18 / 98
第二部-失意の先の楽園
02 代償と日常
しおりを挟む
歴史を感じさせるビルが建ち並ぶオフィス街の一角。黒塗りの頑丈そうな車が一台、黄色いタクシーの群れを追い越しながら進んでいた。
街の喧騒が届かない静かな車内で、千尋はタブレットで開いた仕事の資料を眺めていたのだが、いくら目を凝らしても目が滑り脳が文字を受け取ってくれない。
小さく溜息を吐いた千尋は、諦めてタブレットの電源を落とすと背凭れに体を預けた。
「千尋、やっぱり顔色が悪いよ」
眉を垂らし心配そうに顔を覗き込んできた成瀬が、素早く千尋の額に手を当て熱を測る。
成瀬がこうして千尋の仕事に同行するのは初めてだった。今回の案件は千尋にとっては今までにない大きなもので、長期間拘束されることになっている。
長期間千尋が帰国しないことに耐えられない成瀬は、運良く舞い込んだ出張と有給も併せて、一週間ほど千尋に着いてきていた。
今日がその最終日で、成瀬はこれから仕事へ向かう千尋とは逆に、帰国するために空港へと向かう。
そんな日に限って千尋は悪夢に苛まれ、兄がわりである過保護な成瀬に心配をかけてしまい、自身の弱さに力なく笑むしかなかった。
体温が低く少しひやりとする成瀬の手の心地よさに息を吐けば、対面に座るレオも成瀬と同じような心配する視線を向けていた。
「やはり寝られていないのが原因だろう。成瀬、安定剤を」
わかっているとばかりに視線を一瞬鋭くレオに向けた成瀬が、ピルケースを取り出し千尋に手渡す。
それと同時にレオのフェロモンが僅かに解放されて、揺らぐ脳が徐々に落ち着きを取り戻していった。
成瀬の肩にもたれ掛かり目を瞑る千尋は夢での出来事を思い出す。
決して忘れさせてはくれない忌々しい運命の亡霊に、千尋は奥歯を僅かに噛みしめるしかなかった。
本能は一度出会ってしまった運命の番をどこまでも追い求めて彷徨い続けてしまう。
相手が番えばブライアンのように何も感じなくなるが、そうでなければ成瀬と同じように死してなお、運命の番はどこまでも付きまとうのだ。
だがこの状態はまだ軽いものだと言える。
もし運命の番と番ってから相手が死んだとなれば、残された方は精神的なダメージを深く負い、廃人となってしまう。
千尋と成瀬がこうして多少の不安定さだけで生活できているのは、お互いの存在があるからではあるが、運命と番っていなかったということが大きかった。
――唯一無二でもないくせに。
そう悪態すら吐きたくなるほど、ここ数週間の夢見は最悪だった。
こうした症状はヒートの前後の不安定になりやすい時期か、多忙を極め体調が悪くなる一歩手前で起きることが多く、数日に一回はこうして悪夢に魘され碌に眠れない。
運命の番を失ってから随分と経っている成瀬も、未だに千尋と似たような症状に悩まされているという。
そう考えると千尋の状態はまだ軽い方だと言えた。それもこれも成瀬が、そしてレオが堕ちてくれたお陰だ。
レオは既に自身の運命を幾つも切り離したが、千尋や成瀬のような症状は見られなかった。
最初の運命を葬り去って以降、その強靭な精神力と千尋のフェロモンだけでレオは亡霊から逃げきっているのだ。
そのことが心底羨ましい。
αとしての高い能力値と、軍人として様々な死線を潜り抜けることで鍛え上げられた常人が持ちえない精神力のお陰だろうというのがレオの見解だ。
そしてもう一つ、千尋がレオにぶつけた運命の番が一番良いものであったと言うのも大きいのかもしれない。
それを乗り越え耐性を獲得した可能性があるとレオは言うのだ。
千尋はΩとしてはずば抜けた能力を持っているが、それだけだった。レオのような強い精神力があるわけではない。
あるのは深く溜まる業と罪悪感。
それらを完璧に割り切れる程の精神力があれば、千尋もレオのようになれたかもしれないのだが、性格上の問題はどうしようもない。
