようとしていた。

「じゃあ、聞いて欲しいんだよ」

 き、聞いて欲しいのか……

「今日は、帰るよ」

 失言だった。

 「今日は」何て言ってしまったら、明日以降付き纏われてしまうかもしれないじゃないか!

「今日、聞いて欲しいんだよ」

 本日付けで付き纏われる事となってしまった。

「わ、分かったよ。何の話しなの?」

 明日以降に厄介事を持ち越すよりも、今日話しを聞いてしがらみを無くした方が最善なのだと自分に言い聞かせた。

「ね、猫ね、女神の事が好きなの。この想いを、伝えたいんだよ」

 えっ、そんな話しだったのか。恋愛相談か……女子高では、ましてや僕には縁の無いものだと思っていたな。

「そっか……辛いのだろうね。僕はまだ、恋をした事は無いから」

 人を好きになる感情とはどういうモノなのだろう? それに夢中になって、その地位を無くしたり、犯罪にまで繋がってしまう事例をテレビで見てきた。

「猫は、今日告白をしようとして、出来なかったんだよ。自分の意気地の無さが、大嫌いなんだよ!」

 その返事が怖くて躊躇ってしまう事は、意気地が無いとは言わないと思う。

 僕だって、今日教室を出る天羽君に何も言えなかったのは、天羽君に迷惑が掛かるかもしれないと思ったからだ。

 本当は違う人にさよならを言ったのに、僕が反応してしまったら、僕と仲が良いのかと思われてしまうと思った。

 そうすると、今のあの子の地位を揺るがしかねない。猫宮君も多分同じだ。

 今自分が告白してしまえば、女神の学園生活に支障を及ぼしてしまうかもしれないと思ったのだろう。

「大丈夫だよ。この世界の中で、君だけが辛い訳じゃない! 僕も今日、好きな人の気持ちを蔑ろにしてしまったんだよ」

 人を好きになるという事は、相手の気持ちも慮ってあげる事だと思う。

 だから、猫宮君が告白出来なかったのは、相手の不利益になる状況だったから出来なかったのではないだろうか。

 そんな事にまで気が回る猫宮君を、一体誰が責められるというのか!

 あれっ? 違う! 僕は、恋愛感情という事では無く、天羽君を同性として好きだと思っただけなんだ!

「あなたも恋の悩みを抱えていたんだね。辛かったね」

 さっきまであんなにガキ臭かった癖に、いきなり母親の様な優しさと包容力を醸し出すんじゃない!

「ずっと自分を騙していたんだ! 本当はあの子の事が好きなのに、言える筈なんてないから、勝手にあの子を悪者にしたり、嫌いだと思い込む様にして、素直な自分の想いに目を向け無い様にしていたんだよ!」

 何だこれは! ボロッボロボロッボロと今まで匿ってきた想いが溢れ出していく。

 そうか、僕自身も気付かない様にしていた。僕は、天羽佑羽の事が好きだった。

「やめるんだよ!」

 僕は、彼女の制止する声も聞かず自傷行為を繰り返した。

 そんな僕に、彼女は近付いて手を取ってくれた。

「アトピーは、掻いたら良くないんだよ」

 涙が、溢れてきた。僕の愚かな自傷行為を止めてくれた。僕に、生きていて欲しいと言ってくれている気がした。

「う、うぅぅう、うわぁぁぁぁぁん」

「引っ掻き過ぎて血まで出てるんだよ。異常なんだよ。痒くても掻かないで我慢すれば良くなるんだよ」

「僕は! とても醜くて、もう、繕えないよ……」

「へっ? ちゃんと話しを聞いてるの? 爪で引っ掻くのをやめて、痒い時は撫でて我慢するんだよ。そうすれば今は荒れて醜いけれども良くなるんだよ」

 こんな醜い心も、いつかは良くなるよと、彼女は僕の目を見て言ってくれた。素直に嬉しかった。

「ありがとう。この心が、今救われた気がするよ」

 こんな気持ち初めてなんだ。誰かと悩みを共有し、慰め合えるだなんて……

 僕らはもう、友達だ。

 己の弱い部分を共に曝け出せた僕達は、もう友達になっていたんだ。

 猫宮君が近付いて来たので、ちょっとだけ気持ち悪いなとは思ったものの、受け入れてハグをした。

 すると猫宮君は、僕の左の耳をペロッと舐めた。

「はぁぁぁああっ! 何してんの? 何してんの? 何してんの?」

 僕は猫宮君を突き放した。

「ニアァ、な、何か、何かその耳の形が、いつも後ろから眺めている女神の耳に似ているんだよぉ」

 こ、この人は、何を言っているんだ?

