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第3章 白薔薇を赤く染めて
3-7.聖女は微笑む
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書類の決裁を始めたエリヤを見守りながら、ウィリアムは深く深呼吸して覚悟を決める。
本当なら呼び出したくない相手だが、この際、そんな我が侭を言っている場合ではないだろう。
ちらりと視線を落とした先で、エリヤが署名を施す。書類に記されているのは、孤児達を援助する食料や施設の許認可に関わるものだった。達筆な署名に重なるようにして、重く大きな角印が押される。
これで、今年の冬に寒さと飢えで命を失う孤児がゼロとはいかなくとも、かなり減る筈だ。
「エリヤ、神殿に連絡を取る」
眉を顰めたエリヤが顔を上げ、嫌そうに溜め息を吐いた。
「彼女達を呼ぶのか……」
「しょうがない」
エリヤには姉が2人いた。過去形なのは、現在存命しているのが1人だけだからだ。
両親が殺されるより少し前、暗殺されかけたエリヤを庇って命を落としたのは、一番上の姉だった。その後両親が殺された襲撃事件の時、エリヤは神殿に住まう姉姫を訪ねていて助かったのだ。
リリーアリス姫――穏やかな彼女は栗色の髪と紫がかった青の瞳を持つ。ユリシュアン王家に現れる蒼でない瞳が紫がかって見えることで、彼女の運命は決まってしまった。
―――紫の瞳は、神か魔に魅入られた証。
過去の伝説で、神話で、教会や神殿の書物で伝えられてきた言葉だ。王家の血を引くリリーアリスは神殿に入り、その人生を捧げる途を与えられた。
殺される筈だったウィリアムが教会に引き取られたのは、もしかしたら瞳の色が影響したのかも知れない。
まあ、彼女と違い、自分が魅入られるなら『魔』の方だと確信があったが。
「……騒がしくなるな」
ぽつりと零れたウィリアムの本心に、苦笑したエリヤが頷いた。
金色の髪をさらりと背に流し、美しい少女が庭園へ足を踏み出す。色鮮やかな花々が咲き誇る見事な庭園を、優雅な身のこなしで進む姿は神々しさすら感じさせた。
「リリーアリス様、王宮より連絡がありましたわ」
使者が持ち込んだ国王の親書を手渡した相手も、美しい少女だった。
穏やかそうな顔に輝く瞳は、薄く紫を帯びた青だ。栗毛を軽く編み込んだ彼女は、白いドレスを捌いて身を起こした。手にした赤い薔薇が朝露を反射して煌く。
「エリヤから? 珍しいこと」
「先日の襲撃事件が原因でしょうけれど、『あの男』が泣きつくなんて……本当に困っているのですわ」
執政の整った顔を思い出し、くすくす笑う金髪の美女をリリーアリスが咎めるように呼ぶ。
「ドロシア!」
「人の不幸を喜んではいけない――でしたわね」
ちゃんと覚えていましてよ。
悪戯が見つかった子供のように口元を押さえたドロシアだが、悪いとは思っていないようだ。リリーアリスより濃いスミレ色の瞳を細め、軽く小首を傾げた。
「リリーアリス様、使者が返答を待っておりますの。どうなさいますか?」
国王の使者程度の存在に、リリーアリスを直接会わせる気はない。言外にそう告げる心の狭い彼女の問いかけに、半分呆れながら姫は息をついた。
手の中の親書を開いて目を通し、独占欲の強いドロシアを真っ直ぐに見つめる。
「了承しました、と伝えてください」
「あら、王宮へ行かれるのですか?」
不満そうな彼女に、「また盗み見て……」とリリーアリスが苦笑する。
「開封はしておりませんわ。封印も残っておりましたでしょう?」
確かに盗み見ではない。ドロシアが読み取ったのは、文面そのものではなかった。
人や物に残留した思念を読み取る能力は、世間では『魔女』扱いされる。だが、神殿の中で庇護される立場ならば『神からの贈り物』として大切にされるのだ。
――信仰の対象として。