それに加え、運命の番の場所を千尋は自分自身では把握できない、と言いうこともあるのだろう。
αのフェロモンからしか運命の相手が見えないのだから当然だ。
故に、レオのように一番良い運命を断ち切ろうにも、居場所を知らないので出来るはずもなく。耐性を獲得するなど夢のまた夢だった。
何度か深呼吸をしながら、ゆっくりとレオと成瀬のフェロモンを体内に取り込んでいく。この二人が傍にいなければ今の千尋は穏やかに過ごせはしない。
運命を切り離しても、手放しに喜べる幸せはどこにもなく、その代償はとても大きかった。
薬とフェロモンが体内に回りきれば、少しの間睡眠を取る。ゆっくりと進んでいく車内で目が覚めれば、頭はすっかりと冴えわたりいつもの調子を取り戻した。
暫くすると、黒塗りの車は古い高層ビルの地下駐車場へ降りていく。
「大丈夫か千尋」
「えぇ、すっかり回復しました。なる君も肩貸してくれてありがとう」
「これぐらいお安い御用だよ」
「なる君、気を付けて帰ってね?」
「あぁ、千尋が帰って来るのを待ってるよ。レオ、頼んだぞ」
手早く身支度を整えれば、レオが先に車から降りて辺りを鋭い目つきで見渡し、安全を確認をしてから千尋を外へ促す。
「お待ちしておりました、我らが女神。ご案内いたします」
降りた先で待ち構えていたのは、上質なスーツに身を包んだ老齢の男で、頭を深々と下げて千尋達を出迎える。
未だに心配そうに眉を下げる成瀬に窓越しに目配せすると、軽く目を閉じてから背筋を伸ばす。
姿勢を正した千尋は、彼らが望む女神の仮面を被ると優雅に微笑んだ。
街の喧騒が届かない静かな車内で、千尋はタブレットで開いた仕事の資料を眺めていたのだが、いくら目を凝らしても目が滑り脳が文字を受け取ってくれない。
小さく溜息を吐いた千尋は、諦めてタブレットの電源を落とすと背凭れに体を預けた。
「千尋、やっぱり顔色が悪いよ」
眉を垂らし心配そうに顔を覗き込んできた成瀬が、素早く千尋の額に手を当て熱を測る。
成瀬がこうして千尋の仕事に同行するのは初めてだった。今回の案件は千尋にとっては今までにない大きなもので、長期間拘束されることになっている。
長期間千尋が帰国しないことに耐えられない成瀬は、運良く舞い込んだ出張と有給も併せて、一週間ほど千尋に着いてきていた。
今日がその最終日で、成瀬はこれから仕事へ向かう千尋とは逆に、帰国するために空港へと向かう。
そんな日に限って千尋は悪夢に苛まれ、兄がわりである過保護な成瀬に心配をかけてしまい、自身の弱さに力なく笑むしかなかった。
体温が低く少しひやりとする成瀬の手の心地よさに息を吐けば、対面に座るレオも成瀬と同じような心配する視線を向けていた。
「やはり寝られていないのが原因だろう。成瀬、安定剤を」
わかっているとばかりに視線を一瞬鋭くレオに向けた成瀬が、ピルケースを取り出し千尋に手渡す。
それと同時にレオのフェロモンが僅かに解放されて、揺らぐ脳が徐々に落ち着きを取り戻していった。
成瀬の肩にもたれ掛かり目を瞑る千尋は夢での出来事を思い出す。
決して忘れさせてはくれない忌々しい運命の亡霊に、千尋は奥歯を僅かに噛みしめるしかなかった。
本能は一度出会ってしまった運命の番をどこまでも追い求めて彷徨い続けてしまう。
相手が番えばブライアンのように何も感じなくなるが、そうでなければ成瀬と同じように死してなお、運命の番はどこまでも付きまとうのだ。
だがこの状態はまだ軽いものだと言える。
もし運命の番と番ってから相手が死んだとなれば、残された方は精神的なダメージを深く負い、廃人となってしまう。
千尋と成瀬がこうして多少の不安定さだけで生活できているのは、お互いの存在があるからではあるが、運命と番っていなかったということが大きかった。
