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第87話 ジャックパンチ→エンカウント

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「……」

 夕食を終えて風呂から出たリンカは少しだけそわそわしていた。
 居てもたっても居られず、隣の部屋を隔てる壁まで行くと寄って耳をつける。

「ケンゴ君。まだ帰ってないわよ~」

 歯を磨く母からの言葉に、ビクッと猫のようにリンカは跳ねた。

「な、な、なんの事でしょうか!」
「さぁ~なんの事かしら~」

 スタスタと脱衣所にある洗面に向かうセナ。リンカは、うー、となんとも言えない表情で母を睨む。

「……もう、今日は無理か」

 冷蔵庫に入れた一食分の肉じゃがを一度見る。出来れば今日食べて欲しかったが、仕事が長引いているのかまだ帰って来ない。

「……」

 LINEで状況を聞こうとも考えたが、それは話しかけるのと同じであると気づき、連絡は滞った。

「……あ、そうだ。ヒカリに先輩との事を言っとかなきゃ」

 その時、カリカリと玄関扉で音がした。リンカは疑問詞を浮かべながら扉を開けると誰もいない。しかし、足元に心地よい感触が。

「ジャック」

 猫のジャックはリンカにすり寄ると室内に入って来る。

「何しに来たの」

 ふんふん、と冷蔵庫に鼻を向けるジャック。リンカはお腹が空いていると察し、牛乳を取りだした。

「あ、こら。それはダメ」

 ラップの肉じゃがへ顔を近づけたジャックを抱えて阻止。危なかった。
 牛乳を皿に入れて電子レンジで温める。その間もジャックはリンカの足元にすり寄っていた。

「……ジャック~あんたのせいでね~」

 と、こんな事になっている現況に説教しようと持ち上げる。じっと見つめ返すジャック。その人畜無害な様にリンカは毒気を抜かれた。

「……あんたのせい……じゃなくて、おかげか」

 意図しなかったとは言え、関係を変える一歩を踏み出す事が出来たのは、この小さな先住民のおかげだ。
 ジャックを優しく降ろすと、人肌に温まったミルクを地面に置いてあげた。

「取りあえず、お礼ね」

 リンカはミルクを飲むジャックに優しく微笑むと、母と交代で洗面所へ歯を磨きに行く。





「何か悪いな」
「こちらが誘った手前、何とも言えませんな」
「いや、気にすんなって。助かったのはこっちだ」

 居酒屋の支払いは全てオレが持った事に加賀とヨシ君は申し訳なさそうにしている。

「まぁ、転勤の件で社長から金一封でたからな。こんくらいどうってことねぇのよ」
「ほほー。いくら貰ったんだ?」
「100万」
「うお?! それマジか!?」

 獅子堂課長から、ケンゴから見ての転勤の価値は値段だといくらだ? と聞かれ、100万くらいですね、と適当に答えたら本当に100万振り込まれてた。

「人生で一番ミスったかもしれん……」

 1000万とか言ってたら本当に振り込まれていたのだろうか? 少々興味がある所である。

「マジか。そんな飴があるなら俺も立候補してみるかな」
「? なんかあるのか?」
「なんでも、海外支部とこっちで人員を交換派遣するんだと」
「確か各課から代表者を出すとのことですな。4課は対象外でしたが」
「それ初めて聞いたわ」

 まさかそんな話が出ていたとは。

「そりゃ、3課はお前か鬼灯先輩が候補だろ」
「鉄板ですな。しかし、お二方を越える人材ならば、海外支部でも通用するでしょう」
「そりゃあな……」

 まだ二ヶ月前まで、こことは違う土地にいた。違う言葉に違う人種。小さなオフィス。両手で数えきれる人員で上手く行かない事もあったが、一つ一つが成功する度に皆で喜んだっけか。
 帰る頃にオフィスも人員も倍になって、オレが居なくなっても十分に機能するレベルにまで安定していた。

「なんだ? あっちが恋しいのか?」

 加賀の言葉にオレの表情はあちらを懐かしんでいたらしい。

「無いと言えば嘘になるけどな。でも仕事も軌道に乗ったし、オレよりも仕事が出来るヤツが行く方がいいだろ」
「確かにスキルは必要ですが、それ以上に場に溶け込む協調性が一番重要ですぞ」
「仲間と連携が取れない方がマズイしな」

 困った時に助けて助けられる様に声を出すことも働く上では必要なスキルだ。恥ずかしいと言う理由で声を渋っては、生産性が落ちる一方だろう。

「向こうは皆気の良いヤツらばかりだよ。スキンシップもいちいち派手だしな」
「ほほう。興味ありますな」
「例えばどんな?」
「ハグとキスは挨拶だ」
「マジ? 日本には無い文化だな」
「マジマジ。それと――」

“えー! ニックス、帰るのデスカ~! そんなの急過ぎネ!”

 ふと、帰る事が仲間に告げられた日の夜に世話になっていた同僚に言われた事を思い出した。

「それと?」
「あ……ああ。何かとカロリーの高い食べ物が多いから、運動的な事をしないと半年でピザる」
「生活習慣病が凄そうですな」
「実際、メタボリックシンドロームが社会問題だしな」

 オレもマックスの勧めでサンボを運動がてら始めたが、結構楽しかったな。





「ほら、ジャック。帰りなさいって」

 あたしは、食べる物を食べたジャックを逃がそうと扉を開けていた。
 これから就寝なので朝まで部屋に閉じ込めてしまう事を考えると外に放してあげた方が良い。
 しかし、ジャックはあたしを見てすり寄るばかりで中々外に出ようとしない。

「ふふ。ジャックも今日はリンちゃんと寝たいのよ」

 布団を引く母は欠伸をしながら寝る準備を整える。あたしは根負けし、仕方なしにジャックを泊めてあげる事にした。

「夜中に出たくなっても知らないからね」

 あたしがそう言うとジャックは、なんだとぉ、と行きたげにニャーと鳴いた。

 布団。枕元に横になるジャック。暗転。就寝。あたしはジャックをしばらく撫でていたが眠気によっていつの間にか眠りについていた。



「んん……」

 しかし、次にあたしは頭を軽くネコパンチするジャックに強制起床をさせられた。

「もー、なに……」

 身体を起こすとジャックは、たーと走って玄関扉をカリカリカリする。時間を見ると眠ってから二時間ほどしか経っておらず、日付も変わっていない。

「……ほら。だから言ったでしょー」

 寝ぼける頭で鍵と扉を開けて、気まぐれなジャックを外へ出してあげた。

「次は泊めないからね」

 三大欲求の一つを阻害されて不機嫌にならない人間は地球上に存在しない。
 ジャックは部屋から出るとそのまま階段の方へ走って行き、

「――――」
「……コンバンワ」

 階段から上がって来た彼の元へとすり寄った。
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