「ドロシア、伝えてきてくださいね」
念押しするリリーアリスに頷き、ドロシアは薄青のドレスを翻して踵を返す。裾を乱さず優雅に歩く姿が、彼女の高貴な出自を物語っていた。
優しかった風が、突然強くなる。足元の砂を巻き上げるような強風に髪を押さえ、リリーアリスは目を伏せた。嫌な予感がする…。
「何もなければいいのですが……」
『神の娘』として崇められてきた象徴たる少女は、憂鬱そうな声で予感を打ち消した。
新月が過ぎた暗い夜、再び密談の場が持たれた。前回と違い、ひどく焦った空気が場を支配している。
「失敗したぞ」
どうするのだと問い詰める老齢の男性の声に、だが応えはなかった。残る1人は静かに目を伏せ、何も口にしない。その無言が気に入らない男性が再び声を発しようとした瞬間、顔を上げた青年が声もなく笑った。
見開いた男の目に映ったのは、自らの罪深さを断罪するような剣の光――目を射る眩しさは、細い月が反射した所為だろうか。悲鳴を上げる間もなく、心臓を貫いた剣は引き抜かれた。
吹き出す血を浴びることなく、青年は笑みを深める。
「愚かな……」
なんと愚鈍で、救い難い存在なのか。
死人を嘲る青年は剣の地を拭い、何もなかったようにその場を後にした。残されたのは、愚かな男の死体と空気を濁す陰謀の臭いだけ…。
早朝齎された情報に、舌打ちしたウィリアムが机を叩いた。
執務に与えられた部屋を飛び出し、足音を抑えずに回廊を抜けていく。苛立ちを浮べた表情と剣幕に、誰も話しかけることが出来ない。国王の私室の前で立ち止まり、深呼吸してドアを開いた。
まだベッドに沈む幼い恋人を見つめ、ベッドの端に腰を下ろす。音もなく沈んだ上質なマットの揺れに、エリヤが薄く目を開く。
「……ウィ…ル」
名を呼んだ国王の唇を掠めたキスの後、執政としての硬い声で呼びかけた。
「陛下」
「……何があった?」
一瞬で意識を覚醒させた国王へ、国政を預かる執政の報告がなされる。
「ミシャ侯爵が殺害されました。……オズボーンの侵攻が始まります」
目を見開いたエリヤは何も言えずに、拳を固く握り締めた。
本当なら呼び出したくない相手だが、この際、そんな我が侭を言っている場合ではないだろう。
ちらりと視線を落とした先で、エリヤが署名を施す。書類に記されているのは、孤児達を援助する食料や施設の許認可に関わるものだった。達筆な署名に重なるようにして、重く大きな角印が押される。
これで、今年の冬に寒さと飢えで命を失う孤児がゼロとはいかなくとも、かなり減る筈だ。
「エリヤ、神殿に連絡を取る」
眉を顰めたエリヤが顔を上げ、嫌そうに溜め息を吐いた。
「彼女達を呼ぶのか……」
「しょうがない」
エリヤには姉が2人いた。過去形なのは、現在存命しているのが1人だけだからだ。
両親が殺されるより少し前、暗殺されかけたエリヤを庇って命を落としたのは、一番上の姉だった。その後両親が殺された襲撃事件の時、エリヤは神殿に住まう姉姫を訪ねていて助かったのだ。
リリーアリス姫――穏やかな彼女は栗色の髪と紫がかった青の瞳を持つ。ユリシュアン王家に現れる蒼でない瞳が紫がかって見えることで、彼女の運命は決まってしまった。
―――紫の瞳は、神か魔に魅入られた証。
過去の伝説で、神話で、教会や神殿の書物で伝えられてきた言葉だ。王家の血を引くリリーアリスは神殿に入り、その人生を捧げる途を与えられた。
殺される筈だったウィリアムが教会に引き取られたのは、もしかしたら瞳の色が影響したのかも知れない。
まあ、彼女と違い、自分が魅入られるなら『魔』の方だと確信があったが。
「……騒がしくなるな」
ぽつりと零れたウィリアムの本心に、苦笑したエリヤが頷いた。
金色の髪をさらりと背に流し、美しい少女が庭園へ足を踏み出す。色鮮やかな花々が咲き誇る見事な庭園を、優雅な身のこなしで進む姿は神々しさすら感じさせた。
「リリーアリス様、王宮より連絡がありましたわ」