――唯一無二でもないくせに。
そう悪態すら吐きたくなるほど、ここ数週間の夢見は最悪だった。
こうした症状はヒートの前後の不安定になりやすい時期か、多忙を極め体調が悪くなる一歩手前で起きることが多く、数日に一回はこうして悪夢に魘され碌に眠れない。
運命の番を失ってから随分と経っている成瀬も、未だに千尋と似たような症状に悩まされているという。
そう考えると千尋の状態はまだ軽い方だと言えた。それもこれも成瀬が、そしてレオが堕ちてくれたお陰だ。
レオは既に自身の運命を幾つも切り離したが、千尋や成瀬のような症状は見られなかった。
最初の運命を葬り去って以降、その強靭な精神力と千尋のフェロモンだけでレオは亡霊から逃げきっているのだ。
そのことが心底羨ましい。
αとしての高い能力値と、軍人として様々な死線を潜り抜けることで鍛え上げられた常人が持ちえない精神力のお陰だろうというのがレオの見解だ。
そしてもう一つ、千尋がレオにぶつけた運命の番が一番良いものであったと言うのも大きいのかもしれない。
それを乗り越え耐性を獲得した可能性があるとレオは言うのだ。
千尋はΩとしてはずば抜けた能力を持っているが、それだけだった。レオのような強い精神力があるわけではない。
あるのは深く溜まる業と罪悪感。
それらを完璧に割り切れる程の精神力があれば、千尋もレオのようになれたかもしれないのだが、性格上の問題はどうしようもない。
それに加え、運命の番の場所を千尋は自分自身では把握できない、と言いうこともあるのだろう。
αのフェロモンからしか運命の相手が見えないのだから当然だ。
故に、レオのように一番良い運命を断ち切ろうにも、居場所を知らないので出来るはずもなく。耐性を獲得するなど夢のまた夢だった。
何度か深呼吸をしながら、ゆっくりとレオと成瀬のフェロモンを体内に取り込んでいく。この二人が傍にいなければ今の千尋は穏やかに過ごせはしない。
運命を切り離しても、手放しに喜べる幸せはどこにもなく、その代償はとても大きかった。
薬とフェロモンが体内に回りきれば、少しの間睡眠を取る。ゆっくりと進んでいく車内で目が覚めれば、頭はすっかりと冴えわたりいつもの調子を取り戻した。
暫くすると、黒塗りの車は古い高層ビルの地下駐車場へ降りていく。
「大丈夫か千尋」
「えぇ、すっかり回復しました。なる君も肩貸してくれてありがとう」
「これぐらいお安い御用だよ」
「なる君、気を付けて帰ってね?」
「あぁ、千尋が帰って来るのを待ってるよ。レオ、頼んだぞ」
手早く身支度を整えれば、レオが先に車から降りて辺りを鋭い目つきで見渡し、安全を確認をしてから千尋を外へ促す。
「お待ちしておりました、我らが女神。ご案内いたします」
降りた先で待ち構えていたのは、上質なスーツに身を包んだ老齢の男で、頭を深々と下げて千尋達を出迎える。
未だに心配そうに眉を下げる成瀬に窓越しに目配せすると、軽く目を閉じてから背筋を伸ばす。
姿勢を正した千尋は、彼らが望む女神の仮面を被ると優雅に微笑んだ。
0
お気に入りに追加
1,633
あなたにおすすめの小説
完結・虐げられオメガ側妃なので敵国に売られたら激甘ボイスのイケメン溺愛王が甘やかしてくれました
美咲アリス
BL
虐げられオメガ側妃のシャルルは敵国への貢ぎ物にされた。敵国のアルベルト王は『人間を食べる』という恐ろしい噂があるアルファだ。けれども実際に会ったアルベルト王はものすごいイケメン。しかも「今日からそなたは国宝だ」とシャルルに激甘ボイスで囁いてくる。「もしかして僕は国宝級の『食材』ということ?」シャルルは恐怖に怯えるが、もちろんそれは大きな勘違いで⋯⋯? 虐げられオメガと敵国のイケメン王、ふたりのキュン&ハッピーな異世界恋愛オメガバースです!
