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第6章 寝返りは青薔薇の香り

6-9.ツケはたまりに溜まって

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 着替えるエリヤの前で、ウィリアムは「あ、そこ」と声をあげる。普段から近従を兼ねるウィリアムが着替えさせていたが、今回は包帯だらけの手でボタンを留める姿に眉をひそめたエリヤが「自分でやる」と手出しを禁じた。

 問題はそこから始まった。複雑な飾りボタンを上手に留められないエリヤがイライラし始め、気づくとウィリアムが声や指を出してしまう。そのたびにエリヤが避ける繰り返しだった。

「ねえ、食事冷めるよ」

 宮廷医として、彼らにしっかり食事をさせるために早朝から出向いたのだ。何が悲しくて、2人のじれったい着替えを見守らねばならぬのか。溜め息をついて忠告するも、まだ時間がかかりそうだった。しかたなく座っていた椅子から身を起こたエイデンが、手早くエリヤの服を整える。

「くそ……」

 手出しを禁じられていなければ、オレの役目なのに。そんなウィリアムの鋭い視線に、エイデンはにやりと笑って見せた。

「悔しかったら早く治しなよ。あと……僕がドロシアに頼んだ仕事の報酬、君に払ってもらうからね」

「わかった」

 むすっとした声で両方とも同じ答えで済ませた。ぎこちない動きで食事を終わらせたウィリアムが、愛用の剣を腰のベルトに下げようとする。しかしエリヤがそれを留めた。

「これにしろ」

 黒い柄の短剣を差し出す。黒檀を使った柄と鞘は磨き上げられており、握りが手に馴染んだ。黒檀は硬いため加工が難しいが、艶があり丈夫な木材だ。そのため家具や楽器などに多く使用される素材だった。贅沢に黒檀を使った短剣は値段がつけられない。

「……凄いな」

 すらりと鞘を滑らせた短剣は、質のいい刃が使われていた。どうやら飾り用ではなく、護身用に作られた実用本位の短剣らしい。銀の金具が装飾に使われた短剣を手渡したエリヤが「見つけたからやる」と言い放った。

「みつけた?」

 どこで? そんな質問に「宝物庫の隅にあった」と答える国王は、短剣の価値など考えてもいないだろう。ただ黒を好んで纏う男に似合うと思って持ち出したのだ。刃の厚さから、実用に耐えうると判断したウィリアムは素直に受け取った。

 受け取るか不安そうに見つめる少年の視線に気づいてしまえば、断る選択肢はない。

「ありがたく拝領いたします」

 愛用の剣を残し、短剣を胸元に忍ばせた。微笑んでエリヤの手のひらに唇を押し当てる。身を護る物を常に持ち歩けと示した少年王の気持ちが、ただただ嬉しかった。

「いい加減にしないと、ショーンがキレるから」

 エイデンが呆れ半分に促すと、「しかたない」と苦笑したエリヤが執務室へ向かう。後を追う執政が斜め後ろに従う、いつも通りの光景を見送りながらエイデンは口元を緩めた。






「遅い! あとは任せる」

 わずか数日とはいえ、国王が処理する書類をすべて片づけたチャンリー公爵ショーンが、むっとした口調で立ち上がる。隣に控えていたラユダに「訓練で身体を動かすぞ」と命じて、ペンを机の上に置いた。

「悪かったな」

「そう思うなら失踪騒動はこれきりにしろ」

 書類の山を嫌そうに眺めたショーンは、どちらかと言えば身体を動かす方が得意だ。本来なら国王に届く前に、執政ウィリアムによって精査され分別する書類もすべて、彼の手元に届いていた。

「俺は絶対に国王なんぞならん」

 うんざりしたと吐き捨てて、足音も荒く外へ逃げ出す。ショーンにとって国王は『不自由な鎖』に過ぎないらしい。訓練に付き合わされるラユダが気の毒だが、まあ手練れなので何とかこなすだろう。

「この程度の書類で根を上げるとは、ショーンらしくもない」

 ウィリアムは肩を竦め、痛みに顔をしかめた。誤魔化すように、エリヤの机に積まれた書類をいくつか手に取る。商業関係の申請書類がなぜここに? そんな気持ちでつぎつぎと書類を確認した。

 土地の売買に関する承諾書類、新たな事業の申請書、灌漑施設の修繕願い、新たな孤児院への寄付要請……様々な分野がごちゃごちゃに積み重ねられている。

「しばらく書類漬けか」

 普段はウィリアムが分類して、各部署へ送っている書類がすべて混ざった状態だ。これを分類して、それぞれの文官を呼んで渡し、処理すべき事項に着手しなければならない。休む時間のない現状に溜め息を吐いて、書類の山に手を伸ばした。

 そんな部屋の中、ひらりと落ちた1枚の報告書が机の下に滑り込む。誰も知らぬまま、この報告書が発見されるのは数日後――騒動が起きてからであった。
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