使者が持ち込んだ国王の親書を手渡した相手も、美しい少女だった。
穏やかそうな顔に輝く瞳は、薄く紫を帯びた青だ。栗毛を軽く編み込んだ彼女は、白いドレスを捌いて身を起こした。手にした赤い薔薇が朝露を反射して煌く。
「エリヤから? 珍しいこと」
「先日の襲撃事件が原因でしょうけれど、『あの男』が泣きつくなんて……本当に困っているのですわ」
執政の整った顔を思い出し、くすくす笑う金髪の美女をリリーアリスが咎めるように呼ぶ。
「ドロシア!」
「人の不幸を喜んではいけない――でしたわね」
ちゃんと覚えていましてよ。
悪戯が見つかった子供のように口元を押さえたドロシアだが、悪いとは思っていないようだ。リリーアリスより濃いスミレ色の瞳を細め、軽く小首を傾げた。
「リリーアリス様、使者が返答を待っておりますの。どうなさいますか?」
国王の使者程度の存在に、リリーアリスを直接会わせる気はない。言外にそう告げる心の狭い彼女の問いかけに、半分呆れながら姫は息をついた。
手の中の親書を開いて目を通し、独占欲の強いドロシアを真っ直ぐに見つめる。
「了承しました、と伝えてください」
「あら、王宮へ行かれるのですか?」
不満そうな彼女に、「また盗み見て……」とリリーアリスが苦笑する。
「開封はしておりませんわ。封印も残っておりましたでしょう?」
確かに盗み見ではない。ドロシアが読み取ったのは、文面そのものではなかった。
人や物に残留した思念を読み取る能力は、世間では『魔女』扱いされる。だが、神殿の中で庇護される立場ならば『神からの贈り物』として大切にされるのだ。
――信仰の対象として。
「ドロシア、伝えてきてくださいね」
念押しするリリーアリスに頷き、ドロシアは薄青のドレスを翻して踵を返す。裾を乱さず優雅に歩く姿が、彼女の高貴な出自を物語っていた。
優しかった風が、突然強くなる。足元の砂を巻き上げるような強風に髪を押さえ、リリーアリスは目を伏せた。嫌な予感がする…。
「何もなければいいのですが……」
『神の娘』として崇められてきた象徴たる少女は、憂鬱そうな声で予感を打ち消した。
新月が過ぎた暗い夜、再び密談の場が持たれた。前回と違い、ひどく焦った空気が場を支配している。
「失敗したぞ」
どうするのだと問い詰める老齢の男性の声に、だが応えはなかった。残る1人は静かに目を伏せ、何も口にしない。その無言が気に入らない男性が再び声を発しようとした瞬間、顔を上げた青年が声もなく笑った。
見開いた男の目に映ったのは、自らの罪深さを断罪するような剣の光――目を射る眩しさは、細い月が反射した所為だろうか。悲鳴を上げる間もなく、心臓を貫いた剣は引き抜かれた。
吹き出す血を浴びることなく、青年は笑みを深める。
「愚かな……」
なんと愚鈍で、救い難い存在なのか。
死人を嘲る青年は剣の地を拭い、何もなかったようにその場を後にした。残されたのは、愚かな男の死体と空気を濁す陰謀の臭いだけ…。
早朝齎された情報に、舌打ちしたウィリアムが机を叩いた。
執務に与えられた部屋を飛び出し、足音を抑えずに回廊を抜けていく。苛立ちを浮べた表情と剣幕に、誰も話しかけることが出来ない。国王の私室の前で立ち止まり、深呼吸してドアを開いた。
まだベッドに沈む幼い恋人を見つめ、ベッドの端に腰を下ろす。音もなく沈んだ上質なマットの揺れに、エリヤが薄く目を開く。
「……ウィ…ル」
名を呼んだ国王の唇を掠めたキスの後、執政としての硬い声で呼びかけた。
「陛下」
「……何があった?」
一瞬で意識を覚醒させた国王へ、国政を預かる執政の報告がなされる。
「ミシャ侯爵が殺害されました。……オズボーンの侵攻が始まります」
目を見開いたエリヤは何も言えずに、拳を固く握り締めた。
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