孕めないオメガでもいいですか?
月夜野レオン
BL
病院で子供を孕めない体といきなり診断された俺は、どうして良いのか判らず大好きな幼馴染の前から消える選択をした。不完全なオメガはお前に相応しくないから……
オメガバース作品です。
【完結】幼馴染から離れたい。
June
BL
隣に立つのは運命の番なんだ。
βの谷口優希にはαである幼馴染の伊賀崎朔がいる。だが、ある日の出来事をきっかけに、幼馴染以上に大切な存在だったのだと気づいてしまう。
番外編 伊賀崎朔視点もあります。
(12月:改正版)
白い部屋で愛を囁いて
氷魚彰人
BL
幼馴染でありお腹の子の父親であるαの雪路に「赤ちゃんができた」と告げるが、不機嫌に「誰の子だ」と問われ、ショックのあまりもう一人の幼馴染の名前を出し嘘を吐いた葵だったが……。
シリアスな内容です。Hはないのでお求めの方、すみません。
※某BL小説投稿サイトのオメガバースコンテストにて入賞した作品です。
ふしだらオメガ王子の嫁入り
金剛@キット
BL
初恋の騎士の気を引くために、ふしだらなフリをして、嫁ぎ先が無くなったペルデルセ王子Ωは、10番目の側妃として、隣国へ嫁ぐコトが決まった。孤独が染みる冷たい後宮で、王子は何を思い生きるのか?
お話に都合の良い、ユルユル設定のオメガバースです。
初心者オメガは執着アルファの腕のなか
深嶋
BL
自分がベータであることを信じて疑わずに生きてきた圭人は、見知らぬアルファに声をかけられたことがきっかけとなり、二次性の再検査をすることに。その結果、自身が本当はオメガであったと知り、愕然とする。
オメガだと判明したことで否応なく変化していく日常に圭人は戸惑い、悩み、葛藤する日々。そんな圭人の前に、「運命の番」を自称するアルファの男が再び現れて……。
オメガとして未成熟な大学生の圭人と、圭人を番にしたい社会人アルファの男が、ゆっくりと愛を深めていきます。
穏やかさに滲む執着愛。望まぬ幸運に恵まれた主人公が、悩みながらも運命の出会いに向き合っていくお話です。本編、攻め編ともに完結済。
僕の番
結城れい
BL
白石湊(しらいし みなと)は、大学生のΩだ。αの番がいて同棲までしている。最近湊は、番である森颯真(もり そうま)の衣服を集めることがやめられない。気づかれないように少しずつ集めていくが――
※他サイトにも掲載
【完結】あなたの恋人(Ω)になれますか?〜後天性オメガの僕〜
MEIKO
BL
この世界には3つの性がある。アルファ、ベータ、オメガ。その中でもオメガは希少な存在で。そのオメガで更に希少なのは┉僕、後天性オメガだ。ある瞬間、僕は恋をした!その人はアルファでオメガに対して強い拒否感を抱いている┉そんな人だった。もちろん僕をあなたの恋人(Ω)になんてしてくれませんよね?
前作「あなたの妻(Ω)辞めます!」スピンオフ作品です。こちら単独でも内容的には大丈夫です。でも両方読む方がより楽しんでいただけると思いますので、未読の方はそちらも読んでいただけると嬉しいです!
後天性オメガの平凡受け✕心に傷ありアルファの恋愛
※独自のオメガバース設定有り
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。
このユーザをミュートしますか?
※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。