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50.壊れたなら、さらに壊してしまえ

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 我が妹リーディアを乗せた馬車が到着する。長旅を労ろうと近づいたアナスタージ侯爵は、飛び出してきた彼女に驚いた。王妃としての振る舞いを心がけた妹らしくない。まるで少女のように、笑顔を振り撒きながらエスコートなしで降りた。

「あら、お兄様。お久しぶりね」

 その挨拶すら結婚前の妹を思い出させた。リーディアは後ろを振り返り、苦笑いして続く息子パトリツィオの手を引っ張る。

「私の部屋はまだある?」

「おかえり、リーディア。もちろん君の部屋はそのままだよ」

 状況が分からぬまま、侯爵は曖昧に微笑み返した。嬉しそうに息子の手を引いて走るリーディアを見て、王妃だと思う人はいないだろう。礼儀も作法も放り出し、帰宅の挨拶すらせずに屋敷へ向かった。老執事が穏やかに受け答え、部屋へ案内する。その間に侍女達が荷物を下ろし始めた。

「何があったのだ?」

「王妃様……いえ、失礼いたしました。その、一部の記憶が曖昧なようです」

 もう王妃ではない。だが結婚して戻ったので、令嬢と称するのも違う。侯爵には妻も子もいるので、奥様でもなかった。複雑な状況を表すように、侍女は呼び名を迷って諦める。

「リーディアの記憶が?」

 そこまで壊れてしまったのか。悲しさと悔しさに拳を握り、急いで彼女を追いかけた。玄関ホール脇の階段を登り、妹の部屋の扉をノックする。すぐに執事が開いて、中に招かれた。

「素敵! 昔と同じよ。私が嫁ぐ前にこの部屋にいたの。パトリス、あなたのお嫁さんに譲ろうかしら」

「母上、昨日も説明したよね。僕はナタリアと離れで暮らす」

「ごめんなさい、そうだったわ」

 言葉ほど落ち込んだ様子なく、リーディアはかつて愛用したソファの背もたれを撫でた。それから侍女が運ぶ荷物を眺めて、突然宝石の入った箱を開け始める。侍女は素直に開封を手伝った。目当ての箱を見つけたリーディアは、大切そうに運んでくる。

「これをにあげて。可愛いピンクの宝石なんて、もう着けないから。若い子に似合うわ」

 差し出された箱を受け取り、パトリツィオは驚いた顔をした後で頷いた。

「ありがとう、母上。あとで彼女と挨拶に来るから」

「ええ、後でね。私はこれから荷物を整理しなくちゃ」

 鼻歌まじりの上機嫌なリーディアは、服や靴を置く場所を指示する。その姿は王妃であった頃を思い出させた。

「何があったのだ?」

 部屋を出たパトリツィオを追った侯爵の疑問に、彼はにっこりと笑った。その表情はどこか暗く、口元に浮かんだ笑みは黒い。まるで人ではない者のようだ。そう感じた侯爵はごくりと喉を動かし唾を飲んだ。

「簡単ですよ。母上が壊れて狂っているから、僕に都合のいいように誘導しました」

 婚約者であるルーチア伯爵令嬢ナタリアは、すでに実家を出発した。母と顔を合わせたナタリアが傷つけられないよう、パトリツィオは母親に何度も同じ言葉を繰り返し刷り込んだ。その成果が出ただけ。

「死産だった姉にこだわる母の執着は、ジェラルディーナ嬢に向かいました。しかしこれは間違いです。ならば執着の方向を誘導して、変更してしまえばいい」

 目の前にいる甥を、初めて恐ろしい存在と認識したアナスタージ侯爵は耳を塞ぎたくなった。だが実際に塞ぐより早く、事実が告げられる。

「僕の大切なナタリアは、あなたの娘です――そう繰り返し上書きしました」
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