「だ、だからって、僕の耳を舐める事無いじゃないか。ははっ」

 僕は、何とかこのくだりを冗談にして済ませられないかと思い、カラッカラに乾いた笑いさえ付け足した。

「ご、ごめんよぉ。もう、しないからねぇ」

 そう言うと、猫宮君はまたハグをしてこようとした。騙されたと思って、乗ってみた方がいいのか……

「ほらぁ、騙されたと思って」

 絶対騙す気だよこの人! 騙そうとしていない人はそんな事言わないよ! で、でも、で、でも……

 分かんない! 分かんないよ! こんな状況、今まで観てきた大量のアニメの中にも無かったんだから、対処方が分かんないよ!

 何も考える事は出来ず、騙されたと思ってハグしてみたら、やっぱり騙された。

 一度口の中に耳を全部咥えられて、ハァハァ言いながら舌を這わせて来た。

「ウゥン、イヤァァァァァァァァァァン」

 あぁ、嫌だ! こんな、女の子みたいな声が出てしまうなんて……猫宮君をもう一度突き放した。

「アァァァァァァァァアッ! き、気持ち良かったのに! な、何で突き飛ばすのぉぉ?」

 な、何でって……当たり前の反応じゃ無いかな?

「嫌だから突き飛ばしたんだよ。こんな事をされたら、誰だって嫌がるよ! 分からないのかな?」

「あぁ、あ? あんなに、気持ち良さそうな声出してた癖に」

「勘違いだよ! 気持ち良い訳が無いだろ! それに、そ、そういう事は、好きな人とやる事だよ」

 僕は、お子ちゃまで、そういうえっちな行為というのをあまり蓄え無い様にしていた。

 好きな人が出来て、付き合ったりなんかしたら、自然に身を任せようというスタンスだった。

「えぇぇぇぇえ?」

 何が物珍しいのか? 猫宮君は僕に訝しげな目を向けた。

「今みたいな事は、好きな人とする事なんだよ? 君は、三上君が好きなんだろ? それじゃあ三上君以外の人と、そんな事しちゃいけないよ」

「ね、猫は、猫は……」

 猫宮君は、僕をおいでおいでと手招いた。改心したのだと思い、騙されたと思って近付いてみた。

「ね、猫はね? 猫は、気持ち良ければ、誰だっていい」

「ヒィィィィィィィィイッ!」

 猫宮君は近付いてきた僕の肩を掴んだ。目はバッキバキで、とても話しが通じる状況では無いと確信した。

 僕も猫宮君の肩を掴んだ。何だコレは!

 女子高の教室で放課後、女子が二人取っ組み合っている。

 片方は犯そうと、もう片方は犯させまいと。

「ウゥアリャァァァァァァァア」

 僕は、大声で相手の気を引き、右足で猫宮君の足を払った。猫宮君は体勢を崩し、後ろの机の角に勢いよく頭をぶつけた。

「ニャァァァァァァァァァァァァァァァア!」

 怒号の様な鳴き声を上げて、猫宮君はにゃあにゃあ言いながら床でのたうち回った。

 僕は、息が切れていて、片膝をついて呼吸を整えようとした。

「アガァァァァ、アァアァ、イタァイ。イタァァァァァァア」

 とても痛かったと思う。耐えられない痛みが、今彼女を襲っているのだろう。

「ニィアァァァァァァァァア、イタ、イタ、イタァァア、あっ? あれっ? あれぇ? あはぁあ、こ、これ、女神の机だあああ。い、いい、良ィィィイ! う、う、う、嬉しぃぃぃぃぃぃぃ」

「はっ? はっ……ヒィィィィィィィィィィイッ!」

「ダバァァァァメ、め、女神の机だぁあ、アハァッ、アハ、アハ、アハァァア」

「イヤァァァァァァァァァァン」

 僕は、心臓がバクバク鳴って、脳に酸素が正常に回っていなかった。

 それでも、一歩ずつ、一歩ずつ、女神の机に夢中な猫宮君から逃れる為に教室の外まで向かった。

 教室の外に出て、しっかりと立ち上がり教室内を見てみると、猫宮君は三上君の机の足をべろべろ舐めていた。

 僕は何度も転びながら、全速力で廊下を駆けて逃げ帰った。
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